三 朝まだき
もう少し、もう少しで日が昇る。木々の切れ目から見える空の色に逸る心を必死に抑え、四足歩行で這い回る姿を雄叫びを上げて追った。
水分を求めてからからに乾く喉を唾で湿らせ、刀を持つ手を持ち替えて大きく息を吸い込む。
「逃げるなぁ! さっきの威勢はどうしたぁ!!」
「許して! おねがい! 助けてえ!」
鬼気迫る叫び声が森に響く。
鋭い八重歯を生やした少女の姿をした鬼は、それに対して悲痛な叫び声を上げた。本来攻撃的である筈の鬼が悲鳴を上げて逃げ縋っている。だが編笠を目深にかぶった人間は聞く耳を持たず、ボロボロにほつれた羽織の袖を翻して刀を振るった。
一拍遅れて、ぼとんぼとんと転がり落ちるのは鬼の両足だ。少女の姿をしたそれは大粒の涙を流しながら腕だけで木に上ろうとするが、伸ばした片腕もまた切断された。
「グッ……酷い酷い酷い酷い! もうあたしは戦えないのに!人でなし!化物!死ね!」
「黙れ! 三時間前も同じこと言って襲ってきただろうが!」
「ぐ…!」
もはや鬼に戦闘意欲は残っていなかった。
もともと最近は人を食えていなかったから、傷の再生速度が目に見えて落ちてきていた。真夜中に鬼殺隊士ではない人間が襲ってきたので、鴨がネギを背負ってきたぞとほくそ笑んだのだ。
鬼に余裕がなくなったのは戦いが続いてから数時間後のことだった。
鬼は、特別な血鬼術は持っていない。ただ、脚力が強いので逃げ足は速かった。これまでに何度も追いかけてくる鬼殺隊士を撒き、姿を見失って右往左往する後ろ姿に奇襲をかけ、次の日には獲物となる人間を探したものだった。
しかし、今回の人間はその足に追いついた。本当に人間なのかと疑うほどに速く、強かった。時々腰に提げている瓢箪の水を素早く飲んでいる所を見ると、やはり普通の人間の筈なのだが……。
互いの動きが鈍らず、同じペースで戦い続けていると、もはや鬼対人間という土俵は崩れ落ち、ただの化け物同士の根比べになる。鬼が「疲れた」と感じるようになってからは一挙一動のたびに四肢を切り落とされた。たとえ日輪刀では無いただの日本刀だとしても、夜通しそんなことをされてはかなりの脅威になる。
足を再生できないまま上半身だけで逃げ縋るが、片手だけで木に登る体力は残っていない。木の根元にへばりつき、息を荒くしながら背後を振り返ると、日本刀を片手に持った人影がすぐそこに立っていた。呼吸は少しも荒れていない。ただ顔は少し赤らんでいた。これを見たから、具合が悪いのだと高をくくっていたのに。
人間は起き上がることができない鬼を見て立ち止まると、もう逃げられまいと踏んだのか、天を仰いで大きく深呼吸をした。懐をおもむろに探り、取り出した懐中時計を開いて時間を確認する。
「……はあー…やっと…日の出…そろそろだ……」
「っ!?」
日の出! まずい、逃げなければ!
鬼はぎょっと木から離れて匍匐前進を始めるが、人間がそれを見逃すはずはなく、鬼の背中に刀を突き刺して地面に縫い止めた。
「ぎゃっ! ああああ……く、ぉ、こ、ろさないでっ、お願いします…ひ…」
「命乞いに効果なんか無いって、お前が一番よく知ってるだろー、この人殺し」
まるで猫のように、無理やり襟元の皮膚をわし掴んで持ち上げる。鬼の体は"短く"なった分だけ随分と軽くなっていた。
鬼はまるで人間のように「嫌だ、嫌だ、死にたくない、嫌だ…」と息苦しそうに喘ぎながら泣きじゃくる。人間は苛立った表情を浮かべるだけで何も答えなかった。ずるずると引き摺られ、どこかへ連れて行かれる。途中で石やら枝に当たって体が傷ついていく。その都度鬼は「痛い」と弱々しい声をあげて呻いた。
「早く日輪刀がほしいな。そうすりゃ一晩かけなくて済むのに…」
「ヒ…痛っ…放し…」
これではどちらが鬼か分からない。
人間は木々の枝を片手で掻き分け、高台の岩場へ上り詰めると刀を納めた。すでに空は濃紺色に変わり、地平線へ向かうにつれて薄い水色へと染まり始めている。つかの間、手を離されたことに安堵した鬼は逃げ出そうとするが、鬼の履いていた袴を人間がしっかと踏みつけて行く手を阻んでしまった。
人間、妙齢の背が高い女は地平線をぼんやり眺めながら持っていた刀を鞘に納める。何をするのかと思えば、足元に倒れている鬼の体を両手で上空へ勢いよく投げ飛ばした。
「えっ……」
ぽーんと放り投げられる。
長い髪を宙に振り乱した鬼が見たのは、遠くの地平線から覗きはじめた朝日と、山の麓に広がっている、これまで鬼が散々食い漁ってきた人間が住む町並みだった。新聞を配達する人影が豆粒のように動いているのが見える。
「あ…朝っ…」
もう死ぬのだと分かると、色々な感情がすっと無くなっていくのを感じる。
鬼は久々に見る朝日に目を細めた。鬼になってからというもの、一番恐ろしい存在はあの鬼舞辻無惨だったが、その次に怖いものはこの朝日だった。
人間の頃はどうだったかなんて知らない。全て忘れてしまった。思い返す記憶といえばついさっきの出来事ぐらいだ。
あの人間、最初から日が昇るまでずっと戦い続けるつもりだったのか。なんでそんな無謀な事をするのだろう。鬱陶しい。鬼殺隊に所属してもいないのに、鬼の首すら刎ねられないくせに。
朝日に照らされてボロボロと崩れる体が空中で灰燼に帰す瞬間、鬼は疲れた顔でこちらを見上げている人間が目に入った。夜は暗くてよく見えなかったが、目元には濃い隈があるし、着物は裾や袖がボロボロになっている。指先は爪が割れて変色していた。
眼差しは、そこいらの人間よりもよっぽど淀んでいる。頬は病人のように赤い。
「人のくせに…」
まるで餓鬼のような目だった。
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女学生風の格好をしていた少女の鬼は、やはりそれなりの名家の生まれだったらしい。鬼が着ていた着物は土と埃と泥と灰と血で散々に汚れてしまっているが、手にとってよく見てみると、薄黄色と橙色のグラデーションに牡丹や椿の絵が乗った優美なものだった。
ひさごはもぬけの殻となった着物の中から出てきた学生手帳と財布をくすね、ついでに鬼の着物を古着屋で売りさばくために回収した。
「酒を買うにもご飯を食べるにもお金は入り用だからなぁ……」
ため息をつく姿はなんだか世知辛さが滲み出ている。
彼女が珠世、愈史郎と別れてからちょうど季節が一周していた。
その間、ずっとひとりであらゆる街や山を放浪しては鬼を探し、酒を飲み、鬼を殺し、酒を飲み続けて修行を重ねてきた。暴力と酒に浸った最悪の一年間だった。肝臓に支障をきたしていないのはまさに奇跡的とも言える。
今では酒を飲まなくても弱い鬼は倒せるようになったが、それでも血鬼術を使うくらいに強くなってしまった鬼は酒を飲まなくてはいけない。
ざくざくと山の斜面を早足で駆け下りながら、古着を売った金で何を買おうかとひさごが思案していると、ちょうど山の麓から誰かが歩いてきていた。足音は複数人のようだ。
「! あ……」
「ひ、人がいる…」
ひさごの姿を見上げて驚くのは、黒い詰め襟を着た少年達だった。