豊原と曲馬団

凍てつく霜が、葉のない寂しい木に降り立ち白く彩る朝。岩息と別れを告げた私達はロシア人の村から豊原へと移動を始めた。犬橇にヘンケ、鯉登、月島、私の順で座る。
 
「七瀬、こちらに体重を預けすぎだ。自分の力でちゃんと座れ。」

「…はい。」

月島に叱咤され、姿勢を正そうとするが頭や身体が重くてなかなか身体を起こせない。

「…熱が出てるのか?」

月島の手が前から伸びてきて私のおでこを触った。冷たくて気持ちがいい。ヘンケがペラッという言葉で一度犬橇を止めると、月島が私を鯉登と月島の間に移動させて紐で結んだ。

「豊原まであと20キロ以上はある。身体は鯉登少尉に預けろ。紐で俺の身体と縛ってあるから落とされはしない。宿に着くまではなんとか耐えろ。」

月島に励まされるように背中を叩かれ、私は大きく頷いた。私が鯉登に体重をかけると月島が後ろから抱きしめてさらに固定してくれる。

「手の掛かる奴だ。身体が弱すぎやしないか?」

「北海道よりもはるかに寒いですし致し方ありません。昨晩のバーニャと極寒の繰り返しで風邪を引いたのでしょう。」

鯉登と月島の会話が私の頭上で交わされる。私は身体を休めるように目を閉じながら、二人の低い声を聞いていた。

「酒を飲むのも辞めさせろ。不摂生で使い物にならんのは今後困る。」

鯉登の言葉に私は思わず顔を上げて嫌だ嫌だと首を振る。

「駄々を捏ねるな。涙目で訴えてくるな。頬を膨らませるな。ダメなものはダメだ!」

項垂れた私は顎を鯉登の背中に置き、小さくため息を吐いた。犬橇の振動に揺られながら豊原に着くまでじっと耐える。雪が舞う白銀の世界を駆けること数時間、ついに街並みが見えてきた。街のそばに犬橇をくくりつけて降りると、鯉登が私を米俵のように右肩に抱える。

「聞き込みの為に豊原に滞在する。また数日後に宿に来てもらってもいいか。」

「わかった!ヘンケと私、いちどクコタヌフに帰る!またくるよ!」

月島がエノノカと話をつけて手を振ると、杉元と谷垣に私の事情を話して宿へと向かった。

「鯉登少尉!結城さんを物みたいに担ぐな!俺が運ぶ!」

鯉登に抱えられて下を向きながら手足をダランとさせる私を見て杉元が抱え直そうとするが、鯉登がそれを拒んだ。

「過保護か。コイツはこれで何の不満も無さそうだぞ。」

腹部が圧迫され過ぎて声が出ないだけなのだが。私を取り戻そうとする杉元と、それを避けてぶんぶん私を振り回す鯉登によって宿に着く頃には死人の様な顔になっていた。すぐさま鯉登は布団の上に私を横たわらせ、濡れた手拭いを頭にのせた。日が傾き、月島と谷垣達は銭湯へと向かったようだったが、杉元は私のそばにただ居てくれた。

「アシリパさんだったら、風邪に効く煎じ薬や植物とか何でも知ってるのに……。何も出来なくてごめんな。」

「いいえ…足を引っ張って、私の方こそ申し訳ないです。こうやって手を握って貰えるだけですごく心強いですよ。」

身体が弱った時ほど寂しくなるので、杉元の存在がありがたかった。私を強く握る杉元の手に顔を寄せて擦る。びくっと彼の手が少し震えたが、すぐにされるがままになりもう片方の手で私の頬を撫で始めた。杉元がとても優しく、壊れ物のように扱うので私は照れてしまう。

「…まるで私の事が好きみたいですね。」

ハハッと私が笑うと杉元が目を丸くした。そして大きくため息を吐く。

「俺、普通に結城さんに求婚したんだけど、無かったことにされてない?」

「…いやだってアレは同情とノリでしょう?」

急に恥ずかしくなって布団に顔を隠しながらそう言うと、杉元が苦笑いをした。

「そういう事にしたのは結城さんだろ。そりゃ巻き込んでしまった罪悪感がないとは言えないけど、それとは別に俺はずっと本気だよ。」

「…アシリパさんの気持ちは?」

「何でそこにアシリパさんが出てくるの?俺と結城さんの話であって関係なくないか。」

関係あるんだよと言いたかった。アシリパが杉元の事を好きな事を知っているからこそ、私は頷けない。二人とも大好きだから、関係を壊したくはなかった。

「杉元さん……。」

「返事はまだ良い。どうせ俺の幸せがどうとか不明瞭な理由で断るつもりだろう。アシリパさんを奪還するまでの間、俺を一人の男として良い男かどうかちゃんと考えてくれ。」

杉元はそう言うと私の髪をぐしゃぐしゃに撫で回してから、そっと手を離した。ちょうど足音ともに襖がガタっと開く。

「戻ったぞ。看病は代わるから杉元も風呂に入ってきたらどうだ。」

そう言って谷垣が私の枕元にドカッと座った。谷垣の大きな手が私のおでこを包む。私は思考を放棄するように目を瞑り、暗い世界に落ちていった。

ーーーー

次の日、熱が無事に下がった私は谷垣とチカパシと共に豊原での聞き込みを開始した。豊原は想像以上に広すぎて、家も人も多いものだから声をかけるのも骨が折れる。私は早々に離脱して賭場へと向かおうとしていたら、屋根の上を走る鯉登を見つけてしまった。見なかった事にしてスルーしようとするも、走ってきた月島に首根っこを掴まれる。

「何故一人でウロウロしている!谷垣はどうした!?」

「チカパシと聞き込みをしてます。」

「女一人は危険だろう!杉元の背嚢を子供に盗られたから七瀬も走れ!」

月島にせっつかれて置き引きの子供を走りながら探す。姿が見えずにあたりをウロウロ走っていると銃声が二発響いた。脅威的な身体能力を持つ鯉登が追いかけて居場所を突き止めたようだ。

「申し訳ございません!!よりにもよって兵隊さんから荷物を盗むとは…こいつはみなし児で育ちが悪く何度罰を与えても悪い癖が治らんのです。」

設営作業をしている空き地の前で土下座する保護者と盗人の子供。

「何度もやってしまうんだったら警察か憲兵に突き出した方が早いんじゃないですか?」

「いやいいよ。大事にする気はない。俺たちそんな場合じゃないんだ。」

盗みも犯罪なんだから警察に行こうと私がせかすが、時間を取られるのが嫌な杉元は内々に済ませようとしている。それを見た保護者の男が下げていた鞘から剣を抜いた。

「これ以上世間様にご迷惑をおかけするわけにはいきません!今日、この場で保護者として責任を取らせて頂きます!」

そう言って子供の頬を真剣で切った。頬を縦に切り裂き、血が流れる。流石に日本刀を出してくるのは責任の取り方が野蛮すぎてドン引きだ。杉元はカッと血が上り、保護者の男を殴った。

「なにやってんだテメェ!まだ子供だぞ!!」

子供のために怒れる杉元はカッコいいが、手が早すぎる。谷垣がすぐに子供に駆け寄り医者へと連れて行こうとしたが、頬から流れていたのは偽物の血だった。そう、手品だったらしい。改めて軽業師の長吉と、座長から紹介があった。

「曲馬団『ヤマダ一座』座長の山田と申します。我々はロシア各地での巡業を大盛況のうちに終え、日本に凱旋。樺太での公演を控えております。」

杉元が「これだ!」と叫んだ。谷垣も私も意味がわからずはてなマークを頭に浮かべている。

「目撃状況などを考えてアシリパさんとはまだそんなに離れているとは思えない。この広い街中を聞き込みしても効率的じゃねえ。俺が生きている事をアシリパさんに伝える方が手っ取り早くないか?」

杉元がこちらに同意を求めて目線を送ってくる。私は「確かにそうですね」と彼の意見に賛同した。杉元は嬉しそうに山田に詰め寄る。

「俺を樺太公演に出せ!『不死身の杉元ハラキリショー』でこの大都市豊原に俺の名を轟かせるんだ!」

山田座長は嫌がったが、警察に長吉をつきだすと脅せば困惑しながらも悩み始める。からくりがバレる事に抵抗がある座長の交換条件で、何故か私達も出演することになった。

「色んな物を手・足・肩などで持ち上げて操って見せる、日本に古くからある『曲持』という芸です。」

長吉やが手本を見せてくれるが、どれも難易度が高く感嘆の声を漏らしてしまう。いきなりこんなの見せられても出来るわけがないと肩をすくめていたら、鯉登が颯爽と技を決めていた。

「ええ!?ウソ…!?なんという身体能力…!!」

「いやなんで見ただけで出来るんですか。天才か何かですか?」

難なくこなす鯉登に対してポカンと口を開ける。鯉登を見た杉元、谷垣、月島達が曲持に挑戦するが出来るはずもなく、チカパシと共にキャッキャと遊んでいた。自転車に乗るサイカホールという演目も練習するが、そもそも杉元も谷垣も自転車に乗れない。

「おお!お嬢さんは自転車の運転が素晴らしい!初めてでこれは才能ありますよ!」

「いえ、真っ直ぐな道しか乗れませんし、肩車は出来そうもないので曲芸は鯉登さんに任せます。」

自転車に乗れる私を見て座長が興奮していたが、期待されても困るので普通に断った。鯉登が颯爽と自転車の前に乗って私の隣を横切る。

「なんてこった…こいつは軽業の天才だ!!」

そうして鯉登が曲芸、杉元がハラキリ、曲芸が出来ない谷垣と月島は少女団に入り演目のわきで踊ることになった。私は踊るのは苦手だが楽器が弾けると伝えると演奏係に任命され、ジラフピアノへと案内される。

「…また珍しい楽器があるなぁ。」

それぞれが別れて練習を始める。少女団の踊りと合わせるまで暗譜が出来る様に、楽譜を見ながらピアノを弾いていた。1時間はとうに経っただろうか、久しぶりに楽器をさわれた嬉しさからつい夢中になってしまって、月島から声をかけられるまで近くに来たことに気付かなかった。

「風琴と洋琴、どっちだ?初めて見る楽器だ。」

「リードオルガンでもグランドピアノでもないですね。どちらかと言うと洋琴に近い箪笥型ピアノです。アップライトピアノの原型ですよ。普通の洋琴より安価で持ち運びしやすいんです。月島さんはクラシックは聞きますか?」

少女団の踊りの練習は谷垣が躓いていて、休憩に入ったらしい。私が指慣らしでショパンの子犬のワルツを弾きながら月島に尋ねると彼は目を細めて頷いた。

「これまで聞いた事がなかったが、第七師団に入って鶴見中尉が教えて下さった。時間が出来ればよく弾いてくださる。」

「鶴見さんは何でも出来るんですね。何を良く弾いてらっしゃったんですか?リクエストがあれば弾きましょうか。」

懐かしそうに遠い目をする月島に声をかける。きっと彼にとって鶴見のピアノを聞く時間ははかけがえのないものなんだろう。任務で遠い地に来る事になった彼を気遣ってリクエストを募ってみると、高難易度の曲名が飛んできた。

「ベートーヴェンの熱情は弾けるか?」

「…悲愴でも月光でもなく、三大ピアノソナタで一番難しい熱情なんですね…。…で、何楽章ですか?」

「それは覚えていない。」

私は困惑しながらも、恐る恐る第一楽章を弾き始めた。まずリズムが難しいし、静と動の対比や右手で主導しながら左手の和音が乱れないように演奏するのがまた厄介だ。鶴見はどんな気持ちで部下に音楽を聞かせたのだろう。病気の絶望の中で生まれたベートーヴェンの燃える感情に、鶴見は共感したのだろうか。そんな事を考えながら弾いているとドタドタと足音が近づいてきた。

「……コレは…鶴見中尉が弾いていた曲ッ!!…恋しい…!!鶴見中尉の音が恋しい…!!」

ピアノの音を聞いて飛んできたのは鯉登だった。懐にしまっていた鶴見の写真を胸に押しつけながら号泣している。想像以上の愛の重さに、指を動かしながら顔がひきつった。ここまで人を心酔させる鶴見のカリスマ性を垣間見た気分だった。

一楽章を弾き終わると、月島と鯉登が満足そうに微笑んだ。いつの間にか杉元も背後に立っていて拍手を送ってくれる。

「すげーな。軍歌を歌うときの風琴しか聞いた事なかったから、こんなに色んな音が出るなんて知らなかったぜ。」

「こんなに達者に演奏するとは、もしやどこぞの家の令嬢ではあるまいな。」

鯉登が前のめりで私の素性を探ろうとしてくる。どう誤魔化そうか考えあぐねていると、月島が真顔になって私の目を射抜いた。

「七瀬結城を小樽で取り逃がして以降、貴女の情報を情報将校である鶴見中尉が全力で集めていましたが何一つ有力な物が得られませんでした。戸籍もなく、貴方の事を知る人が一人もいない。」

私は唾を飲み込んだ。北見の写真館の事も月島にバレていたし、鶴見中尉の事だし当然探られているよなと閉口する。鯉登は初めて聞いたようで「それは本当か!?」と驚いていた。

「ええ。唯一分かったのは鶴見中尉のボーチャードピストルを貫いた38口径の実包がボーチャードの改良型のパラベラム弾でドイツ製という事です。帝国陸軍の将校すら持っていない最新の物を貴女は誰の足もつかずに持っている。これは異常だ。」
 
「…で?結局、何が言いたい?」

私の横で聞いていた杉元が、月島に対して殺気を放ちながら口を開いた。月島も怯む事なく杉元に相対する。

「彼女が何者かという事だ。手に入らない物を持ち、高度な教養を有している。しかし、その一方で写真には影すらも写らない。幽霊か、妖怪か、得体の知れない女は脅威だ。」

幽霊や妖怪扱いされるとは思わず、私は豆鉄砲を喰らった鳩のような顔をしてしまう。

「自分でも自分自身が何か分からないのにそんな事聞かれても困ります。普通の人間のはずですけど…違うんですか?やっぱり私、幽霊なんですかね?」

「結城さんは結城さんだろ。血も流れるし、痛みも感じる。アシリパさんにとっても俺にとっても大事な人だ。結城さんに手を出したら容赦なくぶっ殺すし、先遣隊はもちろん解散だ。」

杉元が私を庇うように手を出して言った。張り詰めた空気が四人を包みこむ。皆が息を飲んだその時、鯉登が月島のほうに向きなおった。

「やめろ、月島軍曹。この女が何者でもアシリパを奪還するには必要だろう。幽霊だろうと、妖怪だろうと、使えるものは使え。鶴見中尉のもとに組んだ協力関係を妖怪如きでわざわざ崩す必要はない。」

普通に妖怪扱いされるのは傷つくのだが、これ以上雰囲気が悪くならないように鯉登が収めてくれているのだと我慢して言葉を飲み込む。月島も鯉登に止められた手前、私の素性にこれ以上は踏み込んではこなかった。

「ほら!月島基!休憩は終わりだよ!さっさと踊りに戻るんだね!」

フミエ先生の呼ぶ声がこちらまで飛んでくる。鋭い目でコチラを伺ってくる月島と物理的に距離が離れて一安心した。曲芸に戻って馬に乗りこなす鯉登に対して期待が高まり騒ぐ座長、これ以上目立つなと叫ぶ杉元。嫉妬だと決めつける鯉登に突っ込む杉元とカオスな状況の中、私は無心で指を動かし続けた。


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