ガラス越しの温度



「今から出かけるの?」

「あァ」

玄関で靴を履くために小さくしゃがんだ背に私は問いかけた。

午後8時。世界はとっくに暗闇に包まれている時間だ。
背負われている黒いリュックにはいっぱいにレンズが詰め込まれていることだろう。リュックの横に刺さった脚立を見ながら、今日も帰りは朝方になるのかな、とふと思った。

「今からが、いい時間なんだよ」

「ふぅん」

腕時計を見ながら、実弥は靴を履きなおす。
こちらに向き直って、そう告げる実弥に、私は興味なさげに返事をした。

「戸締りちゃんとしとけよ」

「わかってる」

じゃぁ行ってくる。そういって実弥は玄関の戸をバタンと閉めた。




実弥と付き合ってから、実弥の趣味が写真だと知った。
休みの前日の金曜は、こうやって写真を撮りに出かけるのが常だ。
彼の好きな写真は、工場地帯だったり、廃屋だったり。静寂を切り取ったような写真ばかりで、正直インスタ映えするかといわれれば、否、というような「静」の写真が多かった。その写真を見るのは嫌いじゃない。

一度、彼の撮影についていったことがある。
写真で見れば、只の一枚にしかならないその瞬間をとるために。

準備にどれだけ時間を費やすのか。

場所に行くのにも一苦労。時間帯によっても表情が変わるー。

とにかく、納得の一枚というやつを撮るためには私が想像していたよりも見えない努力が影にあることを知った。
そして一度の撮影で、自転車移動で足が攣った私は以後撮影の参加はあきらめたのである。





休み前日。せっかくだから一人時間を楽しもうと、録画のたまったドラマを見ようとTVの前に座る。
いそいそと冷蔵庫からお酒とおつまみを取り出してテーブルの上に置いた。
綺麗好きな実弥はあまりソファの上で食べることを良しとしないので、いない間の特権である。



ドラマを2本ほど見終わって、冷蔵庫にお酒がないことに気が付いた。

「あー。こないだワインをもらってなかったっけ」

綺麗に整理整頓された棚に視線を移す。
実弥は綺麗好きで、自身が撮影した写真もまるでそこにはまる為に生まれたかのごとく、整列しアルバムとなって棚におさめられている。
棚の最下段のボックスを引っ張り出していると、ふと、その棚の前に一冊だけポンと置かれているアルバムを見つけた。彼がこんな雑多な置き方をするなんて珍しい。

「そういえば玄弥くんが写真借りにきてたなぁ」

実弥の弟の玄弥くんが友達に兄貴が写真を撮ってると話したら、ぜひ見たい!と言われ、アルバムを貸したと言っていた気がする。
別に人に見られるために撮っているわけじゃない。
自己満足だから。と実弥は写真を自分からあまり人前には出さない。




そのアルバムを手に取り何気なくめくる。
羅列した建物、ビル群をどこかの屋上からとったらしい写真、どこかの駅の骨組みの写真。
今回の撮影場所と違うであろう、工場地帯の写真もあった。
白、黒。モノクロ、色薄い写真ばかりだ。本当に彼らしくて笑みがこぼれる。

パサリ、と足元に何か落ちた。
アルバムに挟んでいたらしい数枚の写真だった。

「危ない。棚の下に入らなくてよかった」

慌てて裏返った写真を拾い上げる。

めくって私はあっと声をあげた。

『これ、この間一緒に写真撮りについていった時のだ』

先日、一緒に写真を撮りに行ったとき。
川にかかる電車の鉄道橋を撮るといって、川べりに寄ったときの写真だった。

『ただの橋だったのに、写真に切り取るとこんな風になるのかぁ』

普段何気なく見ている風景が、いつもと違ってみえる。
実弥がカメラを通してみるとこんな風に見えるのかと、なんとなくドキドキする。
モノクロの鉄道橋はいつもより威厳があるようにみえた。

1枚写真をめくると、今度川にかかる同じ鉄道橋が真正面のモノクロ写真が撮られていた。
奥行きを感じるぐっと詰まった写真に見惚れながら、次の写真をめくった。

「あ」

無意識に声が漏れていた。

カラー写真だった。

そこに映っていたのは、まぎれもなく私だったからだ。


川の方に体を向けて、多分鉄道橋のほうを向いている横顔を映した写真だった。
風になびいた髪を束ねつつ、この日卸したてのスカートも揺れている。
自分でも見たことのないような表情をしていた。

いつも風景写真しかはいっていないアルバムの中で、この1枚は特異だった。

気恥ずかしくなって顔を上げたとき。




「ただいま」

集中していたのか、玄関を開ける音に全く気付かなかった。
部屋のドアを開けて入ってきた実弥の声に現実に引き戻される。

「あ・・・、おかえり」

なんとなく挙動不審な私の様子をいぶかしげに見つめた実弥は、私の手に握られている写真を見つけるとあ‘‘っと声を上げた。

「・・・見たのかァ」

「見た」

そういえば、彼の顔は今までに見たことないくらいに赤くなり、隠すように口元を手で押さえた。
「あー」と声にならない声を漏らす。
耐えるように伏せられた表情をかわいいといったら怒られることだろう。

「それはァ、その、気まぐれというか」

「へぇ」

「いや、なんとなく、シャッターを押したっていうか」

「ふぅん」

懸命に言葉をつなぐ耳まで赤い実弥をニヤニヤしながら見つめながら、私はこの上なく満たされた気分になった。


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