いざ樺太

ぐらぐらと足下が揺れる。私達、樺太先遣隊は鯉登少尉の父である鯉登平二少将の船に乗っていた。軍艦という名の駆逐艦で北海道から樺太に向けて宗谷海峡を走る。谷垣はハンモックで寝ているが、船酔いで胸がムカムカしていた私は甲板に出て風に当たっていた。

「結城さん、大丈夫?吐いてない?」

さっきまで鯉登少将と話していた杉元が、私の所にやってきた。手には水を持っている。

「風にあたってればなんとか大丈夫です。水はありがたく頂きますね。」

ゴクゴクと飲み干す私を黙って見つめる杉元。少将と何を話していたのかも気になったが、水筒を返してこれまで聞けていなかった事を改めて聞いた。

「…杉元さんは、ウイルク…アシリパさんのアチャと会って話したんですよね?アチャは何と言っていましたか?」

「『アイヌを殺したのは私じゃない…』とさ。」

杉元の言葉に私は思わず目を輝かせた。この真実を知ったらアシリパは喜ぶ。ウイルクはアイヌを殺して金塊を樺太に持って行こうとはしていなかったのだ。極東ロシアよりも北海道アイヌを取ったのだろう。でも、それが本当なら極東ロシアのキロランケがウイルクを殺す理由が出来てしまう。

「『アシリパは山で潜伏し戦えるように育てた』と言っていた。のっぺら坊はアシリパさんをアイヌの独立運動の矢面に立たせる気だったんだ。」

苦い顔をする杉元。アシリパが戦わなくて良いように真っ先に前に立って敵を殺しにいく杉元のことだ、アシリパを巻き込んで欲しくなかったのだろう。

「鯉登少将は『戦って死ね』と大勢に命令するために自分の子供を先頭に立たせるのが筋だと言った。でも、アシリパさんは子供だ。狩りと食べるのが大好きなただの女の子なんだよ…っ!」

杉元は拳を強く握りしめた。ウェンカムイを信じ、人を殺める事に抵抗のあるアシリパにアイヌを率いて戦わせるのは酷というものだ。一緒に過ごす時間が長くなれば長くなるほど、アシリパにはただ憂いなく幸せに暮らして欲しい気持ちが募っていたから、杉元の気持ちは痛いほど分かった。

「…だから、金塊をアシリパさんに託そうとしたんですね。土方さんと手を組もうとしたのも、アシリパさんを旗印にするのも合理的です。」

でも、差別や同化政策で今よりもアイヌ文化が薄れている未来を知っている私は、金塊を用いたアイヌの独立運動は的確であるとすら思ってしまう。弱い国や民族は文化や共同体自体が強国から破壊されてしまうからだ。ウイルクの考えに賛同する私を見て杉元は悲しい表情を浮かべた。

「…ただ、アシリパさんに指揮官は似合いません。動物相手に戦うのは良くても、人相手には優しすぎます。分析力や無情なほどの合理性を持たなければ指導者は務まりませんから。もしくは天性のカリスマ性と情熱ですね。」

潮風に髪を揺らされながら、私は笑った。杉元が苦笑いで返してくれる。

「アシリパさんは人を惹きつけるカリスマ性はあるけど、戦争を起こすほどの情熱はないよ。」

「そうですね。だから、早くアシリパさんをフチの元に返してアイヌの未来は他の人に託しましょう。」

私達は顔を見合わせて目を細くすると目的を確認するように拳をコツンとぶつけ合った。

いつの間にか樺太の玄関口である大泊が見えている。甲板から船室へと戻って上陸の準備を始めた。

荷物と共に大泊に上陸し、鯉登少将とお別れをする。鯉登少将は息子の鯉登少尉に向けて慈愛の目で見ていた。それが、キロランケがアシリパに向けていた視線と重なって胸が苦しくなる。頭を下げて、逃げるようにすぐに背を向けた。

「鯉登少尉殿、なんですかこの荷物…。こんなに持っていけません、置いていきなさい。」

無表情で母親のような事を言う月島に安心してしまう。鯉登は必要最低限だとさっそくごねている。荷物を確認していると、沢山の箱の一つがバンっと開き、中からチカパシとリュウが出てきた。

「谷垣が連れていた子供か…北海道に戻る船に頼んで送り返しておけよ。」

月島が冷たく言い放つが、チカパシが北海道に帰ってもいる場所がないと伝えると、渋々着いてくることを了承してくれた。一見冷たい人に見える月島だが、実は優しいのかもしれない。リュウの力も借りて大泊で聞き込みを開始することになった。

「…おい、そっちは賭場だぞ。危ないから一人で行くんじゃない。」

さっそく賭場へと足を伸ばそうとしていた私の首根っこを谷垣が掴んだ。杉元にもお金は足りてるから聞き込みを優先して欲しいと伝えられる。仕方ないと頷いて、私は北見で撮った宙に浮くアシリパと、見えない空間に寄りかかる尾形の写真を手に、片っ端から街行く人に声をかけた。

しかし、首を横に振られるだけでアシリパ達の情報は箸にも棒にも掛からなかった。

「インカラマッの情報は正しかったんだろうか。本当にアシリパさんは樺太に来ているのだろうか。」

杉元が降り出した雪を眺めながら呟いた。インカラマッの情報が全て嘘で、アシリパはキロランケと共に小樽のコタンへと逃げ出せてたらいいのに。尾形が杉元を撃ったのも何かの間違いで、白石を含めた四人で第七師団に捕らえられた私達を心配してるといい。そんなことを考えながら寒さで白くなる息を見つめていた。

聞き込みの途中で鯉登が居なくなったので彼を探しにいく。ため息を吐きながら先々を当たると、フレップワインの店についた。

「鯉登少尉殿、一人でちょろちょろしないでください。」

「甘酸っぱくてなかなか美味いぞ。飲んでみろ月島軍曹。」

月島の諫言もさらっと無視してプレップワインを飲みながら誘う鯉登。それを見た杉元は青筋を立てていた。

「観光じゃねえんだぞボンボンが、てめえの楽しみを優先すんなよ。」

杉元が怒って鯉登に忠告する。雰囲気が悪いなと思いながら、私はこっそりフレップワインを注いでもらった。注いでくれる女性が鯉登へと声をかける。

「服に垂らさないようにね。フレップの赤いのは洗っても落ちないから。」

それを聞いた鯉登が飲み残しを杉元のコートに思い切りかける。鯉登父おぼっちゃまは甘やかされて育ったのか短気らしい。杉元から殺気が出始めている。杉元もすぐ喧嘩を買うタチなので喧嘩になるだろう。二人を無視して私はワインを飲んでいく。

「おねえさん俺にもついでくれる?」

杉元が酒をねだると一気に飲み干し、グラスを鯉登の頭へと投げた。それをゴングの合図に二人が喧嘩を始めた。月島と谷垣が必死でとめようとしている。私が間に入っても力でも負けてしまうのでそんな四人を眺めならが酒を胃に注ぎこんだ。

「女将さん、樺太じゃないアイヌの女の子とか見てないですか?酒屋には来てないかな…。」

フレップワインを片手に女将に話しかけるが一人で諦めたように溢すと、見たわよと告げられる。女将はチカパシに気付いてチカパシにも話しかけた。

「ぼうやも初めてみるアイヌの子だねぇ。あの子もそうだけど、どこから来たの?」

私と女将の話を聞いた杉元が喧嘩の手を止めて反応する。その隙に鯉登に殴られるが、気にせず女将ににじり寄って情報を求めた。アシリパの写真を見せると、アイヌの集落へ帰ったと教えてくれる。

「やっぱり来てた!!アシリパさんは…!この樺太に来てたんだッ!!」

アシリパの手がかりを掴んだ杉元は嬉々として店を出て急いで集落へと歩き出した。私達もそれに続く。インカラマッの情報が正しかったことを突きつけられ、私の足はとても重たかった。

「…アシリパさんが生きてて良かった…。」

金塊の情報を抜かれるだけ抜かれて、殺されていないだけ良かったと自分に言い聞かせた。尾形とキロランケの事は心の奥に押し込んだ。

道中、ロシア人を見つけた月島がロシア語で聞き込みをしてくれる。話を聞いた月島が私達に走るように指示した。

「急ぐぞ!!ついさっきアイヌの女の子を見かけたらしい。少女がひとりであの森に入っていくので止めようとしたが、見失ったそうだ。この時期はまだヒグマも冬眠していない。それにこのあたりの森は…ヒグマよりももっと凶暴な動物がいると言っていた!」

子供の足跡を辿り、見つけたのはアシリパではない樺太アイヌの女の子だった。杉元と共に落胆して白い息を吐いた。どうしてここにいるか尋ねるとソリから落ちたが爺さんの耳が悪くて気付かれず置いていかれたので近道を通って帰る途中らしい。女の子がチカパシを見て話しかける。

「あなた、北海道のアイヌ?私会った、北海道から来た、アイヌの女の子。」

アシリパだ!そう思った私達はより詳しく聞き取りをしようとしたが、リュウが吠え出した。ヒグマだ。月島が子供を後ろに下げて杉元と共に銃を構える。しかしどうにも様子がおかしい。ヒグマの背中から別の生き物がボトッと落ちた。血を流したヒグマはその生き物から逃げるように森へと逃げていってしまう。

「鯉登少尉殿、離れて下さい。」

大きいイタチのような謎の生き物に近づいていく鯉登に月島が忠告した。しかし鯉登は余裕綽々としている。

「これがさっき言っていたヒグマより凶暴な奴なのか?なんか弱そうだがな。目もつぶらで可愛いではないか、月島軍曹。」

そう離れようとしない鯉登に四足歩行の猛獣が飛びかかった。

「月島ァ!」

助けを呼ぶ鯉登の背中を襲う猛獣を月島が蹴り飛ばした。そのまま月島が銃で狙うが逃げ足が早くて当たらない。

「こいつ素早いぞッ!」

月島が叫ぶが、リロードの前に猛獣がアイヌの女の子を襲う。チカパシが必死で彼女を守りチカパシの背中に猛獣がすがりついた。銃を構えた私も猛獣の頭を狙い引き金を引くが、暴れる猛獣の左前足に当たってしまった。看守から鹵獲したモシンナガンの性能が良く、慣れた三十年式の癖で撃つと大きく外すようだ。

「…っ!ごめんなさい!チカパシから引き剥がしてください!」

私の言葉に反応した杉元は銃弾が当たって少しだけ怯んだ猛獣を掴んで投げ飛ばした。

「その子を連れていけッ谷垣!!その子はアシリパさんの情報を持っている。」

叫ぶ杉元と、リロードする私。その間に月島がかわって猛獣に向かって銃弾を放つ。

「やったか?」

「わからん、とにかく離れるぞ!走れッ!!」

杉元が月島に尋ねるが、月島は首を振って鯉登を背負いながら走った。背負われた月島が後ろから近づいてくる猛獣を見つけてしまう。

「杉元撃て!!追いつかれるぞッ!!」

月島が叫び、杉元が狙い撃つがかすりもしない。あまりにも素早くジグザグ走行をしてくるからだ。

「くそっ!当たんねえ!!」

私も構えて発砲する。次は右後足に着弾する。しかし、それでも猛獣は追いかけてくるのをやめない。

「当たっても怯まず突っ込んできます!急いで逃げて下さいっ!!」

走りながら私も叫ぶと、犬橇に乗ったお爺さんが迎えに来た。

「エノノカ!!」

皆がソリへと走って飛び乗る。私は乗る前に膝をついて身体の軸を安定させ、もう一度、弾を放った。三十年式実包よりも威力の高いロシア性の弾は猛獣の頭を綺麗に貫く。

「…!よしっ!」

ドサッと崩れ落ちて死んだ猛獣の姿を確認した私は、杉元の手を掴んでソリに飛び乗った。

「…結城さん!!助かった!!」

思ったより強く引かれた手の勢いで杉元に抱きついてしまう。彼もそれを受け止めて私を座らせてくれた。後ろからぎゅっと腰を掴まれる。初めて使う銃で心拍が上がった私に杉元のゆっくりとした鼓動がじんわりと沁みた。

重いとヘンケとエノノカに言われて何故か谷垣だけ落とされる。走って痩せろと辛辣な扱いをされていた。

大泊の近くの樺太アイヌの集落についた私達は、エノノカとヘンケの冬の家に案内してもらった。私はグズリという猛獣に裂かれた鯉登の背中の手当てをする。

「まず傷口を洗うので我慢して下さい。」

服を脱いでもらって傷口を水で洗いながら汚れをとっていく。鯉登はぐぬぬと歯を食いしばっていた。綺麗なった傷口にヘンケから貰った熊の脂を塗っていく。

「臭い臭い!!何を塗っているのだ!?」

「熊の脂です。傷に効きます。アシリパさんから作り方を教えてもらったヨモギの塗り薬も塗っておきますね。」

グズリの毛皮と交換して貰った布を背中に巻いていく。このまま服を着ると汚れてしまうのと、少しでも塗り薬が浸透するようにキツめに縛る。

「銃の扱いも怪我の手当も手慣れているな。まるで幕末のジャンヌダルクと呼ばれた新島八重のようだ。」

されるがままの鯉登から声をかけられた。私はシャツを着させながら笑う。

「たしか銃を持って戦っただけじゃなく、日清日露戦争で看護活動もされたんですよね。彼女が持っていた黒色火薬のスペンサー銃ではなく火力が高い無煙火薬の小銃ですから頼りにしてください。」

手当が終わると、さっそく整備をしようとモシンナガンを持つ。鯉登は私に振り返ってかたじけないと頭を下げた。そして一本のサバイバルナイフを手渡してくる。

「これは……。」

旭川監獄で追ってくる兵士の指を切り落とし、鯉登に投げたものだった。

「忘れ物だ。次は私じゃなくて尾形に投げろ。」

私は黙って頷き、サバイバルナイフを革に包んでポケットにしまう。

「…そもそも、尾形さんの目的って何なんですか?」

「知らん!あんな山猫に高尚な理由などあるものか。我々を掻き乱して遊んでいるだけじゃないのか?」

私が改めて尋ねると、鯉登はフンッと鼻を鳴らして答えた。彼は心底、尾形が嫌いなようだ。私がモシンナガンのマガジンから残弾を取り出し、薬室の掃除を始めると再び声がかかる。

「グズリ討伐では月島軍曹や杉元よりも銃が上手かったが…尾形から扱い方を教わったそうだな。」

「…三十年式はそうですね。このモシンナガンは自分で覚えなければいけません。三十八年式の方が射程は長いので私の今の腕では尾形さんに負けます。」

オイルを塗りながら答える。今のまま尾形に会ってもただ撃ち殺される未来しか見えない。

「それは困る、早く腕を高めろ。近接戦なら負けないが、遠距離戦になったら我々はどうも出来ないんだぞ。」

鯉登の言葉に私は無言で頷いた。未だに尾形と殺し合う事に実感が湧かない。既に撃ち合っていても、彼のことを殺したいという気持ちはどこにもなかった。

「オイ貴様…もしや情が残っているのか?…尾形の女だったりはしないだろうなぁ?」

「一緒にいた時間が長かったですから、多少の情はありますよ。もちろん、恋仲なんてもんではないですけどね。」

私と尾形の仲には何もなかった。嫁に来いと言われたが、拒否する私を尾形は受け入れていた。無理やり口付けされただけで、意味のある言葉を交わしたわけではない。どれだけ近くにいようと、尾形は本来の目的や心の奥の奥を曝け出さなかったし、私達は心を通わせる事が出来なかった。

「杉元さんやアシリパさんが危険に晒されるくらいなら、迷いなく尾形さんを撃ちます。」

名前のない関係の尾形よりも、恩人で仲間で家族のアシリパや杉元の方が大事だ。私はきっと引き金を引くだろう。今度はきっと震えずに。

「さっさと残りの情も切り捨てるんだな。斃したグズリのように尾形の頭を狙え。」

鯉登が立ち上がり、私を見下ろして言った。私は返事代わりに手を振り、また銃の整備に戻る。手に持っていたのは、尾形から貰った薬室塗油用刷毛だった。遊底分解器や薬室検査鏡も彼がくれたものだ。使うたびに彼と過ごした日々が嫌でも蘇ってくる。簡単に切り捨てられるほど、浅い関係ではなかったことを思い知らされるだけだった。


PREV | TOP | NEXT
HOME

コメント
前はありません次はありません