溺れたい
ててて、と音がしそうなおぼつかない足取りではなくなったのはいつからだろう。
入学式の寮分けの際、一足遅れてきた彼女に目を奪われた瞬間は今も忘れない。クリーム色の血色のいい肌にはちみつを溶かしたような瞳の色。たっぷりとした重たくふわっとした髪の毛。化粧っ気のない顔。式典服の着こなしなんて、酷いものだった。磨けば光るのにまったくもって磨いてない、ほこりをかぶったお人形。
なんの世間も知らないふわふわとした笑顔を浮かべて、ぺこりと一礼をすればとてとてと足音を鳴らして鏡の前に向かった姿。
闇の鏡がディアソムニアか、ポムフィオーレか、しばらくの間うんうん唸り声を上げているかと思えばポムフィオーレ……?と疑問を持った声で寮を告げた時にはそこにいた全員が拍子抜けした。もっと自信持ちなさいよ。
きょとんとしながらも導かれるままポムフィオーレの列に来たと思えば寮長に向かってゆったりと頭を下げる。しばらくすればててて、と音を立てて列の最後尾へ戻る彼女の姿。教養はあるものの、何かが足りない。磨きがいがある。何年ぶりかのポムフィオーレへの女子生徒を贔屓目で見るつもりはさらさらないが磨きがいのある者となれば話は別。
そこからは手塩にかけて彼女を育てあげた。言葉遣いや姿勢、一般教養。物分りがよく聞き分けがいい素直な性格から教えて行ったことはすぐに身に付いていったが、難点がひとつ。
驚くほどに人と壁がなく、常に距離が近い。常識と呼ばれるものが何一つ身についていなかったからそこは苦労した。
異性に容易に近づかないことを注意すれば酷く悲しい顔をするものだから、アタシ意外にはやめておきなさい。と言えば心底嬉しそうに顔をほころばせてぎゅうっと抱きつかれたのはやっぱり躾なればと頭を悩ませた日も。
いや、頭を悩ませているのは今日も同じだった。
授業を終えて寮に帰るため、鏡の間に向かっていた。廊下を歩いていれば少し後ろからやけに甘ったるい声で名前を呼ぶユウ。
振り返ればニコニコと溢れんばかりの笑顔をたずさえてヴィルさま〜と少し駆け寄ってくる。もうててて、と言う音はせず、規則正しいヒールのカツカツとした音が廊下に響く。7cmのヒールも随分履きなれたようでいまでは駆け寄るまでになっていた。
「ユウ、廊下は?」
「はしりません!……早歩きです」
ヴィル様に早く会いたくて、と目じりを下げ首を傾げる。こんなあざとい仕草は1回とて教えたこともないし、やすやすとお披露目するものでは無いと口酸っぱく告げているものの治らないくせのひとつ。悪い気はしないのだが、勘違いする輩が出てきては困る。
周りを見渡すようにきょろきょろと頭を動かし、誰もいないことを確認すればちょこちょこと近付いてきては背中に手を回して胸元に顔を埋める。腕はきつく胴体にまきつけて。
「人前よ」
「誰もいません」
「来たらどうするの?」
「……転送魔法をかけて差し上げる!」
「ちがう、なんでそうなるのよ」
本人の同意なしに転送魔法はかけないものよ、と頭に優しく触れながら小言を言えばはぁい、と手のひらに頭をぐりぐりと押し付けてまどろむように瞳を細めた。
か細い声で「会いたかった、」と呟けば頭に触れる手に自らの手を重ねて目の前におろし、掌にゆっくりと口付けて頬に寄せる。
「次はいつ、」
可愛がってくれるんですか、と。蜂蜜のような色の瞳がとろりと熱を帯びる。先程とはまた違った甘さを含んだ声色がゆるりと鼓膜を撫でた。拗ねたような、欲しがるような顔を覗かせたと思えば耳を真っ赤にして隠れるように顔を埋めするが他に否が応でもぞくりとした欲情が腰元に走る。
いつまでたってもなんの返事もないことに焦ったような表情を浮かべ、まるで『怒らないで』とでもいいたげに眉を下げて恐る恐る見上げてくる。
「……悪戯がすぎましたか?」
「馬鹿ね」
欲しがったのは自分なんだから、覚悟なさい。
会えなかった時間の空白分を埋め尽くすだけの時間を保証するわ、と頬を撫でながら伝えれば嬉しそうな恥ずかしそうな顔でくしゃりと笑って胸にぐりぐりと顔を埋める。
彼女を溺れるほど愛するふりをして、本当は自分が溺れているのかもしれない。幸いなのは、溺れきった彼女がそれに気づかないことだと1人微笑んだ。