思えば、習い事や課題よりも優先して別のことをするのは初めてだったかもしれない。
今週の琴の練習で弾く曲は、思うように仕上がっていなかった。
今からもう少し練習すればいつも通りくらいには弾けたのだろう。
だが、香織は学校のテニスコートに行かずにはいられなかった。
まだ夏休みのグラウンドには、生徒の姿はほとんどない。
昼過ぎの日差しはピークを迎え、遮るもののない校庭は日傘をさして歩いていてもかなり暑い。
フェンスの外から覗き込むと、誰もいないコートで切原はひたすらサーブを打ち続けていた。
「切原。」
そう呼びかけたが、彼が気がつく様子はない。
香織がコートに入り近づいて声をかけて初めて、切原はラケットを振る手を止めた。
「えっ、新宮…?!」
切原は驚いて目を見開いた。
香織は冷たいスポーツドリンクのペットボトルを差し出した。
「少し休憩しましょ。
朝から練習しっぱなしなんでしょ。」
「なんでそれを…。」
香織は切原をコートの外へ押しやりベンチに座らせると、自分も隣に座った。
「兄様から聞いたわ。貴方が無茶してるって。」
「じゃあ、大会のことも聞いたんだな。」
香織は黙って頷いた。
「…そっか。まあ、そういうこった!」
切原はペットボトルの蓋を捻り、一口飲んだ。
腕に伝う汗が太陽に反射して光る。
「これ、ありがとな。
さあて、まだまだ練習しねえと。」
立ち上がった切原の声色は明るいが、香織からはその表情は見えなかった。
今日の最高気温は36度。
昨日の晩に降った雨のお陰で湿度が高く、かなり蒸し暑い。
「もう少し休んだらどうなの?」
「休んでなんていられっかよ。
弱者は暇なしで困ったもんだぜ。」
切原は気楽に笑ってみせたが、香織が納得していないのを見ると笑顔が消えた。
真剣な表情でラケットを構えると、誰もいないコートの先をじっと見つめる。
「俺は強くならなきゃなんねえんだ。
…あの人達は、もう居ねえんだから。」
切原はぎり、と歯を食いしばった。
きっと無力感と悔しさが整理できなくてどうしようもないのだろう。
自分を痛めつけるかのように、切原は練習を続けていた。
「そうは言っても、貴方が体を壊したらどうするのよ。
それこそ部が破綻してしまうじゃない。」
「アンタには関係ないだろ。」
切原の声は冷たかった。
「…そう。」
今は自分の声が届きそうにないことを悟り、香織はその場を後にした。
切原の言葉が胸に刺さったように重く痛む。
いつかこんな時が来るんじゃないかと思っていたはずなのに、いざ冷たい態度を取られると苦しかった。
「関係ない…か。」
誰にでもなくそう呟くと、また胸を抉られたような感覚に陥った。
(こんなに簡単に、終わるものなのね。)
新学期には席替えがあって、切原とは席が離れた。
彼は休み時間には教室にいないことが多く、授業中は倒れるように眠っていた。
こうしてあっさりと、香織は切原と疎遠になったのだった。