ブギーマン



 抜け殻のようにただぼんやりと佇んでいると、気付いたら先程までの日差しは姿を消し、二度目の夜を迎えていた。
「扇屋さん、おやすみなさい」という看護師の気遣わしげな声でにハッと我に返ったユヅルは、電気を消された病室の中を驚いたように見渡した。

 そして少しの困惑を経て、自身の境遇を思い出した彼女は陰鬱な表情を浮かべてのろのろとベッドを降りる。
 車いすに載せられて色んな検査室を行き来したり、病室に備え付けられているシャワー室で風呂に入ったことはなんとなく覚えている。だがそれ以外の記憶が無い。つまり、それ以外は何もしていなかったということだ。
 体はまるで死後硬直のように凝り固まっていて、布団から抜け出すだけで体の節々から音が鳴った。ずっと同じ姿勢で居たせいだろうか。

 床に揃えて置かれていたスリッパには目もくれず、裸足のまま冷たく硬い床を歩き、おぼつかない足取りで室内に設置されたシャワー室へと向かう。左手には相変わらず点滴の管が伸びていたので、仕方なくカラカラと点滴台のキャスターを引き摺った。
 非常灯の不気味な明かりだけが佇む病室に、やがてパチンという音とともに洗面所から蛍光灯の光が漏れた。

 容赦のない眩しさに残像が視界を暴れまわっている。が、洗面台に両手をついて俯いていれば徐々にそれも落ち着いていく。
 無駄だと感じるほど長く伸びた髪をかきあげ、顔を上げたユヅルは、鏡に映る見知らぬ少女の顔を上目がちに睨みつけた。

 医者によると、今のユヅルは「自分の顔や名前すらも忘れ、心のなかに知らない人が住んでいる」状態らしい。
 心身に多大な負担がかかった事が理由らしいのだが、その原因はユヅルがとある事件の被害者になってしまった事にあった。
 深夜に慌ただしく部屋を訪れて色々と話を聞き出そうとした数人の男女は、その事件を捜査している刑事達だったというわけだ。

 だが、名前や顔を忘れたとはいえ、彼女は確かに自分の名前を覚えていたし、自分の顔もはっきりと認識している。今の顔を「知らない顔」と認識できるのだから、元の顔を覚えていて当然だ。
 見に覚えのない文字の羅列が実は自分の名前であり、二十年余りを共に過ごしてきた名前が妄言だと聞き流されたとしても、少なくとも今の自分は少しくらいは正気のつもりだった。

「誰だテメエは」

 鏡に映る形の良い唇が歪み、ぐっと目元に皺が寄る。
 この少女の顔の出来が良いことは不幸中の幸いにあたるだろうか。あからさまに不快な表情を浮かべても醜いと感じないのはお得だと思う。それになんとなく幸薄そうな雰囲気も良い。
 「これが今の自分の顔だ」という現実さえ直視しなければ、わりかし好みの顔だった。

 しばらく鏡と睨めっこをしたのち、ユヅルは溜息をついて蛇口を捻った。髪が濡れても、腕の包帯が濡れてもお構いなしで乱暴に顔を洗う。ついでに喉が乾いたので、そのまま水を両手ですくって飲んだ。少なくとも工業用排水よりはきれいなのだから、飲料用でない水だとしても腹は壊さないだろう。
 誰が用意したのか、壁際のタオルハンガーにかかっていたフェイスタオルで水分を拭き取り、洗面所の電気を消してベッドにぺたぺたと歩み寄り腰掛けた。
電気を消すとささやかな生活感は消え、そこには深夜の病院らしい無機質な空気が再び訪れる。

 起きて、顔を洗って、口をゆすいで。それで、もう何もすることが無くなってしまった。
 しん、と耳の奥をつんざくような沈黙がやってくる。
 真っ暗な窓の向こうをじっと見ていた彼女は、今朝此処を訪れた刑事達の言葉をぼんやりと反芻した。彼等はとても真剣な表情だった。

「犯人って……」

 思い出すも何も、自分が誘拐されたなんて事件、刑事達の口から説明されるまで全く知らなかった。思い出せないのではない、知らないのだ。やはり人違いではないか?
 ユヅルは顔を顰めてとびきりの溜息をつこうとした。

「……ん?」

 だが全く空っぽだった頭の中に、 ひとつだけ閃いたものがあった。既視感だ。
 事件とは全く関係の無い要素ではあるものの、深夜に病室を訪れた刑事達の顔触れを思い返すと、以前読んでいた漫画の登場人物に容姿が似ている気がしたのだ。

「じゃあ、もしかして……いや、でも…」

 もしかして他にも登場人物に似ている人が居たりして? いやそんなわけないだろ。
 いや、でも待て、とユヅルは内心食い下がる。彼等はお互いの名前をこう呼んでいなかったか。目暮警部、高木君と。

「……もし本当なら…、む」

 そこで彼女は自分の思考の所々が口から溢れている事に今更気付き、口元を抑えた。広い部屋の中に自分一人しか居ないからか、独り言が段々と出始めていた。これはよくないことだ。

 先ほどユヅルが「もしかしたら」と一瞬考えてしまったとおり、目の前に現れた刑事達が軒並み自分の知る目暮警部、高木刑事、佐藤刑事、白鳥刑事に激似で、……あるいは本物だったら?
 もしそうだとしたら、それはユヅルの脳がどこか致命的に故障している決定的証拠に他ならない。
 だって、漫画のキャラクターが現実に存在しているなんて現象があるわけがないのだから。

 ユヅルはたった一瞬でもそんなありえない事を考えてしまった自分を認めたくなくて、そそくさと布団の中へ潜り込んでいった。
 そして枕にうつ伏せの状態で顔を押し付け、か細い泣き声のような呻きを漏らしながら「……あああ」と押し潰された声をあげた。

 でも。
 そもそも、此処が現実である確証なんて無いのだ。
 自殺に失敗して、目が覚めれば病院で、あなたは扇屋ユヅルだと勝手に決めつけられて、自分の顔は全くの別人になっていた。挙句に知らない事件の被害者になってしまった。こんなの正気の人間が陥る状況ではない。
 だとするなら、██ ██は、本当は死んでいるのではないか。これは脳死状態の脳が見せている幻覚なのではないか?
 そう考えると途端に恐ろしくなった。
 漫画の登場人物が目の前に現れたことの違和感と、私の記憶と現実との齟齬、間違っているならそれはどっちだ?

 余計意味が分からなくなってきた。そんなのどちらも間違っているに決まってる。
 現在の自分自身を取り巻く全てがこれまでとは違う。現在から一つずつ記憶を遡ったところで、どこからが正常でどこからが異常なのかも分からない。

「誰か……」

 怖い。
 こんなに曖昧な存在でこれから毎日を生きていかなくてはいけないのかと思うと、最早あっさり死んでいた方がマシだと思った。これまでの人生とはまた違った苦しさが待っている気がした。
 けれど、またここで死んでも果たしてしっかり死にきれるかどうか。また同じように知らない場所で別人として目が覚めるかもしれない。

 誰でもいいから、種明かしをしてくれ。
 誰か答えをくれ。
 こんな状況、正しいわけがない。真実が何処かにあるはずだ。救われないならば、死なせてくれ。
 混乱するうちに再びぐすぐすと嗚咽を漏らしながら疲れて眠りについたユヅルは、ベッドの下に取り付けられた盗聴器の存在にも、そして自分がまるで誰かに助けを求めるような独り言を呟いた事にも気付いていなかった。
 彼女のうわごとを終始傍聴していた存在がぎゅうと口元を噛み締めたのは、紛れもなく正義感からくる義憤だったというのに。




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