甘く溺れる 03


 自分の気持ちひとつで世界が変わる。
 アルミンとの関係は、何かと問われればただの同居人には変わりないが、心の距離はとても近くなった。
 あのキスを交わしてからも、家にいても何度か唇を触れ合わせた。だけどそれ以上に進まない原因が私自身にあることも分かっていた。
 まだハッキリとしないこの曖昧な関係は、私がまだ彼に「好き」と言えていないからだ。いい大人が、この期に及んでまだアルミンの恋人になる勇気がないなんて。いや、いい大人だからこそ勇気が出ない。


「成瀬さん、その後どうなりましたか?」


 ふぅ、と深い呼吸を吐いた瞬間、隣のデスクから声が掛かる。一応仕事中という事で小声ではあったが、幸いにも私達以外は外回りや休みで誰もいなかった。


「俺が聞くことじゃないって思ってますけど、この前あんな形で別れちゃったし、気になっちゃって」
「そうだよね……竈門くんこの前はありがとう。実はまぁ色々とあって…」
「その感じだと微妙な関係ってことですね」
「さすが鋭いね」
「鼻が利くって言ったじゃないですか俺。あの人、きっと凄く成瀬さんの事大切にしてるんだろうなって思ったんです。根拠はなにもないけど……だから二人がうまくいってくれたら嬉しいなって」
「竈門くん……」
「ほら、明日バレンタインじゃないですか! せっかくだから利用したらどうですか?」


 竈門くんに言われて明日のイベントに気づく私は女としてどうなんだと思ったけど、それは一先ず置いておこう。竈門くんナイスプレイ。
 これは絶好のチャンスだと、アルミンへ渡すためのチョコを仕入れにデパートへと向かった。これなら私も勇気が出せる。きっと天からの後押しなんだと、柄にもなく顔を綻ばせながら、彼を思って選んだチョコを片手に家路へと急いだ。

 その帰り道、今日は確かバイトが休みだと言っていたのを思い出して彼の好きな料理でも作ろうとスーパーに寄った。
 それが良かったのか悪かったのかは分からない。運命と言われてしまえばそれまでだが、駅前でアルミンを見掛けた。
 出てきたのは不動産屋。しかも隣には金髪の女の子を連れ立っていた。そんな瞬間的な場面に遭遇してしまう私は、果たして運がいいのか悪いのか。
 高揚していた気持ちは、一瞬で奈落の底へと落ちていく。不思議と涙は出なかった。







 到底真っ直ぐ帰る気になれず、私は近くの公園のベンチに座っていた。もう日が沈んで公園で遊ぶ子供もいない。寒さで身が縮みそうだった。こんな日に限ってアルミンが家にいるなんて。
 あの子は彼女なんだろうか。不動産屋ってことはきっとマンションを出ていく予定なんだろう。あの子と同棲でもするのかな。やっぱり若い方がいいよね。あぁ、嫌だな。


「アルミンの…馬鹿…」


 きっと私が意地を張っていたから、好きと言わなかったから、アルミンが愛想を尽かしたに違いない。こんな風に拗らせる人よりも素直な子がいいに決まってる。
 今更後悔しても遅いのに、重たい溜め息しか出てこない。このチョコレートももう意味が無い。これで想いを伝えても、余計に惨めになるだけだ。
 紙袋に入ったそれを公園のゴミ箱に捨てようと立ち上がった。その時、背後から私を呼ぶ声がして、それが誰なのかも瞬時に分かって、本当に胸が潰れてしまったのかと思うくらい苦しい。


「コハルさんっ! 何してるのこんな所で。帰りが遅いから探したんだ。今から帰るって連絡があったのに全然帰らないから」


 二人を見ていなければ、連絡なんてしなかったのに。つくづく運に見放されている。


「泣いて、る? どうして……何があったの?」
「……泣いてないよ、別に」
「コハルさん……?」
「アルミンには関係ない! もう家から出ていくんでしょ?! それならもう同居人ですらないんだからもう私に関わらないで!」
「え、ちょっと意味が……何を言ってるの?」
「見たよ、駅前で。女の子と不動産屋から出てくるの。二人で住むの? 良かったね。こんなオバサンよりも若い子の方がいいでしょ。やっと分かってくれた?」


 本心でない言葉が次々と出てくる。本当は私だけを見て欲しかった。ずっと私だけだって言って欲しかった。どうしようもなくアルミンが好きだと言うのに誤魔化してきたツケが回ってきたんだろう。本当に馬鹿だ。
 玉が転がるように目尻から溢れ落ちる涙。恐らく二人を見た時は情報処理が追いつかず出てこなかったのだろう。自分で言葉にして順を追った結果、堰を切ったように溢れ出してしまった。
 それ拭うことも無くアルミンに当たり散らした私は、なんて惨めなんだろう。本当にぐちゃぐちゃで、誰か今すぐにでも心と体を切り離して欲しい。
 嗚咽から肩で息をする私を見つめるアルミンは、きっと呆れているだろう。そう思って何かを言われる覚悟をしていたけど、私に降りてきたのは言葉ではなく彼の温もりだった。
 正面から抱きしめ、その腕の中に私を収める。肩に顔を埋めるように密着する彼が、「コハルさん、僕怒るよ」と怒りなどない穏やかな声色で、私の鼓膜を優しく叩いた。


「僕はコハルさんがいいって言ってるのに、どうして分かってくれないの。本気で若い子がどうとか言ってるなら僕も本気で怒る。そんな事全部わかった上で、好きだって言ってるの分からない?」
「……っ、」
「それから、僕はあの家から出るつもりはない。コハルさんが見たのは確かに僕だけど、あれは同郷の子が今度日本に来ることになって、日本語が話せる僕がいた方がいいって母から言われてついて行っただけ。二人でいた事は間違いないけど、それ以上も以下もないんだ」
「……そんなの分かんないっ…」
「うん、だから聞いてよ。これかもいっぱい聞いて。そしたら僕は何だって答えるよ。だから勝手に悲しまないで」
「アルミンっ…」
「あと、年齢差を気にしてるから言うけど、僕だってコハルさんの身の回りが心配。この前の人もいるしきっと僕よりも素敵な大人の男がいるだろ? コハルさんが気にしているのと一緒で、僕だってコハルさんの魅力に気づく人がいたらどうしようって不安なんだから」


 私から少し離れたアルミンが視線を合わせる。少し困ったように眉を下げながら、「分かってくれた?」と言葉を続けた。これではどっちが歳上なのか分からない。
 嗚咽で言葉にならないから何度もうんうんと首を上下にして頷く。そんな私にアルミンからもう何度目か分からない「好き」が送られた。
 もう考えるのはやめよう。嘘をつくのはやめよう。アルミンにも自分の気持ちにも。


「……っ、き……アルミン好きよっ…」


 涙で滲む世界に、アルミンの笑顔が視界いっぱいに広がっていた。


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