愛する人 02
「……、……ハル!ハル!」
「え?」
「ずっと机を拭いているぞ。大丈夫か?熱でもあるんじゃないか?」
近づいてきた杏寿郎が、心配そうな顔で手をハルの額に当てた。
ハルは、言葉に詰まってしまった。
熱なんてないよ、といつもなら言えるのに、直前まで考えていた事をまだ引きずっていてすぐにこの現実に対応できなかったのだ。
そんなハルに、杏寿郎は少し腰を曲げて視線を合わせた。
杏寿郎の真っ直ぐな瞳と焦点が合い、「大丈夫だよ」とハルが答えると、杏寿郎の表情が変わった。
凛々しい眉が少し下がり、悲しげな顔をする。
「ハルは、今何を考えている?」
「……」
「何故自分に嘘をついて気持ちを隠そうとするんだ?無理に笑っているとすぐに分かるぞ。俺には、何も言ってくれないのか?」
「……だって、」
「うん?」
「じゃあ何で、杏寿郎さんは私に何も言ってくれなかったの?ゆき乃さんの家で話したこと。私には関係の無い話かもしれないけど、だけどっ……、」
堰を切ったように次々出てきた言葉。
ハルはその時に初めて自分の気持ちに気がついたのだ。
込み上げる感情に言葉が詰まったハルを、杏寿郎は優しく抱き寄せた。
途端に鼻の奥がツンとしたけど、「大丈夫だ、ハルの気持ちを聞かせてくれ」という杏寿郎の言葉と背中を擦る大きな手に安心して、自分の言葉を吐き出した。
「寂しかった。自分だけが分からなくて、杏寿郎さんのことなのに何も知らなくて。それに杏寿郎さんだって戸惑ったりしたはずなのに、それなのに私は何も気づかなかった。情けない……一番近くにいるのに」
「…すまない、そこまで思い詰めていたとは気づかなかった。寂しい思いをさせてしまったな」
体を離した杏寿郎は、ハルをソファに座らせると、両手を強く握りしめた。
それから、あの日聞いた話を詳しく説明してくれた。
ハルに分かるように話をしてくれたが、それは同時に、ハルの胸を苦しくさせた。
あの日聞いた時は理解できなかった内容が、より鮮明に伝わり、苦しくて涙が止まらなかった。
杏寿郎は前世の記憶を思い出した時に、どんな気持ちになったのだろうか。
自分が死んでしまった瞬間を思い出して、苦しくなかったのだろうか。
自分に厳しく、甘えたりしない杏寿郎は、きっと昔からこうなんだろう。過酷であったであろう前世で、杏寿郎は寂しくなかったのだろうか。
涙が溢れて止まらなくなったハルの涙を、「何故ハルがそんなに泣くのだ」と少し笑いながら話す杏寿郎にハルは思い切り抱きついた。
「杏寿郎さんは、苦しくないの?」
「俺は大丈夫だ。それに前世の記憶は、最初は戸惑いもしたが、納得できることも多かったからな。それに今こうして生きているのだから何も問題はない。記憶があるというだけで、ハルだって前世はあったんだ…変わらないだろ?」
「……そうだね」
「俺は今、とても幸せだ。家族はいるし、俺のために涙を流してくれる優しいハルが側にいる。だから幸せだ」
「杏寿郎さん、私……もっと強くなるね。杏寿郎さんは私がこうして泣くって分かってたから言わなかったんでしょ?その優しさにも気づかなくて寂しいだなんて……こんなんじゃダメだ。私も強くなりたい。杏寿郎さんが甘えられるように」
「俺が?」
「うん、杏寿郎さんが唯一甘えられる場所になりたいの」
ハルの言葉に目を細めて笑った杏寿郎は、ハルを抱き寄せた。
強い腕の力に、ハルは安心した。
もう存分に甘えているぞ、と杏寿郎の声が耳元で聞こえ、ハルは杏寿郎の背中に腕を回し強く強く抱き締め返した。
「大好き、杏寿郎さん。大好き大好き!大好き!」
「おいおい、そんなに言われたら……」
両頬を手で包まれたハルの唇に、杏寿郎のが優しく重なる。
「午後の買い物は、来週でいいのか?」
「うん……杏寿郎さん、好き」
「また更に煽るとは」
笑いながらソファに体を沈める杏寿郎を、下から見上げる。
杏寿郎も愛の言葉を囁き、ゆっくりと顔を近づけ、また唇を塞いだ。
深くなる口付けに、触れ合う温もりに涙が出る。
幸せが、二人を包み込んでいた。