猛吹雪と生きる理由

ちらちらと朝から小雪が降る中、私たちは落合のコタンを後にする。毛皮のお土産と振る舞ったカレーがよほど嬉しかったのか、樺太アイヌの人々からクジラの油やアタネなどの蕪など手土産をたくさん持たせてくれた。

「イヤィラィケレー!」

「イヤイライキレー!」

アシリパから教えてもらったアイヌの言葉で感謝の意を伝えながら、コタンの人々が見えなくなるまで手を振った。

これまでは月島と鯉登が乗る犬橇に乗っていたが、エノノカと代わってもらい杉元と谷垣が乗る犬橇で移動する。月島とは今は少しでも離れていたかったから。警戒し、緊張している私をよそに月島と鯉登は淡々としているのがまた腹立たしい。

落合を出て白縫に入る手前、ヘンケが犬たちに休息と餌をやりたいとの事で立ち止まった。半刻ほど自由時間になり、月島と谷垣とエノノカとチカパシは川に、私と鯉登と杉元はその場にとどまり火を起こして保存食を作っていた。塩漬けした鹿肉をエゾマツの煙で燻していく。燻製はセットし終わったら、後はただ待つだけだ。私はバックパックから豊原で買っていた楽器を取り出した。

「結城さんが買ったのって薩摩琵琶?」

「マンドリンという楽器です。琵琶より小さくて持ち歩きしやすいんです。約束のトンヤレ節、教えて貰えますか?」

本当はウクレレやギターの方が良かったのだが、まだ日本に入ってきていないようだったので、一番似たマンドリンを買った。弦を鳴らしながら、杉元が歌うのを待つをしかし、恥ずかしそうにモジモジしていて、なかなか歌い出さない。じれったくなったのか、隣にいた鯉登が歌い出した。

「宮さん宮さんお馬の前ににヒラヒラするのは何じやいな。トコトンヤレ、トンヤレナ。」

聞き惚れてしまう良い声に思わず手を叩く。鯉登少尉は歌も達者らしい。悔しくなった杉元が顔を赤くしながらも、負けじと一緒に歌い始めた。

「「あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じや知らないか。トコトンヤレ、トンヤレナ。」」

鯉登と違ってちょっと音を外している杉元。鯉登がドヤ顔で杉元を見下ろすと、喧嘩が始まりそう雰囲気が漂ったので、急いで私は耳コピでマンダリンを弾いた。今度は歌詞を教えてもらって、私も一緒に歌う。

「「「一天万乗の一天万乗の帝王に手向かいする奴を、トコトンヤレ、トンヤレナ。 ねらい外さず、ねらい外さず、どんどん撃ち出す、薩長土。トコトンヤレ、トンヤレナ。」」」

明るくて弾むような軽快な曲である。歌詞は戊辰戦争の有栖川親王の歌のようだが。戦時に歌うのではなく、子供から大人までみんなが知ってる流行曲として普段から歌うらしい。

「歌詞に薩長土ってありますけど、閣僚だけじゃなく軍の将校も薩長土が強いんですか?」

「ああ。陸軍の将官など上を占めるのは長州出身、海軍では薩摩出身が多い故、優遇される。私は海軍の父と違って陸軍に入ったがな。冷遇されている第七師団を選んだが、いずれ将官には上がれよう。早く、鶴見中尉と戦線に立って戦功をあげたいものだ。」

私の質問に鯉登が目をキラキラさせなら答える。早口なのは聞かれて嬉しかったからだろう。それを聞いた杉元は吐き捨てるように舌打ちをする。

「…チッ。戦争なんか二度と御免だ。真っ先に死ぬのはお偉いさんじゃなく、矢面に立たされる俺たちなんだよ。戦場に出たこともないのに甘ったれたこと言うんじゃねぇ。」

「私はお前たち一等卒よりも死にやすい旗手志願なんだが?国の為、お上の為、命を投げ打つことを躊躇うのは日本国民の恥だぞ。」

ピキピキと嫌な音が聞こえる。油断するとすぐに険悪になるのはやめて欲しい。戦争を起こそうとしている第七師団とアイヌや北海道の平和を望む私達が相容れる訳がないのだ。私は二人の間に手を入れた。

「はい!やめ!煽り合うのは禁止です!ほら!煙が少なくなってきたので空気送ってください!」

渋々、パタパタと仰ぎながら空気を送る二人。灰がすこしだけ舞い上がった。パチパチとエゾマツが燃える音が響く。

「おい七瀬、煤が頬に着いているぞ。馬油があるからこれで落とせ。」

鯉登が私の頬に気づくと、背嚢から馬油を取り出すと私の頬に塗った。汚れを浮かしてからそのまま手拭いで拭いてくれる。

「勝手に結城さんに触んじゃねーよ。油は手に出してあげたら良いだろうが。」

「何故そこまで過敏に反応する。杉元、お前の女じゃないだろう。」

鯉登が睨むと、杉元はグッと口をつぐんだ。私は正直、どっちでもいいのでこれしきで揉められる方が困る。そもそも煽るの禁止って言ったばっかりなのに、話を聞かない男たちだ。

軍歌を弾けばまたうだうだ始まりそうだと思った私は、適当に好きだった邦楽をアルペジオで奏でながら、当たり障りのなさそうな話題を振って時間が過ぎるのを待った。何故、陸軍に入ったのかとか、家族はどんな人なのかとか。他愛ない話だと思ったのに、杉元は家族を結核で全員亡くしていたり、鯉登は兄が日清戦争で戦死したりがきっかけだったので、何故か私が冷や汗をかいてしまった。二人のどこに地雷があるかわからず、喋るのが怖くなっていた私は煙が消えてやっと、肩の荷を下ろした。

休憩が終わり、谷垣や月島達が戻ってきたので、また犬橇に乗りなおす。杉元と谷垣の犬橇に乗って気付いた事があった。それは、これまでヘンケの犬橇に乗っていた時、揺れないように月島が支えてくれていた事、お尻が痛く無いように月島が毛布を敷いてくれていた事、そんな彼の気遣いだった。さりげない優しさに気付いてしまうと、彼のことを嫌いになりたくてもなりきれなかった。私はこれ以上考えないように、前に座る杉元の背中に顔を埋めた。

ーーーー

白縫を越えたあたりから急に天候が崩れてきた。真っ白な吹雪が襲い、どんどん前が見えなくなる。

「リュウ何やってんだ!列から外れるな!」

リュウだけ違う方向へと走り出し、杉元が吠えた。谷垣が「理由があるんじゃないか」と言うが、他の樺太犬は皆揃って前を走っているので、杉元はリュウを叱る。そのまま樺太犬達の力に負けてまた真っ直ぐに進み出した。

「…っ。寒すぎて…顔が痛い…。」

「顔をふせてもっと寄れ。手は俺の懐にいれろ。」

震える私に杉元が指示する。その時、遠くで銃声が聞こえた。どうやらヘンケ達と逸れてしまったらしい。急いで谷垣がソリに乗りながら銃を撃って答えるが、吹雪の中で探すのは困難だ。しかも海岸に出てしまっていた。ゴォーゴォーと風と大雪が襲う銀世界の中、冷たさと共に絶望感が足元から身体を覆う。

「あはは…。右も左も分からないし、避難場所も見当たらないですね…。」

しかし、こんな二度と戻ってこれないような場所に来れることも中々無い。私はバックパックから荷物を取り出すと、これまで使ってきたSIG SAUERのアサルトライフルとマガジンを投げ捨て、免許証、パスポート、太陽光パネルとモバイルバッテリーにスマートフォンまで。

月島との一件以来、未来の技術や証拠は惜しむよりも捨てるべきだと判断した。勿体ない思いや寂しい思いが無いわけじゃない。でも、戦争に利用されるよりよっぽどましだ。思い出や写真が詰まった、過去の自分の全てを捨て去った。この吹雪で雪が覆い隠し、雪が溶ければこのまま海に流れていくだろう。

「……さよなら。」

別れを告げてから、急いで杉元達のところに戻る。少しでもこの吹雪から身を守るため、杉元と谷垣は地面を掘っていた。手や唇をガタガタと震わせながら私もスコップで土をかき出す。ただ、凍っているのか、スコップが刺さらなくなってきった。

「これ以上掘れない!これでなんとか凌ぐぞ!ソリを壊せ!」

谷垣が叫ぶ。本来ならもっと深く掘って寒さを完全に遮断したかったが、風避け程度にしか掘れなかった。急いでソリを燃やし、少しでも暖を取る方向に舵を切った。私もバックパックから豊原で買ったばかりのマンドリンを出して地面に叩きつける。

「結城さんそれ…高かっただろ…?せっかく買ったのに…。」

「音楽で寒さは凌げません。木があるなら少しでも燃やさないと…。」

戸惑う杉元に私はみんなの命のほうが大事だと弱々しく笑った。浅く掘った地面で皆で身を寄せ合い、クジラの油と木に火をつける。燃えた薪を土でかぶせ、その上に寝転び、樺太犬やリュウ達で暖を取った。

「あ…豊原で買っていたウォッカがありました。…すぐに飲みましょう…。」

「酒か…!身体が温まるな…!」

バックパックから瓶を取り出すと、谷垣が目を輝かせた。グラスやカップに注いで飲みたいところだが、寒すぎて皮膚がくっついてしまうので大きく口を開けてもらい、酒を直接杉元の口へと流し込む。

「助かった……!……ッ!?…ってこれキツすぎるだろ!喉が焼ける!!」

「カーッ!うま……!!」

焼け付くほどの熱さが喉から食道を通って胃を温める。高いアルコール度数のお陰で、身体が少しだけポカポカしてきた。全身がガチガチにかじかみ、酒だけでは猛吹雪の寒さには敵わないが、それでも幾分か気がマシだ。おかわりをしようともう一度、瓶を傾けると谷垣に止められる。

「やめろ、多少なら良いが泥酔すれば低体温症で死ぬぞ!」

「……この猛吹雪の中で深夜の氷点下を耐えれるんですか…?数メートル歩いただけでも遭難する状況で助けは期待出来ない…。どうせ凍え死ぬなら最後は酔っ払いたいんですよ…!」

最後の一滴まで飲み干してこそだ。こんな半分以上も残したままでは死んでも死にきれない。半ベソで弱音を吐き、お酒に逃げようとする私の背中を、谷垣が思い切り叩いた。

「月島軍曹の銃声がしただろう!明日までどうにか耐えれば助かる!諦めるな!」

谷垣に酒を奪われ、励まされる。酒の奪い合いをする体力もなくなった私は、諦めて大人しくじっとした。コタンで貰った蕪を生のままムシャムシャと真顔で食べ続けるしかない。

ゴォォーゴォォー

吹雪は止む気配がなく、ただ強さが増すばかりだった。日が傾き、暗さと共にさらに厳しい寒さが私達を襲う。猛吹雪は雪が顔を叩く度に刺すように痛い。唇はボロボロになり、既にまつ毛も凍っていた。

冷たかった手足はやがて痒くなり、そして痛みがで始める。そしてついに耐えきれないほどの寒さに、足先だけじゃなく身体もだんだん感覚がなくなってきた。思わずうとうとし始めると、谷垣に顔を引っ張られ、口にモチを入れられる。もぐもぐと口を動かすが飲み込む事が出来ない。

「……結城さん!……さんっ!!………っ!!」

必死に目を開けているが、杉元と谷垣の声がだんだん遠ざかっていく。終わりの足音が近づいてくる。

「…つかれ……ちゃった…。」

もう瞼を開く力もなくなった私は諦めるように目を瞑った。ここで本当に死ぬのか。それとも元の世界に戻れるのか、そんなの死ななきゃ分からない。でもどっちにしろ、これからは何も考えなくて済むのだから幸せだろう。

もう裏切られることも、血に塗れることもない。未来のことも、自分のことも、悩まされる全てのことから解放されるのだ。心臓がジワジワとあたたかくなる。さっきまでの寒さとは無縁のようだった。

(死を願うのはただの逃げだぞ。)

尾形の厳しく放った言葉が頭に響く。

(俺は結城さんに生きてて欲しい。)

杉元の悲しそうな顔が頭に浮かぶ。

仕方ないじゃないか。だってこの世界は生きづらい。毎日、同僚と笑いながら仕事して、帰ったらボーッとドラマを見て、ゴロゴロ携帯を弄りながら眠る。休みの日はライフル射撃や狩猟を楽しんで、またいつもの日常に戻る。そんな何にも脅かされることもない生活とはまるで違うのだ。

敵に追われ、命のやり取りをしながらも、みんなと過ごす日々は楽しかった。でもそろそろ楽になっても良いだろう。だって、私はもともとこの世界の異物なんだから。

そんな思いが頭をよぎると、アシリパの顔が浮かんできた。アシリパは私の手を掴んで離さない。

(『カント オロワ ヤク サク ノ アランケプ シネプ カ イサム』天から役目なしに降ろされたものはひとつも無い、という意味だ。結城にもきっと役目があるからここにいるんだと思う。)

アシリパの聡明な蒼い目が私の心を射抜く。

(ただ側にいてくれるだけでどれだけ救われているか、結城は知らないだろう?…。天から降ってきた結城は、私にとって光だ。だから、そう心配そうにするな。ただ…笑ってくれ。)

網走監獄の侵入前にアシリパが告げた言葉が蘇る。

微笑むアシリパがいた。嬉しそうに身体を揺らすアシリパが。怒って頬を膨らませるアシリパが。驚いて目を丸くさせるアシリパが。美味しそうに頬張るアシリパが。

そして…最後に見た泣き崩れるアシリパがいた。

アシリパの幸せが私の幸せだったはずだ。泣いたままのアシリパを放って置いちゃだめだ。このまま死んだら絶対にだめだ。アシリパが幸せになるところを見届けるんだ。それが、彼女と出会った私の役目だろう。

生きなきゃ。

止まっていた心臓が動き出した気がした。

「…シ…リパ…さ…ん…。」

「…おい!起きた!結城さんの意識が戻ったぞ!!」

杉元の声が頭をガンガンと打ち鳴らす。ゆっくり瞼をあけると、皆が私の顔を覗き込んでいた。身体が何かに巻かれていて身動きが取れない。

「意識が無かったので濡れた服を全部脱がせて毛布に包んである。低体温症は急に温めると危険だ。」

月島が私に告げた。たしかに身体を締め付けるものがないので身体は楽だ。しかし、意識のないうちに裸を見られたとなると流石に恥ずかしい。私は複雑な気持ちのまま毛布の中に頭を引っ込めた。

「エノノカに手伝ってもらって肌は極力見ていないから安心しろ。それより凍傷が問題だ。手足が真っ赤に腫れて、一部に水疱もできていた。動けるようになったらお湯をもらってゆっくり温めろ。」

月島が無表情のままそう告げる。気まずい関係の中、適切に処置をしてくれたのは有難い限りだ。杉元と谷垣とチカパシは私が無事なのが分かるとペチカという窯の上には這い上がって温めなおしていた。鯉登は優雅にエノノカとティータイムをしている。気を失っている間に、ロシア人の家に避難したらしい。

「…死ぬことに抵抗はないと思ってたけど、いざ死ぬかもってなると…色々考えてしまうものですね。」

「アシリパさんのことか?」

私がゆっくり手や足の感覚を戻しながら呟くと、すぐに杉元が反応した。なぜ分かったんだろう。私が頷いて首を傾げると、杉元は顔を眉をへの字にしながらクシャッと笑う。

「アシリパさんの名前を呼んでたからさ。心配で死ねないって思った?」

私は大きく頷いた。無意識に涙が溢れてくる。まだパリパリに冷たい頬をつたう涙が刺すように痛い。

「…アシリパさんは…どんな状況でも必死に生きてるのに……安易に死のうとしていた自分が恥ずかしい………。」

私は顔を腕で覆い、堰が切れたように嗚咽を漏らす。外の大吹雪の音とパチパチと弾ける火の音の中に私の声が響いた。

「アシリパさんに会いたい……っ……笑った顔が見たい…またヒンナ、ヒンナしたいっ…。」

私は腕で押さえても止まらない涙を流しながら、恥も外聞も捨てて、溺れる様に咽び泣く。ペチカで身体を温めていた谷垣が、そんな私を見て微笑んだ。

「アシリパは幸せだな。こんなにも思ってくれてる人がいる。目的先も分かってるんだ、きっと会えるさ。そしてフチの元へ連れ帰って、皆で乾杯しよう。」

上から優しい声が降り注いだ。チカパシも「うんうん」と相槌をうってくれる。思わずフッと笑みが溢れた。確かに、谷垣もインカラマッの側にいるよりもアシリパを無事に連れ戻すことを選んだ。私達は彼女を愛さずにはいられない。彼女の幸せを願わずにはいられないようだ。私と谷垣は目を合わせ、微笑み合う。

「長い時間一緒にいて、杉元が生きる理由にはならなかった訳だ。悲しいなぁ…。」

和やかな雰囲気に鯉登がスーシュカを食べながら茶々を入れてきた。優雅にお茶を啜る姿が一人だけ映画の中にいるようである。杉元は頬をピクピクとさせながら鯉登を見た。

「うるせえ。結城さんが生きたいと思えるなら、理由が何でも俺は嬉しいからいいんだよ。」

鯉登は呆れているが、杉元の優しさが身に沁みる。私は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を手拭いでぬぐって、エノノカに助けてもらいながら隣の部屋で着替えた。足は真っ赤で指先がボロボロになっている。凍傷で痛々しくなったそれをロシア人夫妻が沸かしてくれたお湯でゆっくりと解していった。杉元や谷垣とチカパシは凍傷は平気だったらしく、3人の身体の強さに感服してしまう。手足が温まるとまた眠くなってきた。

「まずは栄養をとれ。腹が減っては戦はできん。」

椅子に座ったままうとうとする私の口に鯉登がスーシュカを詰め込んでくる。美味しいけど苦しい。

「この茶にブランデーを入れると、より味わい深くなる。ほら飲め、大好きな酒だぞ。」

鯉登にブランデー入り紅茶を差し出される。できるならブランデー単品で頂きたかったが、彼の好意なのでありがたく受け取った。ボロボロの私にみんなが優しくしてくれるので、また泣いてしまいそうだ。

砂糖の入った甘い紅茶とブランデーの芳醇な香りが私を包み込んだ。いつのまにか身体だけじゃなく、心も温まっていた。


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