あの日以来、何もかもが拍子抜けするほど異なる意味を持つようになった。例えば、食事をとる時。いままでは料理の味の濃さに時折眉をひそめながら、決まって溜まりきっている課題の存在を思い出し、どうしようもなく怠惰な自分にため息をつくための、不愉快な内省の時間だった。
一方、ここ最近はまったくため息をついていない。だからと言って課題が進んでいるわけではないけれど、ひっきりなしに話しかけてくる近くの席の人たちに、クィディッチの話をすることに精一杯で、そんなことを考える余裕など全くなかった。
「くそ、ポッターおっせえな。約束の時間から三十分遅刻だぞ」
「またどこかで油売ってんだろ」
「俺はもう待てない」
「俺も〜」
「ああそうだな、先に始めておこう。文句はなしだな。ではジョッキを……グリフィンドールの我らが新女王に乾杯!」
ジョッキどうしが乾いた軽快な音を立てる。三本の箒の店内は生徒たちで混み合い、話し声や食器のぶつかり合う音で満ちていた。今ここで誰かが「実はスラグホーンはカツラだ」と叫んだとしても、気づく人なんていないだろう。
けれどこのテーブルは目立つらしく、そばを通り過ぎる人たちは必ずと言っていいほど、ちらちら視線をよこした。
何だか落ち着かない。私は温かいバタービールを一口すすり、伸びすぎた指の爪をぼんやり眺めた。部屋に帰ったら早く切らなきゃ。爪を伸ばしておくのは好きじゃない。
手元から目を離すと、ちょうどキャプテンの不思議そうな視線にぶつかった。
「随分と控えめな乾杯だったな。もしかして日本では違うのか? こういう風に音を立てちゃいけないとか」
「ええと、そういうわけでは……」
「なら、どうして――」
「なあ察しろよ。ミョウジは店内で目立つのが嫌なんだろ。ただでさえ、最近ずっと注目浴びっぱなしなんだしさ」
思わぬ助け舟にほっとする。私が困ったような笑みを浮かべて頷くと、キャプテンは渋々ながら納得してくれたようだった。
いまさらあまり目立ちたくないだなんて、馬鹿げた言い草だということはよくわかってる。ただこれ以上、自分から進んで目立つのは出来れば避けたかった。
皆からの称賛の視線が鬱陶しいとか、あからさまな態度の変化が不愉快だとかいうわけではない。我ながら驚いたことに、このようにたくさんの人に囲まれたりするのも悪くないと思い始めていた。……正直に言うと、悪くないどころか、くすぐったいようなふわふわした心地よさ。これまで経験したことのないそんな感覚が心の奥底から湧き上がって、幸福だった。
ふと右頬に違和感を覚えて、私は窓のほうを振り返った。いま確かに、あの視線を感じたのに……。また、何でもなかった。決して良いものではないっていうことだけは明らかだ。どちらかというと、悪意のこもった鋭い視線。
もう一度、窓の外を目を凝らして見てみたけれど、通りを行き交う人たちは誰一人としてこちらを見ていない。途端にお腹の中に広がっていったもやもやとしたものを無視して、私は仕方なく窓から目を離した。
「ブラック! ちょうどいいところに来たな」
「げっ!」
苦虫を噛み潰したような表情のブラックが、キャプテンに右腕を掴まれていた。もう一方の腕には、不機嫌さを隠そうともせず、思いきり顔をしかめた女子生徒がくっついている。見たことない子だ。この間に一緒にいたのは、彼女ではなかったような気がする。
無意識のうちにじっと観察していたら彼女のブルーの瞳と合いそうになり、私は慌てて目を逸らした。
「おい、待ってくれよ。今回はビーターの勧誘じゃないんだ」
「……じゃあ何だよ」
「ポッター見かけてないか? どこにいるか、わからないんだ」
「ああジェームズとは今朝以来、一度も顔合わせてないからわからないな。お役に立てなくてすみませんね、先輩」
どうやらブラックはキャプテンとは相当仲が悪いらしい。いや、正確にはブラックが一方的に煙たがっているみたいだ。
「なんだ、お前ならポッターのことは何でも知ってると思ったのに」
「まさか。すべての行動把握してたら気持ち悪いだろ、さすがに」
その時突然、ブラックのそばの彼女が鼻をすすり始めた。このテーブルの全員が驚いて視線を向ける。絵の具を溶かしたような澄んだ瞳には涙が溜まっており、いまにも堰を切って溢れ出しそうになっていた。
「あー大丈夫か?」
躊躇いがちに声を掛けたキャプテンを無視して、彼女は唖然としたブラックを一睨みしてから店を出て行った。
「お前……何あったんだ」
ブラックはしばらく出入り口のほうを見つめていたけれど、不意にこちらを振り返った。その口元には、すでにいつものにやにや笑いが浮かんでいる。
「これで、ホグズミードに来た本来の目的を果たせる」
じゃあまたな、と片手を挙げて上機嫌にブラックは店を出て行った。
何ていう切り替えの早さ。キャプテンたちも呆れたように顔を見合わせていた。
「いつでもこの間みたいな女装してればいいのにな、ブラック。そうすればこんな問題も起きない」
「それ、見たかったわー」
「美人だろうな、絶対」
あれは何だったんだろう。咄嗟にあのブラックの姿を思い出してしまった。何も関係ないのに、なぜだかよくわからない恥ずかしさがこみ上げてくる。
「そういやミョウジ、この前に渡した配置案は持ってきてくれたか?」
「……あ、持ってきました」
「よしよし、じゃあ作戦会議始めるぞ」
バックの中から丸まった羊皮紙を取り出し、いつもの癖で内ポケットにも手を入れる。
……まさか。焦って手を動かす。来るべき感触がない。手を抜き出しその中を覗き込むと、やはり何も入っていなかった。
▽
カーディガンを羽織り、消灯時間ぎりぎりに部屋を抜け出した。暖炉の炎が消えかけた談話室を通り抜け、行き先に人影がないことを確認し速足で歩き始める。その途端にひんやりとした空気が服の中に流れ込み、私は小さく身震いした。
こんな時間帯にマダムポンフリーは医務室にいないだろう。あまり期待はしていない。たぶん入浴中だから。ブラックに言わせれば気持ち悪いほど、私はマダムの行動を把握している。もちろんストーカーなどではない。頻繁に訪ねているうちに、いつの間にかマダムの行動リズムを把握してしまっていたというだけだ。
薄暗い廊下の先に、ぼんやりとした灯りに照らされた医務室の扉が浮かび上がる。中にはマダムがいないに、一ガリオン。嫌な音が鳴らないように、ゆっくりと扉を押し開けた。
「うそ……」
一瞬にして一ガリオンが吹き飛んだ。
「どうしたのですか、ミスミョウジ。もう消灯時間のはずですが」
「あ、はい。わかっています。ですが、いつもの薬を切らしてしまって。今日それに気がついたんです」
マダムは目を瞬き、「ああ、先週……来なかったからですね」と納得したように呟いて、奥の部屋へと消えていった。
しんとした静寂が落ちる。何度訪れても、この部屋に充満する独特な鼻をつく匂いに慣れない。鼻を手で覆って辺りを見渡す。カーテンの引かれていないベッドは、珍しく一つもなかった。風邪でも流行ってるのだろうか。
「お待たせしましたね」
突然、マダムが目の前に現れた。驚きのあまり腰が抜けそうになる。
「何をそんなに驚いているのですか」
「足音も立てずに現れるなんて卑怯です」
「……生徒たちを起こすわけにはいきませんから」
「もっともらしい理由ですね」
「ええ、本当のことですよ」
とぼけるマダムにこれ見よがしにため息をつく。手渡された包みを腕に抱え、私はベッドを振り返った。
「満杯なんて珍しいですよね……何かあったんですか?」
「怪我人が大量に運び込まれたのです、少し前に。何があったのかは、まだわかりませんが」
おかげさまで入浴時間がどうたらという言葉も聞こえてきたけれど、いつもの要領で聞き流した。
「へえ、怪我人……」
「それも全員スリザリン生でした。何か知っているのですか、ミスミョウジ」
「もちろん知らないので、さっき質問したんです」
「満月も近いですし、あなたがイライラするのは無理もありません」
「……」
「今度から薬を切らさないように注意してくださいね」
まだ入浴していないせいでイライラしているのはマダムのほうなのに、という言葉は飲み込んだ。