断片



 ユヅルが病室で寝起きするようになって、一週間が経った。

 手足のあちこちに巻かれていた包帯は既に取れ、今は少し大きな絆創膏がそこに残っている。
 「当初のような錯乱状態はいくらかましになった」と医師や警察関係者達は安堵しているようだが、実のところ、それはユヅルが敢えて表面に出していないだけであって、本人にとって状況は全く良くなっていなかった。
 毎日病室を訪れる見知らぬ親戚達からは、話を聞けば聞くほど自分が扇屋ユヅルという存在に塗り替えられていく感覚がする。病院の売店で買ったノートは、彼らから聞いた扇屋ユヅルという人間の情報ですぐに埋められていった。

 親戚の話を聞き、医者の話を聞き、警察の話を聞き、検査を受ける。
 そして、果たして今の状況が自分自身にとって良いことなのかと葛藤しているうちに日が暮れる。夜になれば眠気もそこそこに、この世界のことについて考えているといつのまにか数時間が経っていて、気づいたらぱったりと意識が飛んでいる。結局毎日寝不足である。
 何故こんなにも必死で考え事をしているのかといえば、原因はこの病室を訪れる人物の何割かに見覚えがあるからだった。あの日会った警察関係者達のような、とある漫画で見たことのあるような感覚の、彼らに対する一方的な既視感をユヅルは感じていた。
 その理由は未だに分からない。医者も脳に損傷は無いと言っていたので、この異常な状況を証明することは難しい。
 ただ、この現実とユヅル自身のどちらが信頼できないか、という問いならば確実に後者なので、彼女は常に自分自身を否定しながら病院で生活していた。
 精神状態は明らかに最悪だった。


 毛利小五郎の弟子を名乗る青年が紙袋を持って訪れたのは、ちょうどユヅルがベッドに腰掛けて2回目の自殺を本格的に考え始めたそのときだった。
 コンコン! と勢いよく響いたドアのノック音にユヅルの猫背が跳ね上がる。隈で縁取られた生気のない目が肩越しに振り向くと、そこには金髪に褐色の肌をした青年が笑顔で立っていた。片手には大きな紙袋を提げている。
 またもや見覚えのある顔だった。

「こんにちは! 毛利小五郎先生の弟子をしています、安室と申します。扇屋ユヅルさんですよね?」
「……ああ、はい」

 抑揚をしっかりとつけて喋る陽気な声に、ユヅルのなけなしの気力が吸い取られていく。
 帰ってほしいな……、という気持ちをどうすることもできず、とりあえず「毛利小五郎さんの…」とオウム返しで誤魔化すと、安室はまたニコ! と笑った。

「そうです、毛利先生です。たしか2日前にこちらへ来られましたよね?」
「はあ」
「警察の方から扇屋さんの所持品をお返しするようにと申し付けられまして。入ってもよろしいでしょうか?」
「…どうぞ」
「失礼します!」

 ユヅルが生活している病室は、部屋の奥に一人がけのソファが2つと小さなテーブルがあった。
 ベッドに座ったまま相手をするのも失礼だろうと思い、なんとなくユヅルがそこへ点滴スタンドを引っ張りながら座ると、安室もまた向かい側へと自然な動作で腰掛けた。
 ちょうど窓辺の位置だったので、カーテンの無い窓から真昼の日差しが容赦なく差し込んでいる。ユヅルはしぱしぱと目をしょぼつかせた。
 安室はその様子に苦笑いしながら、手に持っていた紙袋をゆっくりとテーブルの横に下ろし、中に入っていたものを机上に並べ始める。

「所持品のうち、財布はすでにお返ししているとの事でしたね」
「そうですね…」

 財布が返却されたのは目が覚めてからすぐの事だった。
 かなりの金額が入っていたので、借りるつもりで既にいろいろと買い物をしている。とはいっても、散財する場所は病院内の自販機と売店しか無いのだが。

「今回はノートパソコンとその充電器、手帳、携帯電話、筆記用具、ハンカチ、それから当時着用していた衣服と靴、当時所持していた鞄…ですね。この紙が一覧ですので、ご確認をお願いします」
「どうも」

 受け取ったA4用紙の書類には、今まさに安室が述べた物が書かれていた。
 ユヅルは伏し目がちに現物と書類を交互に見比べて確認していく。その作業のさなか、彼女は「そういえばどうして探偵の助手に過ぎない男が、警察の押収品を一人で返しに来たんだろう」とふと疑問に思い、一瞬そこから視線を外した。
 どうやら安室はその動きを目ざとく観察していたらしい。

「どうかしました?」
「え?」

 突然話しかけられたユヅルは慌てて安室の顔に視線を合わせる。だが、彼の青い目を直視することはできなかった。
 この瞬間、現在の安室は偽装に過ぎず、その正体は公安部に所属する警察官であることを昔の漫画の記憶から思い出したのだ。

「何かに気付かれた様子だったので……」
「……いや、なにも」
「何も?」
「……」

 咄嗟に出た弁解の言葉はあまりにも辿々しかった。目を細めた安室の雰囲気が一気に刺々しくなったような気がする。内心冷や汗を垂らしながら手元に目を落とすと、紙がじっとりと手汗で萎びているのが見えた。
 彼、安室透は、今間違いなく故意的なプレッシャーを掛けている。だがその理由が分からない。
 視線に恐怖したユヅルは逃げるように「う」と上擦った。

「、く……、"パスケースがない"……」

 そして彼女の口から無意識のうちに言葉が突然飛び出した。
 安室は目を丸くして僅かにソファから身を乗り出す。しかし当のユヅルは何故急にパスケースについて触れたのかが分からない。プレッシャーから逃げようと適当な事を喋ってしまったのだろうか?

「今『パスケースが無い』とおっしゃいましたか?」
「あ、いや…」
「……、……犯人達が何らかの証拠を隠滅する為に盗んだのかもしれませんね」

 顎に手を当てて考察する安室に、彼女は首を傾げる。

「…犯人」
「あなたを誘拐して監禁し、なおかつ暴行を加えた犯人達ですよ」
「え?」
「ん?」
「………ああ、そうか。そうでした。そういえば」

 ユヅルは誤魔化すようにへらへらと笑った。
 先程安室の正体を思い出したせいか、うっかり██ ██として接してしまっていた。扇屋ユヅルがどのような経緯でこの病院に入院していたのかをすっかり忘れていた。

 警察や親戚たちの話を聞く限りでは、扇屋ユヅルという少女は先日死去した実業家の祖父から莫大な遺産を受け継いだという。その遺言が発表されてから間もなく、彼女は登校途中の車を襲撃されて拉致される。事件発生から5日後、警視庁は私立探偵毛利小五郎の助力を経て監禁現場であるホテルの一室と犯人達の逮捕に成功していた。
 安室は再び怪訝そうに目を細める。

「……もしかして、ご自身の状況を忘れていたんですか?」
「私に記憶が無いのは、知ってるんですよね」
「ええ、まあそうなんですが……。いや、そうですよね。大変失礼しました」
「……」

 少し腑に落ちないようではあるが、彼は素直に頭を下げてみせた。
 漫画でもあまり見かけることのなかった"それ"が中々衝撃的で、ユヅルは口では気遣いながらもじっと彼の後頭部を注視していた。彼が現在安室透として此処にいるのだとしても、降谷零が頭を下げるというのは貴重な光景なのだ。

「パスケースは、警察の方々が単純に捜査のために返却を延期にしている可能性もありますね。"パスケース"については僕から毛利先生と警察の方々へご報告しておきます。他に不備などはありましたか?」
「いえ…特には、分からないです」
「分かりました。それでは、僕はこれで」

 立ち上がった安室はユヅルに背を向けてドアへと歩み寄る。
 ようやく帰ってくれるか、とこっそり安堵の息を漏らしたユヅルがそれを追いかけて見送ろうとする。彼女の気配が背後に来たのを確認してか、安室は引き戸から出ていく直前で「そうだ」と振り返り、無理やり目を合わせてきた。
 まさか目が合うとは思っていなかった病室の主はぎょっと肩を竦ませ、サッと目をそらした。

「また、お会いしに来てもいいですか?」
「…お、お会い?」
「調査の一環として、といいますか。扇屋さんも、誰かとお話したほうが記憶も戻りやすいかもしれませんし」
「……い……。…はい、どうぞ」
「ありがとうございます! ではまた」

 遠慮がちに承諾したユヅルは、今度こそ安室透の背中を見送った。


 軽やかな足取りで病院を出た安室は、道路沿いを走っていたタクシーを呼び止め、行き先を告げて乗り込んだ。閑散とした道路をタクシーが走り抜ける。
 好青年然とした雰囲気を振り払い、先程ユヅルに誘導尋問をかけたときのような鋭い空気を纏った彼はおもむろに口を開いた。

「彼女は逆行性健忘だが、パスケースのことは覚えていた」
「……警視庁に報告しますか?」

 独り言のようなそれに、前を向いてハンドルを握ったままのタクシー運転手が返事をした。
 ちら、と運転手がバックミラーに視線を向ける。降谷零は後部座席で腕を組み、正面を遠くに見つめながら「いや」と短く答えた。
 警視庁にこの事を報告すると、彼らはその「パスケース」が何処にあるのかを探しはじめるだろう。

「公安が押収した物品の所在をわざわざ明かす必要はない。ケースから指紋は取れたな?」
「はい。僅かですが、"レッドアイ"の指紋データと照合するものがありました。あとはどう追い詰めるか、ですが」
「いずれあの子に接触を図るだろう。それまでは今まで通りに周囲を固めておけ」
「はい」

 車窓に視線を移した降谷はぽつりと「次があってはいけない」と微かに呟いた。




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