皆が寝静まった頃、乾は自室を抜け出し瀬川の部屋へ来ていた。
先に来ていた真琴がドアを開けて迎え入れる。
昼間の泣き顔は消えていて、冷静さを取り戻した彼女の瞳はもう揺れていない。
瀬川も落ち着いて構えている。2人とも心の準備はできているようだ。
立海は頼もしいマネージャーを持ったものだ。
「どうぞ。」
「ああ、ありがとう。」
真琴に勧められるまま、乾は椅子に腰を下ろして話し始めた。
「まずは、こうなった経緯から話そうか。
始まりは、今年の4月だった。
手塚が突然「マネージャー制度を作ろう」と言い出したんだ。
驚いたよ。あいつがそんな事を言うなんて、思いもよらなかったからな。
…今思えば、それがそもそもおかしかったんだ。」
「その時すでに、手塚はその香とかいうのにやられてたんだな。」
瀬川の言葉に、乾が頷く。
「あっと言う間に宇都美はテニス部に入り込んでいた。
そしてその直後から、手塚が練習に参加しなくなったんだ。
手塚の様子がおかしいことに気づいたが、すぐに他のメンバーにも香が回り、ついに誰も疑問を持たなくなった。
そうして皆テニスをしなくなり、出来上がったのが今の青学だ。
少し前は、本当に一生懸命なやつらばかりだったんだがな。」
瀬川は立海の好敵手である青学の雰囲気を良く知っていた。
それだけに、乾がどんな思いで彼らを見ていたのかを思うと胸が痛む。
きっと自分の居場所が目の前で壊されていく様に、悔しさと歯痒さでいっぱいだったに違いない。
「…恐ろしい力だね、人の心を操っちゃうなんて。お伽話か何かみたいだよ。」
「あの香は特殊なんだ。どうやら宇都美の遠い親戚の先祖が、そういった技術に長けていたらしい。
今はもう失われた製法だから、新たに作ることはできないと言っていた。」
「…あの、質問してもいいですか?」
真琴は小さく挙手をした。
「ああ、構わないよ。」
「ずっと気になっていたんですけど…。
どうして乾さんだけが、操られていないんですか?」
「それについては、単純なことだ。
香の効果は摂取した量に依存する。
少ししか吸っていなければ、効果は薄いし切れるのも早い。
逆に濃い香りをたくさん吸わせれば、ほぼ意のままに操ることができるとも言えるな。
そして気体であるが故に、たくさん摂取させるには密室が効率的だ。
宇都美が入部した頃、俺はたまたま怪我で1週間ほど練習に参加していない時期があったんだ。
宇都美は部室で香を使っていただろうから、部室に寄る機会が少なかった俺には比較的効果が薄かったという訳だ。」
「なるほど…納得しました。」
宇都美は食堂で香を使い、立海の選手全員を一度に手込めにしたのだろう。
今思えば、食堂のドアや窓は全て閉まっていたし、換気扇も止まっていた。
そして香の効かない真琴と瀬川がいなかったことも、これ以上ないシチュエーションであったと言える。
乾は話を戻した。
「怪我が良くなって練習に戻ってから、俺は宇都美に探りを入れた。
騙されたふりをしながら、なるべく遠巻きに観察していたんだ。
それでも、俺も何度も翻弄されたよ。その度になんとか距離を取ってやり過ごしていた。」
乾は真琴と瀬川に真っ直ぐ向き直った。