夜明け
人間、死体でもない限りは常に眠り続ける事などできない。
十分に睡眠を取りすぎた"彼女"が再び暗い部屋の中で目を覚まし、仕方なく布団から身を起こして暗闇の中で呆けていると、そっと引き戸をから顔を覗かせた看護師の女性と目が合った。
「ヒッ…!?」
「……」
まさか目を覚ました患者が真っ暗な部屋の中でこちらを見ているとは思っていなかったのだろう。まるで幽霊でも見たかのような看護師の悲鳴が廊下に短く響いた。髪がベタついたボサボサ頭の、顔色が悪い女が暗闇の中からじっと見つめているのはさぞかし怖かっただろう。
そして医者と看護師が慌ただしく様子を見に来たのを皮切りに、一時間もしないうちに背広を着た人間達が彼女の病室を訪れた。
彼等は全員いかめしい雰囲気を纏っていて、手帖を携え、彼女に向かってなにかを話しかける。人数は4名。しかし、他にも廊下に何名かが待機しているようだった。微かに話し声が聞こえる。
病室のカーテンの隙間からはまだ太陽の光すら見えないというのに、何故か彼等はやたらと活動的だった
まだ頭の中が霞で覆われているような気がする彼女にとって、その存在は鬱陶しかった。
彼等は一体どんな用事があってここに来ているのだろうか。
彼女の目の前にいる人間は4名中3名が男性で、あと一人はキャリアウーマンのようなスーツを着た女性だった。ショートカットが似合う美人だ。美人だと思う。…当たり前だが、じっと見つめていると目が合った。女性はにこりと愛想よく微笑む。しかし彼女には愛想笑いを返すほどの元気が無かったので、軽く会釈をしてすぐに目を逸らした。
彼等は一体誰だろう。
もしかして勤務先の本社の役員達かと思ったが、それにしては雰囲気が違う。労基署から叱られたとでもいうならば、もっと刺々しい空気が流れているはずだ。
かといって、親戚にしても知らない顔が多すぎる。それに彼等が病室をわざわざ訪れる事なんてあるものか。
さも当然のように「さて」と会話を始めるあたり、おそらく彼女は彼等の最初の挨拶をぼーっとしていて聞き流していたのかもしれない。
小太りの中年男性が彼女に話しかける。立派な腹回りと特徴的な髭がやけに目立っていた。
「はんにんのかおはおぼえていますか?」
「……」
「かおじゃなくても、ふくそうだとか、くるまのいろだとか、なんでもかまいません。とにかくてがかりをさがさなくてはいけませんので……」
「……はあ」
…"はんにんのかお"って何だ?
彼女が内心パニックに陥っている間も、彼等は同情を全面に表した表情で色々と優しげに声をかけ続けた。それが余計に猜疑心を煽る。
さらに色々とこちらに向けて話しかけてくるが、全て内容が理解できない。かろうじて日本語であるという事だけは分かる。
そもそも、彼女はこんな事が起きるとは予想していなかった。本来ならば、病室には誰も訪ねてこないはずだ。それどころか、病院に搬送されるという可能性すら見越していなかった。
明らかにキャパシティを超えた状況に冷や汗が止まらない。ぐらぐらと目眩が起こり始める。額や背中に冷や汗がどっと噴いた気がした。
「……」
「……?」
何かがおかしい。
そう感じたのは彼女だけではなく、周囲の人間達も同様だった。
次第に顔色を険しく変え、じっと警戒するように脂汗をかき、怪訝な目つきで黙りこくる少女の様子は誰がどう見ても異様だ。
病室は自然と静まり返る。
無駄に豪華だと感じるほど広い病室で、全員が訝しむような表情で、睨み合うように何かを考察していた。
そして、おもむろに、場を空気を探るかのごとく、少し頬骨の張った若い男性が気まずそうに声を上げた。
「……えっと、…あなたは扇屋ユヅルさんですよね?」
「…!」
「何言ってるのよ、高木くん…」
ショートカットの女性は呆れたように彼を嗜めるが、彼女はようやく理解できる日本語が耳に入ることにはっと顔を上げた。
どうにも最初から話の内容が理解できないと思ったら、原因はただの人違いだったらしい。
安堵の溜息をついた彼女は即座に否定を口にする。
「違います。わたし、」
「え?」
「え」
私は、と続けようとした言葉がさきほどの女性に遮られた。
「違う…?」
「…はい」
鋭い声色で彼女の言葉を切り取ったキャリアウーマン風の女性は、険しい表情を浮かべて周りの人間と目配せをする。そして「目暮警部、先生を呼んできます」と一際恰幅の良い男性に言い残し、足早に病室を出て行った。
まるでその答えが良くない事であるかのような雰囲気に、一人だけ取り残されたような気がした彼女は思わず半笑いを浮かべた。何がおかしい、と言いたげな態度である。
そして致命的なことに、たった今聞き覚えのある名前が耳を掠めた事に彼女は全く気付けなかった。
「……いや、だって……。私の名前ですよね?」
「…でしたら、あなたのお名前を伺っても?」
今までずっと無言だった水色の背広を着た男性が一歩前に進み出る。その毅然とした態度に嫌な予感のようなものを感じたが、彼女は渋々と"自分の名前"を名乗った。まごうことなき、二十数年間自分が持ち続けてきた名前だ。きっと病室のネームプレートにもそう書いてあるはずだ、と思いこんで。
「わざわざ聞かなくても、████って、そこに…部屋のプレートに書いてありますよね……?」
彼女は包帯だらけの腕を伸ばして廊下を指差した。
しかし現実は無情である。「まずいぞ…」と小さく呟いて顔を見合わせたスーツ姿の男たちに、彼女は初めて自身に起きている異変を悟った。
そして。
そして彼女、扇屋ユヅルは、この瞬間から自分の名前を口に出すことを許されなくなった。
数日前に自殺した彼女が自分自身を惜しむなど、考えてみれば些か滑稽な事実ではあるが。