敷香から北に100キロ走って、日本とロシアの国境が遂に見えてきた。初めて踏む異国の地に胸が踊る。日露戦争での樺太の戦いの地に足を踏み入れただけでもワクワクしたが、父の友人であり片岡中将が占領した亜港にも行けるのだ。軍人としてこれ程嬉しい事はないだろう。
しかし、早る気持ちを抑えて、出入国の準備をせねば。国境手前の樺太アイヌの村で犬橇を降りて、休憩させてもらう事にした。
「旅券は鶴見中尉が手配して下さったものを使う。チカパシ、お前はエノノカと同じ樺太アイヌという事にするからあまり話さない様にしておけ。」
「分かった!」
月島の指示にチカパシが頷いた。エノノカがチカパシの手を握って、大丈夫と励ましている。
「七瀬結城、お前の髪の毛は目立つから纏めて帽子をかぶれ。男装故、怪しまれない様に声を低くするか、極力出すな。」
「はい。」
七瀬が月島に渡された紐で髪の毛を縛り始めた。思わずうなじに見惚れてしまう。ダメだ、ダメだ。清廉でなければならないのに何を考えているのだ。敷香で共にアザラシを解体した日から、つい彼女を目で追ってしまうようになっていた。あくまで任務で懐柔する為に観察しているのだと言い聞かせたが、心臓が早くなるのを抑えられない。
「結城さん。俺の帽子を使って。」
杉元が自身の軍帽を取って七瀬の頭にのせた。普段は風呂だろうと意地でも軍帽を外さない男が、七瀬にはそれを許している。手首にお揃いの腕輪を着けているのも、無駄に距離が近いのも無性に腹が立って仕方がない。
「七瀬のガタイと顔では軍帽は浮く。私が持ってきていた毛皮の帽子を使え。」
「…ありがとうございます。あったかそうですね。」
すぐに杉元の軍帽を取ると、狐の毛皮で作られたロシア帽を七瀬にかぶせた。寒さ対策で念の為持ってきていたが、髪の毛が崩れるのが嫌で使っていなかったものだ。フワフワの毛皮の帽子をつけた彼女はまるで小動物のような愛らしさで、さらに心臓が締め付けられる。
「……。あの、顔がまた赤くなってますよ。」
「…寒いからだ…ッ!キエエエ!…無闇に私の顔に触れるなッ!」
七瀬の手が私の頬に伸びてくる。すぐに彼女の手首を掴んで下ろし、声を上げた。何という無防備さ、遠慮のなさだ。クスクス笑っているのが、また憎たらしい。懐柔の前に私が掌で転がされているような気さえする。
「鯉登少尉殿を揶揄うのはやめなさい。」
「つい、反応が面白くて。」
私の前に立った月島に七瀬は笑って答えている。ああ、やはり揶揄われているのだな。彼女の笑顔が胸に刺さった。何故、こんな慎ましさの欠片もない女が気になるのか。
「『必要ノ扶助ヲ與ヘラレン事ヲ其筋ノ諸官ニ希望ス』……って、この海外旅券に書いてますけど、ロシアの人達が助力してくれるんですか?」
「…いや、ただの旅券の定型分だ。戦争が終結したとはいえ常に仮想敵国だぞ、期待はするな。」
旅券を見ながら上目遣いで尋ねてくる七瀬。なるべく心を無にしながら答えた。動揺してしまうのはきっと男所帯が長かったせいだろう。このままでは旗手になれんぞ、と強く拳を握る。
「へー…。それは気をつけます。それにしても裏面は漢文みたいだし、何故か英文で書かれてるし、この時代のパスポートは趣があって面白いですね。」
嬉しそうに七瀬が微笑みを見せる。大吹雪を越えてからというもの、彼女は私に明治の世の事を尋ねてくる様になった。未来ではなく、今を生きるという決意をしたからだろう。薩摩の故郷のことや、東京の学校のこと、そして北海道での暮らしのことなど、私が話すと目を輝かせて聞いてくるので、それもまた心を惑わす原因の一つだった。自分の話を楽しそうに喜ぶ女ほど、怖いものはない。何故なら、彼女と共に過ごす時間が無限に欲しくなってしまうからだ。
「ほら、ボーッとしてないで水分補給が終わったら橇に乗り直して下さい。日が暮れる前に国境を越えますよ。」
七瀬の横顔に釘付けになっていると、月島がパンパンと手を叩いて呼んだ。こちらに向かって訝しげに目を細くしている。そんなに睨まなくてもいいだろう。役目はわかっている。少しでも七瀬から情報を抜くのだ。…もしかして、今がその機会だったか?七瀬の時代の旅券や出入国、海外情勢まで聞き出すべきだったかもしれない。今更、話を掘り返しても不審がられてしまうだろう。何故、自然に聞ける機会を逃してしまったのか…。私は頭を抱えながら犬橇に乗り直した。
「…鯉登少尉殿、七瀬結城の心を奪えないばかりか、貴方の心を奪われてませんか?」
ヘンケとエノノカの橇に乗ると、私の前に座っていた月島がボソッと呟いた。
「…なっ!そんなことはない!私の心は鶴見中尉に捧げている!アイツを見ると妙に胸が苦しくなるだけだ!!」
「……自覚がないとは既に手遅れか…。貴方は薩摩藩士だった鯉登家の人間で、いずれ指揮官として上り詰める御方です。あの様な未来人にうつつを抜かされては困ります。」
「だから違うと言っているだろう!あくまで任務の為に近付いているだけだ!」
どれだけ否定していても、月島は疑う様な目でこちらを見てくる。なんともしつこい男だ。鶴見中尉のために可愛がっているだけで、本当はあんな泣き虫の傷物の年増女は御免である。多少、顔が良く、歌声が綺麗で、話していて楽しくても、絶対に好きにはならない。
『音之進、といよならばユキの様にしおらす、芯のある女にしやんせ。』
そう、父も言っていたではないか。七瀬はどうだ、母上の様に優しいか?素気ないではないか。チカパシやエノノカをあやすこともしない。怪我をすればすぐに手当てをしてくれ、村のものに料理を振る舞い、食料や金の事などさりげなく用意してくれるが、いつも淡々としている。
すぐに泣くが、自分自身の事で泣いている所は見たことがなかった。いつも誰かの事を想っているし、こうと決めたら決断が早く、保身にも走らない。危機的状況でも冷静に引き金を引き、ここまで胆力がある女は見たことがなかった。…どうした、まるで父上が言っていたような相手ではないか。
『見た目や肩書きに騙かさるいな。でしなのは中身がよ。心に惚れたらいっでのえてじゃが。運命じゃっど。』
七瀬が一生の相手?冗談ではない。笑えないぞ、父上。素性も中身も厄介すぎるし、何より落とすのも難儀な相手だ。荊の道が目に見えている。これ以上、私の心を乱してくれるな。
「何を百面相しているんですか。振り落とされても知りませんよ。」
月島は今日も冷たい。それが上官に対する態度か、とも思ったが考えすぎて熱を持ち始めた頭にちょうどよかった。粉雪が降りしきる中、樺太先遣隊はついに国境を越えてロシアへと入っていった。
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「見ろ!小さいトナカイだ!」
「あ、本当だ、珍しい。角が小枝みたいですね。」
国境を越え、ウイルタ族の村を訪ねると、そこには蝦夷鹿や樺太犬ではなくたくさんのトナカイを飼っていた。小さく白いトナカイを見つけて、七瀬を呼ぶと嬉しそうにコチラに寄ってきた。
「初めて見ましたが可愛いですね。シカは2、3才の雌が美味しいってアシリパさんが言ってました。食べ頃はあと1年後くらいですかね。」
「ここでは橇を引かせているようだから、そんな若いうちに殺しはせんだろう。…見ろ!雪をかき分けて草を食べたぞ!」
指を指すと七瀬も腰を屈めて、トナカイを観察する。トナカイがコホコホ鳴いているが、意外と低い声に二人で笑ってしまった。
「樺太やロシアを抑えた暁には、トナカイを皇室に献上したいものだな。これだけ愛らしいのだ、上野動物園ではきっと人気になる。」
「へー…上野動物園も既にあるんですね。トナカイもいいですけど、献上するなら中国のパンダが喜ばれると思いますよ。」
「ぱんだ?なんだ、その生き物は。」
トナカイを追いかけながら二人で話していると、月島が手をパンパンと叩いてこちらへ叫んだ。
「鯉登少尉殿!戻ってきて下さい!天幕で休ませて貰いますよッ!」
むう、邪魔しないでほしいのだが。日が暮れてきて寒さが厳しくなってきたから、仕方がない。大人しく戻ろう。隣を歩く七瀬を見ると、鼻が鼻先が赤くなり、まつげが凍り始めていた。
「小さいトナカイがいた!」
「そうですか。」
急いで月島の元に二人で戻り、報告するが月島は無関心だ。なんでこうも反応が悪いのだ。生き生きし始めた最近の七瀬を見習え。
「こんな寒い中、結城さんを振り回すな。少尉殿にトナカイの首輪つけておいたらどうだ?」
「まったく…杉元は嫌味な男だな?月島。」
ため息を吐きながら月島を見るが、無言でトナカイの首輪を見つめている。まさか、本気ではないだろうな。
「なあ!月島ぁん!!」
月島の肩を揺すっているうちに、隣にいた七瀬も杉元に着いて天幕に入ってしまった。皆、薄情すぎるだろう。
ウイルタ族の天幕で私達は火を起こして暖をとった。七瀬が野兎の肉と大根でつみれ鍋を手早く作ってくれる。味噌とトナカイのミルクでまろやかに味付けされた温かい汁が身体に染みわたり、寒さでこわばっていた全身を緩めた。
「亜港監獄まであと少し…アシリパさんは近いはずだ。急がないとな。」
「ええ、ついにここまで来ましたね。犬橇だと思ったより早くて助かりました。鯉登さんとヘンケ、エノノカのお陰ですね。」
先日アシリパがこの村に寄ったという情報を得て、拳を握った杉元。そしてうさぎ汁を啜りながら、微笑む七瀬。ヘンケとエノノカは嬉しそうに目を細めた。
「そうだぞ、杉元、谷垣、お前らも感謝しろ。この犬橇は私の財布から出しているんだからな。」
「へいへい、有難や、有難や。」
「そんなに喧嘩を買ってほしいとはなぁ…。」
杉元の態度はあいも変わらず不遜で気に入らない。思わずサーベルの柄に手が伸びたが、七瀬の呆れた顔が目に入ってそっと離した。「あれ、やらないの?」と杉元が目を開いているが、相手をするのはやめた。彼女が分かってくれているならそれで十分だろう。
「…貴様と違って短絡的ではないからな。」
「ハァ?」
私がフッと笑うと、今度は杉元が青筋を浮かべた。立ちあがろうとする杉元を谷垣と七瀬が抑えている。なんとも情けない男だ。杉元はアシリパの事で頭がいっぱいで前が見えなくなっているし、煽られればすぐに手が出そうになる。七瀬の隣には相応しくない。
「チカパシ、これなにかな?」
「なんだろ…。谷垣ニシパ、これなに?」
私と杉元が睨み合っていると、天幕の中でウロウロしていたチカパシとエノノカが何か気になる置物を見つけた様でコチラに見せてきた。「ネズミ?」「いや犬だろ」と谷垣と杉元とすぐさま言い合った。
「ナーナイ族の男が置いていったもので何だか分からないそうだ。」
月島がウイルタ族の男の言葉を訳してくれる。ナナイ族といえばアムール流域に住む少数民族だ。樺太の生き物ならばクズリだろうに。杉元は犬だとうるさい。
「…これ、虎じゃないですか?中国や韓国にある楽器の敔に似てます。背中のギザギザを棒で擦ると音が出るんですよ。カエルのモーコックは見たことありましたが、トラの敔は初めてです。」
「トラ?動物園や博覧会でしか見たことないぞ!もしや、樺太ではトラが出るのか!?」
ヒグマすらも襲って食べるトラと戦うのは怖すぎる。命がいくらあっても足りなくなるぞ。怯える私の言葉を月島がウイルタ族の男に翻訳してくれた。
「いえ、トラが出るのは基本、ナーナイ族がいる大陸だそうです。たまに流氷に乗って樺太に流れてくることもありますが、滅多にないそうですよ。」
「おお、そうか。それならば心配ないな。」
ホッと胸を撫で下ろすと、隣りで七瀬がクスクスと笑っていた。何が面白いというのか。私が不審な顔をして彼女を睨むと、七瀬は弁解する様に手を前で振りながら口を開いた。
「いえ、鯉登さんは表情豊かだなと思いまして。月島さんといると正反対だから見ていて飽きませんね。」
「…褒め言葉か?」
「ええ、たぶん。」
「…なら、いい。」
多分って何だと思ったが、賛辞ならば有り難く受け取ってやろう。パチパチと炭が燃える。皆はそろそろ寝ると、横になり始めた。七瀬は眠くないのか座ったまま、銃の手入れを始める。火の灯りに照らされた彼女の真剣な顔がとても綺麗だ。
「パルチザンって、ロシアで革命を起こしたい人々のことですよね。」
「ああ、そうだな。ゲリラ活動をする反体制テロ集団だ。キロランケはアレクサンドル2世を暗殺した人民の意志だったな。」
私が答えると、七瀬は悲しそうに目を伏せる。一緒に過ごした時間はあれど、キロランケの事は何も知らなかった様だ。
「キロランケさんは亜港監獄の囚人を助けて、金塊を手に入れてどうするつもりなんでしょう。」
「…ボリシェヴィキにでも合流するんじゃないか。革命を再び起こしてロマノフ王朝を崩壊させ、極東ロシアの独立でも図る気だろう。」
ロシア帝国が倒れたら夏に調印されたばかりの露日条約が破棄される恐れがあるので、食い止めたい所だ。ロシアには内憂を抱え、燻ったままでいてもらうのが日本として一番都合がいい。
「…北海道の子供のたち未来の為って言葉は…嘘だったんでしょうか。」
「北海道をも飲み込むつもりなら、一部は本心かもしれんな。しかし、北海道の金塊を外に持ち出し、日本ではなくロシアの為に動こうとしている時点で売国奴だ。いずれ戦争になる。」
「…そうですか。」
七瀬は泣きそうな顔をしている。キロランケに対してそこまで情があったとは思っていなかった。しかしすぐに目を擦ると、顔を上げてコチラに向き直った。
「金塊はあくまでもアイヌのものです。鶴見中尉はアシリパさんを保護したのち、金塊を独占しようとするでしょう。お願いです、全部とは言いません、三分の一、いや十分の一でもいいので必ずアイヌ民族の地位や生活の向上、文化の保護のために使ってください。」
切に訴えてくる七瀬。私の手を強く握ってくる。鶴見中尉は、きっと手に入れた金塊は全て第七師団の乗っ取り、軍事政権の樹立、そして戦争に使うだろう。北海道に軍事政権が出来ればアイヌは同化するかすり潰されるしかない。文化の保護なんてもってのほかだ。それを分かっていて、七瀬は私に願っているのだろう。
「お願いします。どうか約束してくださいませんか。」
「何故そこまでアイヌに肩入れする。七瀬のやることではないだろう。」
出会ってから一年弱しか経っていないと聞いた。巻き込まれただけの人間がどうしてこうも必死になるのだろう。
「…好きになってしまったんです。アイヌの生き方、教えや言葉を。カムイと共に生きるアシリパさんを。自然を敬い、自然と共に生きることがどれだけ難しく、尊い事か、未来から来たからより分かるんです。時代や国のせいで、消えて欲しくないんです。」
その黒い瞳には、焼き付くような異様な光が帯びていた。目を逸らせない。嘘もつきたくない。
「……今の私にはどうにも出来ない。鶴見中尉に献言しても受け入れられないだろう。本気なら、軍の中に来ることも考えた方がいいぞ。何事も発言権を得なければ始まらない。」
七瀬の手を握り返して、彼女の膝に乗せた。私の地位はあくまで生まれと父のお陰だ。実績もなく、まだまだ鶴見中尉の信を得ていない。悔しいがまだ、月島のほうが信頼されているだろう。私の言葉に彼女は深く考え始めた。無言の時間が続く。天幕には寝息と火の音だけが響いていた。
それから少し時間が経っただろうか、悩んでいた七瀬が顔を上げて振り返った。その時に急に膝に手を置かれてドキッとする。
「…もし、その時は軍に入ります。未来の知識も話します。…アイヌを守る為に。」
本気か。未来の荷物や情報の為に命を落とそうとしていた人物の発言とは思えない。そこまでしてアイヌやアシリパを守りたいのか。
「第七師団に入ったら鯉登さんの側に居させて下さい。きっと一番、心を許せるから。」
彼女の名指しに心臓が飛び跳ねた。「鶴見さんや月島さんは少し怖くて」と苦笑いする七瀬。信頼してくれているのが伝わってくる。嬉しくて顔が熱くなってきていた。私には笑顔を見せる彼女に愛しさが込み上げてくるのだ。
「貴様、私を利用する気だろう。」
「バレました?」
茶目っ気たっぷりに笑う彼女に利用されたいと思ってしまうのだから重症だろう。いつの間にこんなに魅せられてしまったのか。ずっと側に居てほしいと願ってしまっている。
「鶴見中尉の敵にならない限り、歓迎しよう。」
「まあ、そうですよね。その時はよろしくお願いします。」
頭を小さく下げる七瀬。早くその時が来て欲しいと心から思った。金塊を得て、七瀬も隣にくる。どんな理由があろうとも、私を選ぶならばそれはそれで良い。時間をかけて落とせばいいだけだ。
(おはんがすきやっど)
その日が来たらちゃんと伝えよう。いつかを想像するだけで胸が高鳴る。まるで早打つ鐘の様な心臓の音は亜港監獄へのカウントダウンの様でもあった。