knock at the door
どんな会社にも、イケメンだとか、仕事ができるとか、憧れの存在になる人がいる。
私の会社では隣の営業部の不死川さんがそのポジションの人だ。
営業成績はいつも首位を保持し、他部署の仕事でも難なくこなし、上層部とも部下ともコミュニケーション能力も抜群で、出世街道まっしぐら。
顔もちょいと強面だけど、優しく笑った顔のギャップにやられたって人(女性に限らず)は数知れず。
私もそんな不死川さんにやられて彼に恋するモブ女の中の1人だ。
隣の総務課で事務している私と彼は業務中の電話や、ちょっとした届け物を渡す事くらいでしか接点がない。
モブの私を彼が認識しているハズはないので、むしろ安心して私は彼を遠くから見つめることができている。
ヒエラルキーでいえば頂点にたつライオンと、最下層のネズミの関係だ。
ほぼ住む世界が違うと言っても過言ではない。
彼とはもちろん仕事以外に何の接点もない。
私も自分の立場を弁えてるし、ほぼ外野から推しアイドルを応援してる様なものなので、何かのタイミングで一緒の空間に入れるだけでも幸せだ。
ある日、私は同期の男の子に食事に誘われた。
最下層のモブオブモブの私が異性に食事に誘われるなんて、今夜は赤飯状態である。
理由はわからないけどクリスマスが近くなってきて人肌恋しい気持ちには賛同するしかない。
あれよあれよと約束を取り付け、金曜の仕事帰りに駅で待ち合わせをする事になった。
異性と食事なんて家族親戚を除けば何年ぶり!?で、私は完全に浮き足立っていた。
しかも2人きりの食事なんて、はっきりいってデートだ。
喜びと同時にうまく会話できるかなとか、少し不安もあったけど。
約束の金曜日。
6階の上長に書類を提出して、承認の印鑑をもらえれば業務終了だった。
早めに終わらせて同期の彼を待たせないようにしないと、と2階でエレベーターを待っていた。
夕方のこの時間、退社で降りを使う人は多くても、上りを使う人は少ない。
少しして到着した上りのエレベーターにも先に乗っている人は居らず、私は軽やかに乗り込んだ。少し浮かれ気分で6階のボタンと、閉めるのボタンを押す。
「あ!乗ります!」
閉まりかけたドアの隙間から声が響いて、私は慌てて開けるボタンを押した。
「すみません」
会釈をして乗り込んだ人物に私は大きく目を見開いた。
件の不死川さんだったからだ。
「6階を……、あ、押してますね」
「あ、はい」
入り口のエレベーターのボタン前に立つ私と対角線の隅に彼は立つ。
まさかまさかこんな密室で彼と一緒になるなんて。
推しと同じ空気が吸えるなんて、神様ありがとうございます、と1人書類を握りしめながら脳内で神様に感謝をしている時だった。
急にぐらりと大きな揺れを感じたかと思うと、私の体は引っ張られるように後ろに倒れる。
「危ねェ!」
そう、不死川さんが叫んだ気がする。
そこから何度も全身が粟立つような揺れを感じて、私は恐ろしくて呼吸もできずに固まっていた。
多分、時間にして数十秒か数分のことだった。
揺れが収まったと思って、そっと瞳を開けば目の前にワイシャツが見えて、思わず上を向けば驚いたような不死川さんと目が合った。
「大丈夫かァ?」
そういう彼に抱きしめられるような格好でしかも、私は彼の片腕をこれでもかと抱きつく様に両手で握りしめていて、情報が多すぎて脳が追いつかない。
ポカンの惚けた顔をしていたのか、少し可笑しそうに彼は笑った。
「苗字さん?」
彼に優しく名前を呼ばれたことで、私は一気に覚醒した。
「わぁぁ!ごごご、ごめんなさいぃぃ!急なことで気が動転してて!!こんなネズミ如きが!そんな!すみませんすみません!」
慌てて彼の腕を離して、体の距離を取る。
推しとこんなスキンシップを図るなんて本当なら大枚をはたかないとできないとこだ。
全不死川さんファンの皆さまに申し訳ない。
「・・ネズミ?」
不思議そうな顔をしていたが、「とりあえず怪我ないみたいだなァ」と彼は安心したように呟いた。
改めて周りを見渡せば、エレベーターのボタンや天井の電気は消えて、心許ない非常灯が付いているだけの状況だった。
開けるボタンを何度も押すが反応はなかった。
「止まってる……みたいですね」
「そうだなァ」
急な事でパニックになっていたけど、冷静に思い返せば強い揺れは地震だったのかなぁと思い当たる。
「地震で止まったんだろうなァ。非常ボタンは押したし、エレベーターが止まってンだ。そのうち誰か気付いて来てくれンだろ」
低くゆっくりとした口調の彼の言葉は、不安が込み上げてきていた私の心をじんわりと安心させてくれる。
そうだよね、きっとすぐ誰かが気付いてくれるはず。
「携帯、持ってるか?」
「いえ……更衣室に置いたままでした」
「俺も持ってねェ」
小さくため息をつくと、彼は、んーと考えているようだった。
「とりあえず、待つしかねェなァ」
そう言って仕方なさそうに彼は床に座り込んだ。
「いつ助けが来るかも分かんねェ、体力は残しといた方がいいぜ」
そう言われて、私も慌てて彼から少し距離を取るとその場に座り込んだ。
電気も止まってるということは、もちろん暖房なんかもついてないわけで。
冬の気温がじわじわと私の体温を奪っていく。
もう帰るだけと思ってブラウス一枚だったのが間違いだったなぁと、段々と冷えていく手を擦り合わせて、少しでも暖かくしようと試みる。
「!悪りィ、気づかなくて」
不死川さんは立ち上がると、スーツの上着を脱いでふわりと私にかけてくれた。
「!そんな不死川さんも、寒いのに……」
「俺は大丈夫だ。それよりいつも机で膝掛けしてるアンタの方が寒がりだろ」
ニヤリと笑われて、うう、かっこいいと心臓にクリティカルヒットを受けてしまう。
しかも上着から微かに香る香水の男性らしい香り、先ほどまで不死川さんが羽織っていただろう温度を微かに感じる。
死にそうな程、高鳴る心臓にいいぞ、もっと動いて体を温めろ!と小さくエールを送った。
そして、はて、と思う。
「不死川さん、良く私が膝掛け使ってるの知ってましたね?」
「あっ!いや、その……」
何故か慌てている不死川さんに、私は感動していた。
「凄いです!ほぼ話した事もない私の様な者の事まで良く見てくれてるんですね……!観察眼すごい!!」
「いや、そうじゃねェ……、もうそれでもいいけどォ」
小さく拍手する私に、彼は何故か深いため息をついた。
あ、もしかしたら私が毎年使ってる年代物の膝掛けがダサすぎて印象に残っていたのかもしれない。
それでも彼の記憶の片隅に残っていることは私にとってとても喜ばしいことだった。
推しが自身を認識してくれているとは、ファンにとってこの上ない幸せだ。
非常事態だけど思わぬ情報に心弾ませていると、かさりと音がして思わず私は音の方を向く。
そこにはこの世で1番嫌いな見慣れた茶色い虫がいて、私は声にならない悲鳴を上げた。
「!!!!#?!☆%\!!?いやーー!!!」
助けを求めるように虫から対角線上にいた不死川さんに向かって突っ込む。
そのまま体を小さくして顔も上げられず、震え続けた。
「もう、居ねェよ・・」
少ししてそんな神の声にそっと顔をあげて振り向けば、先程の虫がいたところには何もいなかった。
「良かったぁー
言いかけて、はたと今の状況に気づく。
壁を背にした不死川さんの上に乗っかってあたかも私が不死川さんも押し倒そうとしている状況だ。
「ああぁぁぁ!!ごめんなさい、ごめんなさい!!すぐ退きますからぁ!」
全国の不死川さんファンの皆さんごめんなさいこんな乙女ゲーのイベントみたいな事を、1人体験してしまって、と心の中で謝りつつ体を起こそうとすれば、反対に腕を引かれて、再度不死川さんの胸に倒れ込む状況になる。
「あわわわわ、死、死ぬ……」
「……?寒くて死にそうなのかァ?なら、体が冷えてるからくっついてた方がいいだろ」
そういって、更にぐいと私の体を寄せるように抱きしめる不死川さんに、私は昇天しそうだった。
「ありがたい……です」
「どういたしましてェ」
推しへの感謝を不死川さんはお礼ととったようで笑いながら体をくっつけてくれた。
不死川さんに後ろから抱きしめられるような格好で、むしろその状況で死にそうなのだけど、ただただ状況が変わるのを待つ。
だいぶ時間が経った様な気がするが、何の音も聞こえず、助けはまだ来なかった。
「あ、そういえば今、何時かわかりますか?」
時計をしてなかった私は不死川さんに問う。少しシャツを捲って時計を見てくれるその仕草一つにも男らしさが滲んで卒倒しそう。
「……19:30だなァ」
「そうですか……」
約束の19時は過ぎちゃったなぁ……まぁ、向こうも食事どころじゃないだろうけど。
ここから出たら電話して1番に謝らなければと考える。
「なんだァ?予定でもあったのかァ?もしかしてデートかァ?」
興味ありげに聞いてくる不死川さんにはい、と答えれば「はっ!?」と何故か焦ったような返事が返ってくる。
「え?!彼氏でも出来たのかァ?」
「いえ……彼氏とかじゃなくてただ食事に行く予定だったんですが……」
この調子じゃ今回は中止ですね、といえば、ふぅんと何故か面白くなさそうな声。
「不死川さんはたくさん女性と食事行くことあるでしょ?」
「接待以外ねェなァ」
「え?意外!」
「……本当に好きなやつとしか行きたくねェし」
あの人気ぶりだし、取っ替え引っ替えなのかと思ってたけど、不死川さんは意外と一途らしい。
「異性と食事の時の会話ってどんな感じですか?私、行ったことなくて……」
「……それ、俺に聞くのかよォ」
何故か釈然としない様子の不死川さん。
でも私にとっては一生に一度のチャンスなのだ。
ライオンの不死川さんとこんな話、というより会話自体できるチャンスなんてもうないだろうしと思いながら、是非教えてください!と聞く。
「……じゃァ会話の練習でもするかァ?」
「わ!いいんですか!ぜひ!!」
「……苗字さん、彼氏いるんですか?」
急な敬語に、あ、そうか"練習"になったのだと慌てて切り替える。
「いえ!居ません。年齢イコール彼氏居ない暦です」
「ぶっはッ!正直ィ」
「嘘言っても仕方ないと思うので」
「今度はそっちから会話振ってみろォ」
「えぇ……えーっと、ご趣味は……」
「見合いかよォ」
声を押し殺して不死川さんは笑ってる。
緊張してるだけだし!普段ならもっと気の利いたこと言えるはずなんで!と1人拳を握りしめた。
「どんな男性がタイプだァ?」
練習の会話も段々とフランクになり、気づけば普通に不死川さんと会話してる状況になっていた。
「そうですね、優しい人かな?」
最推しは貴方です!とは流石に言えない。引かれそうだしと踏みとどまる。
「不死川さんはどんな人がタイプですか?」
全国の不死川さんファンの皆さん、貴重な意見を聞いてみますね!とインタビュアーを代表する気持ちで不死川さんにきいてみる。
「そうだなァ……ちょこちょこ動いてる小動物みたいな奴」
「へぇー」
意外。
不死川さんのことだからもっと色気の溢れた人が好みなのかと勝手に思っていた。
「後、寒がりで、派手な膝掛け使ってる奴」
「なかなか断定的ですね……」
もしかして誰かのこと言ってるのかなと、濃い紫の瞳に見つめられながら考える。
もしかしたら、先日ピンクの蝶柄の膝掛けを買ったって言ってた胡蝶先輩では!?と思い当たる。
胡蝶先輩おっとりしててなんとなくウサギっぽい可愛らしい雰囲気だし。
「あ、私わかっちゃったかもです!」
「ん?」
何故か少し期待しているように不死川さんは体を揺らした。
「胡蝶先輩ですねっ!?」
どうだと言わんばかりにびしりと告げれば、彼は頭を抱えて天を仰いだ。
「そうかァ…成る程、手強いわァ…」
「そんなに、不死川さんが思い悩むほどの相手なんですか!?」
頂点に立つ不死川さんにも靡かないような稀な女性もいるんだなぁ、変わった人、なんて思ってれば、急にドンドンと扉を叩く音がエレベーター内に響いた。
『誰かいますか?!いたら返事して下さい』
「!はい!閉じ込められてます!」
『すぐに開けますので、もう少し頑張ってください』
声の後、扉の向こうが騒がしくなる。どうやらやっと助けが来た様だった。
「わー!よかったですね!」
はっと冷静に状況を見れば、不死川さんにバックハグされたままの今にも死んでもいいような状況に慌てて距離をとる。
「あ、ありがとうございました!」
「おォ……」
何か言いたげな不死川さんだったけど、次の瞬間、開いた扉から乗り込んできた救急隊の人に目をうつした。
私がやっと会社を出たのは21時を過ぎていた。
怪我がないかとか、精神的に大丈夫かとか色々確かめられてやっと先程解放された。
地震はそんなに強い揺れではなかったのに、ビルの高所にエレベーターがあったので強い揺れにあってしまい、古くなっていた部品が壊れて止まってしまったとのことだった。
会社の外で、慌てて携帯を開くも何件もの着信とメール。
例の同期の男の子からで、私が無視したと思われてたらしく、お怒りのメッセージで終わっていた。
「あーぁ、ついてないなぁ…」
謝罪のメッセージと、状況説明を送るけど既にブロックされているのか既読にすらならない。
「今日は災難だったなァ」
話しかけられて顔をあげれば、不死川さんが手を上げていて、先ほどまで密着していた温もりを思い出して頬が熱くなる。
「不死川さん」
「食事、なくなったのかァ?」
「えぇ、相手を無駄に待たせちゃって申し訳なかったです」
電話もメールも繋がらないと、苦笑いすれば真面目な顔で不死川さんは私の顔を見つめてくる。
「俺なら食事に行く予定の相手の事、めちゃくちゃ、心配するけどなァ」
「さすが!優しいですね」
推しはフォローも素晴らしいと、うんうん頷く。
やはり件の同期なんて足元にも及ばない。
「今から暇なら、模擬デートの練習の続きに飲み行くかァ?」
「!いいんですか!?ぜひ!」
これはいい勉強になりそうだ、と胸躍らせる。
あれ?でも一緒に飲み行くならもう模擬っていうか、ただのデートー
「俺も頑張って、オトさねェといけねェ相手が居るからよォ」
「!そうなんですね!随分と鈍感なんですね、相手の方」
こんな素敵な不死川さんに想われてるなんて羨ましいし、早く気づいてあげてほしい。
「あァ、俺に抱きしめられても全く顔色を変えない程にはなァ」
おまけ
居酒屋にやってきた2人。
「そんな顔色一つ変えないような女性がいるんですね……!不死川さん、頑張って下さい!練習とか必要だったら、今日のお礼もかねて付き合いますので!」
目の前で、任せろとばかりにぐっと拳を握る名前をみて、実弥は頭を抱えた。
「お、おォ……(前途多難だなァ)」
好きって伝えても意味が伝わらない気がする。虫がつかないように気をつけて、ゆっくりと気づかせるしかないかと、実弥はお酒を飲み干した。
MONOMO