「あーあ、こりゃまずいな」
すっかり一面厚い雲に覆われてしまった空を仰いで先輩がため息をつく。ほんの一瞬のことだった。生ぬるい風に煽られて乱れた髪の毛を結び直していたら、いつの間にか太陽は姿を隠し、辺りには物置小屋の中のような湿っぽい匂いが充満していた。
程なくしてぽつり、ぽつりと降り始めた雨の中、防水呪文をかけたゴーグルを付け箒にまたがる。雨はだいぶ強くなっているものの、ゴーグル越しなら視界は比較的良好だ。
先輩が焦げ茶色の箱の中から大切なものを取り扱うように、手袋をはめた手でそっとスニッチを取り出した。箒を握る手に力がこもる。私は小さく息を吐いて、一点に意識を集中させることに全力を傾け始めた。降りしきる雨はとうに気にならなくなっている。飛ぶ前にいつも覚える、全身を突き抜けるような高揚感。もう一度息を吐いて、掲げられた金色のスニッチに目を向けた。
「さあ、二人とも準備はいいか……っておい。ポッター、何笑ってるんだ?」
「いや、大丈夫ですよ」
肩を震わせて忍び笑いをするポッターは全然大丈夫そうに見えない。ちらりと観客席に目をやっては腕でゴーグルを覆い、また目をやっては顔を背けて笑うというのを繰り返している。私と先輩は不審に思ってポッターの視線の先を辿った。
「誰だ、あれ」
ここからでも明らかなほど美人な女子生徒が立ち上がって、グリフィンドールの男子生徒と激しく何かを言い争っているのが見える。
「見たことない子だな……」
気の抜けた声を出す先輩に、後ろでポッターがこらえきれずにどっと吹き出していた。
誰だろう。私は目を凝らしてその女子生徒を観察した。ウェーブのかかった黒髪にスラリと高い背丈。……えっ! ちょうどこちらを振り返った彼女と目が合った。きっと今、私は先輩に負けないくらいの間抜けな顔をしている。
「な、ブラック……」
「よくわかったね、ミョウジ」
「何がわかったんだ? ……なあ、黙ってないで教えろよ」
「へえ、彼女のこと気になるんですか? いやあ、先輩さすが」
「何だよ、お前! いつもそうやって」
そのまま二人は至極幼稚な言い争いを始めてしまった。本当に仲が良さそうだ。ああ、でもチームメイトだから当たり前か。ため息をついて、何となくまた観客席のほうを見る。目が合った。'彼女'はにやりと笑うと、今度はこちらに向かってウインクしてきた。
「は……」
私はイライラと頭を掻き、箒を握り直した。一つの可能性が浮かび上がる。もしかすると、あの女装したブラックはポッターとグルで、私の気を散らそうと企んでいるのかもしれない。そうだとしたら変な手段にも程がある。他にもやり方はいくらでもあるだろうに。でも、そんな手には乗らない。
深呼吸して、いまだに会話を止めない彼らに向き直る。
「あのそろそろ――」
「つまんねーの、シリウス・ブラックかよ」
「はは、残念でしたね! せっかく紹介してもらおうと思ったら男だったなんて」
「うるせえ。ポッター、お前のせいだ」
「いやあれは、僕がベッドの上に放置してた試作品を勝手に食べたシリウスが悪いんです。でもまさか、ぶ、その姿で応援しに来るとは予想外だったな」
「……お前らの部屋、随分と物騒なんだな。そんなもんがゴロゴロあんのか。あ、やべえ、時間がそろそろまずい」
先輩が時計を確認しようとスニッチを握った手を動かす。その瞬間、轟音とともに強い風がすぐそばを吹き抜けた。
「うお!」
驚いて先輩が手の力を緩めた隙に、羽を広げたスニッチが宙に躍り出る。鈍い光の残像を残して、それは一瞬にして私たちの頭上から消え去った。
大粒の雨はいつしか霧雨に変わり、着実に身体を冷やしていった。ずっと箒の柄を握りしめたままの両手は、いまやほとんど感覚を失ってしまっている。何度目になるかわからない大きなくしゃみをして、私は前方を見据えた。やはり駄目だ。立ち込める霧に阻まれて、地面はもちろん、1メートル先すらはっきり見えない。
私は身を屈めて再びゆっくり移動し始めた。どのくらいの時間が経ったんだろう。スニッチは最初のうちは上空へと逃げていくから、とりあえずこんな見通しの悪い場所をうろうろしているのだけれど、まだ一度もその姿を見かけていない。それとも……。最悪の事態が頭をよぎる。私よりも場数をこなしたポッターのほうが悪天候での飛行に慣れているだろうし、とっくにスニッチを見つけて追いかけているのかもしれない。
途端に胃が落ち込むように気分が降下していくのを感じた。先ほどまではあまり気になっていなかった寒気が酷くなり体が震える。こんなに天候に左右されることになるとは思わなかった。ああもう、視界が悪すぎるのがいけない。大体、スリザリン生がバットを飛ばしたりなんかしなければ、天気の良いうちに始められたのに。
言い訳ばかりが次々と飛び出してくる。それほどまでに私には余裕がなくなっていた。
「どうしよう……」
これ以上、あてもなく上空を飛んでいても仕方がないだろう。それに霧がますます濃くなってきているし、風も強いからとても危険だ。よし決めた。競技場のほうへ戻るしかない。
私がそのように決意して下降の体勢に入った時、赤いものが凄まじい速さで近くを通り過ぎていった。反動でよろけてしまった私は箒の柄を掴み直し、目を瞬く。……ポッターだ。
慌てて後を追う。一面に広がる白い世界の中で、はためくユニフォームの赤い裾だけがかろうじてわかる。見失ったらまずい。速度を上げるため、私はさらに身を屈めた。叩きつけるような風が全身に襲いかかり、剥き出しの両耳がじんじんと痛む。口をきつく閉じる。
しばらくそのままの体勢で追い続けていた私は、一向に縮まらない距離に歯ぎしりしたくなった。速すぎる。同じ型の箒なのにおかしい。普段は常に余裕をかましてるポッターも、今回ばかりは全力なんだろう。……やっぱり私も負けていられない。
遠くで雷が落ちる低い音が聞こえる。けれど不思議とこの悪天候に対する恐怖心も、苛立ちもすっかりなくなっていた。前を飛ぶポッターとの距離もだいぶ縮まっている。私は思わず頬を緩めた。ゾクゾクするような快感が全身を満たしていく。その気分を反映したかのように、突然、霧が消え失せてその代わりに競技場が視界に飛び込んできた。
「あっ!」
ポッターの姿が露わになったと思えば、彼はすぐに急旋回して観客席のほうへ鋭く向かっていった。その先には――スニッチがあった。
瞬く間に私とポッターは手を伸ばせば取れる位置までスニッチとの距離を縮めた。けれど、いつまで経ってもまったく逃げる気配がない。ポッターも不審に思ったらしく、その場でぴたりと動きを止めた。静寂の中、スニッチの羽の音だけが響く。まるで私たちの存在など気付いていないかのように、優雅に弧を描いて飛ぶ様に目を奪われていた。
その時、不意にスニッチが大きく旋回した。嫌な予感に身がこわばる。
「くそ!」いち早く反応したポッターが舌打ちした。
飛び手を嘲るみたいに、スニッチは素早い動きで観客席の支柱の間を進んでいく。私は歯を食いしばり、自分の持ちうるぎりぎりまで速度を上げることに意識を集中させた。次々と目の前に飛び出してくる障害を必死に避けながら、ただひたすら前方の金色を見据える。時々、並走するポッターと肩がぶつかり合い、箒からふるい落とされそうになったけれど、知らぬ間にそれもなくなった。
音は何も聞こえない。静かな空間で私とスニッチだけが対峙していた。次の動きを読み、思い切って箒を左に傾ける。予想通りに追い詰められたスニッチは、行き先に迷うように羽をばたばたと動かした。一瞬が永遠に感じられる。私は息を大きく吸い込んだ。
慎重に箒から両手を離し、震える足に全体重をかける。今ならいける――私はすぐ目の前できらめく光に向かって一気に腕を伸ばした。