山猫と変わる女

鯉登と共にアザラシを新問の村に持ち帰る頃には、すっかり日が傾いてきていた。空気が澄んだ冬は、夕焼けがまるで赤々と燃えるよう。私達は暗くなる前に冬の家に戻り、アザラシ鍋を作ることにした。コトコトコト…冬の家に音が響く。日本語が通じない樺太アイヌの村でも空き家を貸してもらえて快適に過ごせているのは、エノノカが交渉してくれるお陰だ。

「おかえりなさい。」

「ただいま、結城さん。」

鍋が出来た頃にはみんな帰ってきたので、囲炉裏を囲みながら今日の動向について報告会をした。アシリパはこの村には立ち寄ってないらしく、別の村を経由して北に上ったようだ。杉元と月島がこの村での聞き込みの内容を告げた後、エノノカが神妙な顔で村の話をし始めた。なんと、この村の食糧庫の近くにメコオヤシという猫の化け物が出たらしい。アイヌの昔話に出てくる化け猫で、赤と白のブチがあり犬ぐらい大きい猫だそうだ。それを聞いた月島が、オオヤマネコの事だろうと呟く。ロシアなど寒いところにいるヤマネコらしい。ヤマネコといえばイリオモテヤマネコしか浮かばなかった。

「ふん…尾形百之助じゃないのか?いよいよ奴らに追いついたか。」

「なんで尾形なんだよ。」

オオヤマネコという言葉に反応し、冷ややかに笑った鯉登に杉元が尋ねた。谷垣は何か知っているようだが口は閉じたままである。

「山猫の子供は山猫…。」

その鯉登の言葉に、以前も彼が尾形の事を山猫と呼んでいたのを思い出す。確かに猫っぽいところがあるし、野良猫みたいな意味だろうか。私がそう勝手に解釈しようとしている間に、杉元が「どう意味だ」と尋ねる。鯉登の代わりに、月島が淡々と答えた。

「山猫は『芸者』を指す隠語だ。師団の一部の連中が言っていたくだらない軽口だ。」

「本当にくだらねぇな…」

軽口と言う名の陰口に杉元が目を伏せながら吐き捨てるように言った。苦い顔をする彼も、家族が結核になった時にいろんな陰口を叩かれたのだろう。

「芸者の子供ってだけで蔑まれるんですか?」

遊女だけじゃなく、音楽で身を立てる芸者すら差別されるなんて、明治時代といっても身分差別がまだ濃いのだろうか。排他的で嫌気がさす。私が顔を顰めながら疑問をぶつけると鯉登が解説してくれた。

「芸を売るんじゃなくて身体を売る芸者が蔑まれるのだ。尾形百之助は、母親が第七師団長だった花沢中将に身体を売って生まれたと噂されていた。尾形の弟で嫡男の花沢勇作殿はとても高潔で立派な方だったのだから尚更ではないか?本妻の子か山猫の子かでこうも違うんじゃ皆が口にする。」

なるほど、枕営業と思われてるのか。例えそうだとしても尾形や母親が悪いのではなく、側室にするなり、子供だけ花沢家に入れるなり責任を取らなかった父親の花沢中将が悪いと思うけれど。

「どんな理由があろうと孕ませた奴の問題でしょう。花沢中将を叩くのではなく、尾形上等兵という叩きやすい相手に対してだけ悪口を吐くなんて、男だらけの軍隊は陰湿で嫌ですね。」

「あぁ?第七師団の為に腹を切った中将と尾形はあまりにも違うだろう。あの捻くれた性格だ。どれだけ能力があろうと嫌ってる人間も少なくない。私も大嫌いだ。」

続く鯉登の言葉に私はグッと眉を寄せた。尾形の性格がどれだけ悪かろうと、生まれを蔑んで良い理由にはならないのに。きっと周りからそんな対応をされ続けたから捻じ曲がってしまったんじゃないだろうか。

『俺は愛されなかった人間に見えるか?ーー俺は祝福されなかったから欠けていると?』

屈斜路湖近くで尾形の発した言葉が頭の中で反芻する。冷徹なようで、執着心があり生まれや環境を気にしていた彼は、とても人間臭い男だ。捻くれているし、意地悪だが、私は尾形の性格が嫌いな訳では無かった。

「それに『山猫』にはインチキとか人を化かす意味の隠語もあるだろう?くだらん軽口だが、しかし案の定…ではないか。違うか?杉元。」

鯉登の直球ストレートに杉元の目は光を無くしていた。山猫のようにアシリパを尾形にまんまと奪われしまったからだ。

「アイヌのその変な話に教訓があるとすれば…『泥棒猫は撃ち殺せ』だ。」

鯉登が最後に笑った。鯉登に煽られ、ふつふつと怒りを燃やす杉元。彼の殺気に気が滅入りながら、私は黙々と鍋を食べすすめた。私達の目的はアシリパを救出する事で、それを邪魔するものは撃ち殺す、そう分かってはいても、尾形とキロランケを思い浮かべる度に強く胸を締め付けられる。二人の体温を今も忘れらないまま、椀に映る情けない自分の顔を見つめていた。

ーーーー

翌朝、私は村の人から勧められて、アザラシの脂でアイスクリームを作っていた。鯉登がさも当然のように私の隣に来て手伝おうとしてくるので、有り難く混ぜて貰っている。

「アイスクリンを食べるのはパーラーに行った時以来だな。久々で心が躍る。」

「…魚のすり身なども入れますし、別物ですよ?コケモモとブラックベリーを潰しておいたのでこれも混ぜて味付けして下さい。」

木のボウルの中身がだんだんピンク色のアイスになっていく。見た目だけは可愛くてとても美味しそうだ。

「はい、口開けて下さい。」

「あ?」

ポカンと口を開ける鯉登に木の匙を突っ込んだ。「はい、あーん」とアシリパから餌付けされていた感覚で彼にも同じようにやると、鯉登は顔を真っ赤にしてしまった。

「オイはちんじゃね!ないすっど!!」

「…味はいかがですか?」

鯉登の薩摩弁は何を言っているか分からないので無視をする。鯉登に味の感想を聞きながら、自分でも食べてみる。マズイ。生臭さがベリー類で消せてない。食感や見た目はおしゃれなので失敗したフランス料理みたいだ。鯉登と顔を顰めながら見合う。

「…此処ではご馳走なのだろう。村の人の前ではそんな顔をするなよ。」

「そういう常識的な感覚はあるんですね。」

お坊ちゃんなのに、という言葉は飲み込んだ。鯉登に「馬鹿にしてるのか?」みたいな顔でみられたので、ヨシヨシと頭を撫でておく。また顔を赤くして奇声を上げ始めたので、木のボウルを持って冬の家であるトイチセへと入っていった。カネモチを作っている谷垣の口に放り込むと、渋い顔をしたのでおしりをしっかり叩いておいた。

トイチセで杉元達と樺太アイスクリームを食べていると、外から悲鳴が聞こえた。男の声も飛び交い、急に騒がしくなってみんなで外に出る。

「エノノカ!!!」

ヘンケの叫び声とその視線の先を追うとエノノカがアイヌの男に囚われ、刃物を突きつけられていた。男は殺人を犯して逃亡してきた奴らしい。村の人達や追いかけてきたアイヌの男達が銃を構えているが人質を取られているので引き金を引けずに場が硬直している。

「後ろから回り込むぞ。」

鯉登がそう日本語で指示するが、杉元は素手のままずんずんと正面から殺人犯に向かって歩き出した。「杉元!」と鯉登が引き止めようとするが、彼は一切、耳を貸さない。殺人犯が近づいてくる杉元に目が釘付けになったのを確認した私は、モシンナガンのボルトを引き、杉元の背や村の男達の背に隠れながら銃口を構えた。

「離れてろ!アシリパさん!!」

チカパシの回り込みでナイフを無力化された殺人犯の顔に杉元が思い切り膝蹴りをいれた。そして、エノノカを男から引き離す。今だ。

ドンッ!!

殺人犯の太腿に銃弾が当たった。杉元がそばにいる為頭は狙えなかったが、十分だろう。杉元は倒れた男の頭を強く踏み締めると、腰に掛けた銃剣に手をかけた。

「待ってくれ、あんたは殺さなくていい!」

アイヌの村の男達に杉元が止められていた。私はすぐに銃腔内にブラシを入れながら、やりとりを眺めていた。エノノカの事をアシリパと呼んでいる彼のメンタルが心配である。自分自身が不安定だった事もあって気付いていなかったが、杉元の方がよっぽどやられてそうだ。

「たしかアイヌには死刑はなかっただろ?止めてくれなくても俺がやったのに……あんたら手ぶらで帰れたぜ?」

「樺太では我々のやり方がある。」

殺す気満々だった杉元の目はどこか暗かった。アシリパが攫われた事を重ねていたのだろうか。少女を脅かすものは全て殺してしまいそうな狂気さえ感じた。殺人犯を追ってきた東の村のアイヌ男は毅然とした態度で断ってくれたので、私は胸を撫で下ろす。

ただ、男が語る目に針を刺した後の生き埋めの刑の方が聞いているだけで恐ろしい。殺人犯の棺の上に死んだ被害者の棺を置いて埋葬するのだから、余計に執念深くて怖い。一瞬で殺さず苦痛を与え続けてジワジワと殺すアイヌの死刑の怖さに怯える私。鯉登も月島は違うようで、何故か感心していた。

「生き埋め刑か、刑罰であっても直接的な殺人は避けたいのだな。」

「それだけ殺人は不浄で忌み嫌うものなんでしょう。」

「…え、そっちですか?」

確かにアイヌは殺人忌避するってアシリパが言ってたけど、生き埋めにする時点で死刑と変わらない気がするが。苦痛をなくす為にと作られたギロチンの方がよっぽど人道的な気がするけど、感覚が違うのだろう。

「軍人は人を殺すのが仕事ですから、不浄なんて言ってられませんが。」

月島がフッと笑った。自罰的な発言が杉元と重なって、不快だ。戦争経験者が皆こうなってしまうなら闇が深くて悲しくなる。

「殺すのが仕事ではなく、何かを守る為に戦っているだけでしょう。必要がなければ、帝国軍も訓練のみで災害支援や人道支援しかしない組織になりますよ。」

「未来はそうなのか。」

私の言葉に月島が反応した。私が頷くと悲しそうに目を細めた。人を殺さなくていい軍隊が羨ましいのか、そんな軍隊になった未来の日本を憂いているのかは分からない。

「あくまで国の為、お上のため、鶴見中尉のためだ。私達は生存戦略の為に戦っている。大儀がなければ軍人は戦わない。」

鯉登がキラキラした目で月島の背中を叩いたが、月島は「そうですね」と冷たく返すだけだった。杉元、尾形、月島といい、病んでいる奴が多すぎる。アザラシを見てモフモフし始めようとする鯉登が癒し枠とは思わなかった。

涙目になっていたヘンケの元に行き、慰めながらエノノカの様子を伺う。こんな危険な目に遭えば、村に帰りたくもなるだろから。しかし、予想に反してエノノカは契約を終えるのをキッパリと断った。

「ううん、チカパシたちを亜港まで連れて行く。だって、お金もらってるから。ちゃんとかせがなきゃ。」

「危険な目に合わせたから、多めに包みますよ?」

「結城たちが悪いわけじゃない。杉元とチカパシは助けてくれたから、本当はお礼をしなきゃダメ。それに、二人ぐらしだから、少しでも働きたい。」

エノノカは幼いのに、誰よりも強い。意志を感じる目がアシリパと重なった。エノノカがチラッと横目でチカパシを見た。お金のこともあるけど、きっとチカパシと離れたくないんだろう。察した私はエノノカの頭を撫でて、深く感謝を伝えた。そして売れば金になりそうなトパーズの石がついたピアスを手に握らせる。

「これ、いいの?キラキラして綺麗なのに。」

「ええ、私には必要ないものだから、先立つものにして下さい。」

大吹雪の日に捨て忘れていた、耳につけていたピアスを外した。耳を覆っていたお陰で、ピアスで凍傷にはならなかったが、亜港は今いる場所よりももっと寒いし、着けておくのは危険だ。それに、身を飾る物も、元いた世界の物も私にはもう要らない。既に決別は済んでいたのだから。

「ありがとう。大事にする!」

エノノカは嬉しそうに笑ってチカパシの方へと走っていった。使ってた奴だから大事にせず、すぐに売ってねと叫んだが、聞こえてないようだ。女の子だから、キラキラしたものや可愛いものが好きなのかもしれない。私は微笑ましくてフッと溢しながら、杉元の元へと戻った。

すぐに出発しようと犬橇の準備をする。荷物を詰め直していると、杉元が私の耳に手を当てた。

「…耳飾り、とっちゃったの?」

「ええ。凍傷で痛い目に遭ったので、金属は外しておこうと思いまして。」

まだ皮膚がパリパリな状態の手をヒラヒラと見せてみると、杉元は悲しそうに目を伏せた。

「…結城さんはどんどん変わっていくね。」

「ここで生きていくと決めましたから。」

私は胸を張って答える。良い事じゃないか、杉元もそれを望んでたのに、なんでそんなに寂しそうなんだろう。

「…手も、足も、身体もボロボロにして、綺麗なものも大事にしてたものも捨てていって、結城さんにとってこれで良かったのかなって…。」

「はぁ…今更でしょう。嫌ならすぐにでも九州や沖縄にでも高飛びしてますよ。私が女を捨てているようで杉元さんが不快なだけでは?」

私は眉を寄せた。好感を持っていた女が、どんどんみすぼらしくなっていくのは確かに悲しいだろう。でもそれを押し付けないで欲しい。

「違うよ。どんな姿でも結城さんは格好良いし、綺麗だ。でも、戦うのは俺だけで良い。これ以上傷を負ってほしくない。」

私の腕を掴む杉元の手は震えていた。私がアシリパと同じように消えてしまわないか怖いようだ。人が簡単に死んでいくのを見てきたからこそ気持ちは分からなくもないが、だからと遠ざけられるのは困る。

「自分だけ傷付けばいいと?いい加減にしてください。アシリパさんも、私も守られているだけの存在じゃありません。自分の意思で考え、決めて、動いているだけです。」

でも…と何か言いたそうな杉元の背中を強く叩いた。アシリパに再会できたら、ストゥで殴って貰おう。図体はデカいのに、優しくて、少し繊細な彼。そろそろ私達の気持ちも分かって欲しいところだ。

「ほら、手が止まってますよ。とにかく亜港に向かいましょう。」

有無を言わせずに、彼の背中を押す。いつの間にか変わったのは杉元だって同じだ。「しっかりして下さいね」と笑うと、杉元は深く帽子を被り直した。いつになったら、彼の庇護対象から対等な関係になれるだろうか。

「女を信じる事ができる男はカッコいいですよ。」

「ははっ…。」

苦笑いする杉元。彼の鼻が少し赤くなっていた。準備を着々と終え、犬橇に乗って北へと向かう。

杉元の後ろに座った私は、振り落とされないように、彼を強く後ろから抱きしめ「トートートー」と掛け声をかけた。「進め」「進め」「進め」という意味の掛け声は、私達を励まし、まるで鼓舞するかのように白い空へと響く。心はただ前だけを向いていた。


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