ひどい仕打ち



 目の前に、40代くらいの男性が座っている。テーブルに置かれたコーヒーカップを優雅な動作で口に運び、こちらを見て微笑んでいる。
 そしてパジャマではなく白いワイシャツとジーパンを着た"ユヅル"は目の前に並んだホットケーキに手を付けられないまま、俯きがちに視線を落としている。

 ユヅルは今、叔父と名乗る男性と喫茶店のテーブル席に向かい合う形で座っていた。
 病院の中にある喫茶店ではない。病院から徒歩15分ほどの距離にある、大通り沿いの全国チェーン店だ。ガラス張りの壁に目をやると、買い物帰りの主婦や学校帰りの小学生たちがまばらに通り過ぎていくのが見える。

「それで……、ユヅルちゃんは、記憶が戻る見込みはあるのかな?お医者さんは何か仰ってた?」
「……戻ってほしいですか?」

 ユヅルの声色はいつもより堅かった。何かに緊張しているようだ。
 それは久しぶりに病院の外に出た事や、初対面の男性にいきなり叔父と名乗られた衝撃も原因かもしれない。ただ、それはあくまでこの体を支配している"██ ██"にとっての話だ。
 先日、安室に対して「パスケースがない」と無意識に発言した出来事があった。あれはおそらくこの体の本当の持ち主である"扇屋ユヅル"が心のどこかにひっそりと隠れていて、安室の問いかけに思わず発言した形なのだろう。██はそう推測している。

「そりゃあ、君との思い出が忘れられたままなのは悲しいからね。もちろん無理にとは言わないが……」

 その心の隅っこに生きている体の持ち主が、どういうわけかこの男に対して恐怖を感じているのがユヅルには分かった。
 理由は分からない。問いかけても彼女は出てきてくれない。
 彼にいじめられていた時期でもあったのかもしれない。とにかく、ユヅルは彼女の意向に沿って行動することを決めた。
 上に乗ったバターが溶け切ったホットケーキに視線を落としたまま、深呼吸をして、突き放すような言動をとる。

「治療の見込みは、私にはわかりません。正直、今は生きるのに精一杯で」
「ああ…そうだよね、ひどいことを言ってしまった」

 叔父は悲しそうな表情をわかりやすく表現して、テーブルに両肘をつき、手の甲に顎を乗せてふうとため息をついた。

「記憶を取り戻すということは、君が受けたひどい仕打ちの数々を思い出さなくちゃいけないという事だものね」
「……ひどい仕打ち?」

 その部分に違和感を感じた。それは誘拐された当時の記憶のことを指しているのだろうか?
 ただ「数々」と彼は言った。つまり、彼はそれ以外にひどい仕打ちをうけた"扇屋ユヅル"の過去を知っていると言いたいのか。

「……言ってもいいのかな? 以前の君から『同級生からいじめを受けていた』と相談を受けたことがあってね。どうやら君は男子生徒から告白されて、それを他の女子生徒に嫉妬されていじめられていたらしいんだ」
「へー…」
「君の父は僕の弟にあたるわけだが……彼らが亡くなってから塞ぎ込むようになったこともあって、本当に辛かったんだろうね。誘拐される前までは『死にたい』とよく口にしていたんだよ」
「……『死にたい』」

 目を丸くした。両親を亡くしたとはいえ、恵まれた環境に育ったお嬢様でさえ死にたいと思っていた事に驚いた。
 今までユヅルは彼女と全く正反対の生育環境に身を置いていたので、そこまで追い詰められているとは考えもしなかった。
 けれど、そんな彼女にとって突然起きた誘拐事件はいったいどんな出来事だったのだろう。死ぬには絶好の機会だったのではないか?

「あの…」
「ん?」
「以前の『死にたい』と思っていた私は、誘拐されて喜んだと思うんですが、どう思います?」

 叔父は驚いたようだ。目をかっと見開き、口元をきゅっと引き結んで硬直した。慎重に言葉を選んでいるせいか、口を開くまで少しかかった。

「…。それは……、僕にとって勿論喜ばしくない事だが、正直…。君はあのときすごく追い詰められていたから……」
「そうですか」
「……良くない事を言い過ぎたかもしれないな。これ以上刺激を加えると良くないから、そろそろ戻ろうか」

 叔父からの提案に、ユヅルは一も二もなく頷いた。質問をしてから、中の"彼女"が叫びをあげている。


 そして店を出て叔父が捕まえたタクシーに乗り、病院の入り口へ戻ると、叔父だけはタクシーに乗ったまま、ユヅルだけがそこへ降り立った。

「僕は仕事に戻らないといけないから、ここでお別れにしよう。今日は楽しかったかな?」
「多少は…」
「よかった。…もしも君が以前のように悩んでいる事があったら、また僕に相談してくれ。まだ『死にたい』と思っているのなら、僕がなんとかしてあげられるかもしれないから、ね」

 そう言って薄く笑った叔父は車のドアを閉め、再び走り去っていった。
 ユヅルはタクシーの後ろ姿が敷地の外に出たことを目で確かめてから、鞄から外出許可証を取り出して病院の自動ドアを通り過ぎた。

 ロビーには風邪を引いた様子の患者や、会計待ちの親子連れなどがごった返している。その中にユヅルを待ち構えているスーツ姿の警察官たちが異様な存在感を放っており、身を引き締めざるをえない空気に再びげんなりした。
 怒った表情の佐藤刑事がこちらへカツカツと詰め寄ってくる。

「ユヅルさん! 我々に報告もなく勝手に外出されては困ります」
「……でも、叔父が『警察の人たちには許可をとってある』と言っていましたし、外出許可証もあります」
「もう……病院が事務的な許可を出しても、警護担当の巡査に一言添えて連れ出すことを許可取りとは言わないのよ!」
「……」

 なぜ実行犯の叔父が怒られず、ただ言われるがままに付いていっただけのユヅルが知らない人たちの目の前で叱られる羽目になるのだろうか。
 すっかりやさぐれたユヅルが白けた表情で遠くを見つめ、佐藤刑事の説教を聞き流していると、佐藤刑事の背後から「まあまあ」と幼い子どもの声がした。

「ユヅルさんは叔父さんに誘われて外に出ただけなんだから、悪いことはしてないよ」

 ……コ…!
 表情が崩れたのを悟られないよう、ユヅルは咄嗟に口元を手で覆う。あの有名なブレザー姿ではなく、そこらへんの小学生と変わらない服装をしているが、大きなメガネと小賢しそうな口調、そして警察関係者と何故か親しそうに話す姿は紛れもなく「江戸川コナン」だった。
 ジロジロ見られては怪しまれるので、一通り観察したらすぐ目線をそらして知らないふりをした。
 そうしている間に、コナンに説得されて怒りを鎮めた佐藤刑事が冷静に腕を組んだ。

「……そうね。ユヅルさん、病室へ戻りましょう。外出許可証はこちらで返却しておきますので、いただけますか?」
「……はい」
「僕もユヅルさんの部屋に一緒に行っていい? おじさんから捜査のおつかいを頼まれてるんだ。今日はヨーコちゃんのコンサートDVD発売日だから一歩も外に出たくないんだって」
「毛利探偵? ええ、でも…、ユヅルさんは疲れているみたいだから、あまり困らせちゃ駄目よ」

 ユヅルはコナンの申し出を聞いて嫌そうに顔を顰めたが、佐藤刑事はそれを疲労ととったようだ。

「ユヅルさん、疲れてるの?大丈夫?」
「…はい」

 大丈夫?と聞かれたらYESと答えるしかないじゃないか。というか、初対面なのに馴れ馴れしすぎるだろ。
 早く一人になりたいとげっそりしつつ、ため息をついた。

「ねー、佐藤刑事。ユヅルさんの叔父さんって何をしている人なの?」
「海外の大学で講師をされているそうよ。少し前までは製薬会社の研究職だったんですって」
「へーっ頭がいいんだ…」

 ――このサプリは開発途中のサンプルなんだけど、今の君にピッタリの効果があると思う――

「……は…」

 佐藤刑事とコナンの会話がきっかけになったのか、ユヅルにとっては存在しないはずの記憶が頭を掠めた。
 叔父は、落ち込むユヅルに赤いカプセルを渡して飲ませた。何回も。
 あの薬は一体何だ…?
 ユヅルは二人のあとを付いていきながら、自分の表情が見えないように俯き、平静を装う。どうやら叔父は、過去に”何か”を仕掛けていたようだった。




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