尾形百之助の心情

あの日、七瀬結城が初めて人を殺した日。いろんな感情を孕んだ彼女の瞳に、つい目を奪われた。自分のものにしたい、そう思ったのは初めてだった。

『こちらに戦う意思はありません。怪我をしているのではないですか?』

第一印象は、身格好も振る舞いも全てが怪しい女。谷垣に撃たれた俺に、わざわざ適切な処置や食糧を施すが、これ以上は関わりたくないと淡々と線を引き去っていった。

『尾形さんはどうでもいいので。後は自分でどうぞ。』

夕張で再び合った時は、生意気な女。明らかに邪険にしてくる結城に少し苛立った。ちょっかいをかければ背伸びしながら必死で威嚇してくるのは幾分愉快だったが。

『二階に上がるんですね、援護します。』

ライフル銃を担ぎ、俺を邪魔しないように第七師団と戦う様は、不慣れながらも健気さを感じた。殴られてフラフラになりながら、俺を助けようと拳銃を撃った彼女に、兵士の才能を見たのを覚えている。お互いを補助し合う戦い方に人と組むのも悪くないと思えた。

それから何故か一緒に過ごす時間が増え、隣にはいつも結城がいた。狙撃の腕も悪くないし、不満な顔をしながらも言えば素直に着いてくる、そんな結城を気に入るのに時間はかからなかった。それでも杉元の方に懐いているのは些か不服である。その為多少の嫌がらせをしたが、当然のことだろう。杉元が顔を歪めるたびに胸がすく思いがした。

『ふっ……あっ……ッ…。』

月形のコタンで偽アイヌの男達から襲われそうになった杉元を偽アイヌの頭を撃ち抜いて援護した。チセから出てきた結城も拳銃を手に偽アイヌを狙う。見事に心臓を撃ち抜いたが、彼女の瞳は深い色を湛え、揺れていた。目が離せなくなる。声を漏らし、手を震わせている結城は夕張で第七師団に対して狙撃をしていた時とは大違いだった。その時は、腕や脚にしか弾を当ててなかった事を思い出すと、なるほど、すぐに理解出来た。

(人を…殺した事がなかったのか。)

胸の奥から沸き立つものを感じた。人が手を汚し、変わっていく瞬間を見れた事に、愉悦してしまう。溢れる笑みを止められない。後を追えば、嘔吐しながら涙を落とす彼女がいた。

『…っ…はぁ…汚な……。』

溜め息をつき、吐瀉物を隠していく背中に、何とも言えない支配欲が込み上がってくる。勇作のこんな姿も見たかった。綺麗だった人間が落ちていくさまほど興をそそられるものはない。俺はあの日聞きたかったことを結城に問う。

『杉元の為に手を汚したのはどんな気持ちだ?人殺しになった気持ちは?』

『…それを聞いて何て言って欲しいんですか?何を求めているんですか?』

帰ってきたものは想像していたものとはだいぶ違った。ペッと吐き捨てる結城の姿は、既に切り替えている様で面白くない。勇作ならこんな事は言わなかっただろう。彼女は勇作ともアシリパとも違う生き物だ。でも、何故か、目が吸い寄せられた。

結城の異質さの正体に気付いたのは、先に寝た彼女の銃を勝手に触った時だった。大雪山の時にこの時代に明らかに浮いたソレを問えば、結城は未来から来たとあっさりと言い放つ。だから、どこか世間ずれしていて、投げやりで、変に悟っているのか、と納得した。杉元を慰めるのも、俺を抱きしめようとしてくるのも、慈悲からではなく達観しているからだろう。自分自身の命も心も軽く見ている結城に少しだけ苛立った。

(あったけえな…。)

それでも結城の体温はここにある。エゾシカの中で抱きしめあった時、彼女の拍動と温度がとても心地が良かった。過去にも抱きしめられた記憶は何度かある。ただ、母のそれは俺を通して花沢幸次郎を見ていたし、狂ってしまった母はすぐに俺に触れなくなった。勇作にも涙を流しながら抱きしめられたが、冷たさしか感じなかった。

『人を殺して罪悪感を微塵も感じない人間がいて良いはずがない。』

勇作は俺のことを想っているんだろうが、俺の頭や指先は野風に晒されたように温度を奪われるばかりだった。なのに、何故、結城の時はこんなにも温かさを感じるのだろう。彼女が無関心で、何も求めず、ただ俺自身を包んでいるからなのか。理由は分からないが、俺の求めているものがそこにある気がした。

それからは隙があれば結城の隣で寝る様になった。彼女の汗の匂いも、柔らかさも、嫌いじゃない。犯そうと思えば犯せる場面も多々あったが、気分じゃなかったのでそれはしなかった。支配したい気持ちも変わらずある。ただ、人を殺して一瞬揺れても、何も変わらなかった女だ。身体を奪っても何事もなかったように過ごすだろう。

もっと深いところに傷を作って支配したい。だから、どれだけ機会があっても、決して手を出すことはなかった。網走監獄で俺を写した瞳は、揺れていただろうか。白銀の樺太の地でアイツを想った。

ーーーー

国境を越え、ウイルタ族の村からニヴフの集落へ向かう途中、夢を見た。熱が出た時に勇作の悪夢を見てから、久しぶりの夢だ。

「山猫…。懐かしいな、軍では常々そう言われていた。」

「…それは、何故ですか?」

雪原を結城と共に歩いていた。亜港に向かう途中の様で、オオヤマネコを見つけた俺は結城に話しかけている。あの網走監獄の満月の日、結城が川岸の丸木舟に来ていればこんな会話をしていたのだろうか。

「第七師団団長の息子とはいえ、山猫と揶揄された浅草芸者の子供で父親には邪険にされている。恰好の的だったんだろ。俺も山猫のように卑しい奴だと軍の奴らには馬鹿にされていた。生まれも育ちも真っ当な腹違いの勇作殿とは全く違うからな。」

俺がそう吐き捨てると、結城は思い切り顔を歪めた。眉を寄せて、とても怒っている。

「は?そんな事を言う人達のほうが馬鹿なんじゃないですか?生まれも育ちも関係ないですからね。貴賤なんか、そんな物差しがあっていいわけないでしょう。」

華族と士族と平民があり、薩長閥があり、部落があり、生業に差別があるこの世を結城は真っ向から否定してくる。解放令など名ばかりの社会に雁字搦めになっていた俺が求めていたのは、こんな言葉かもしれない。
 
「男でも女でも、童貞でも非童貞でも、力が有っても無くても、それで差別したり、否定したり、揶揄う奴のほうが頭がおかしいんです。人間の価値ってのはそんな記号のようなものでは決まらないですよ。」

「記号…か。」

夢だと言うのは分かっている。ただ、貞操の有無や普通という言葉を嫌がり、常々この時代が生き辛いと口にしていた結城なら言いそうだとも思った。夢で結城にこんな事を言わせて俺は救われたいのだろうか。今更、俺が何か変わるわけでもないのに。

「心とか、生き方とか、そういうものの方が大事だと思いますけどね。あとは、例えばこういう温度とか。」

結城は手袋を外したかと思えば、俺の手袋に手を突っ込んできた。ウイルタ族の大きな毛皮の手袋は、俺たちの手をすっぽりと包んでいる。驚く間もなく、手袋の中で手を握られる。

「生きてる意味とか、価値とか、何千年も
色んな人が悩んできて未だに結論は出ないですけど、この温かさって人間が生まれた時から変わらない不変のものでしょ?」

重ねられた左手がじわじわと熱くなってくる。

「もう、これだけでいいんじゃないですかね?」

そう無邪気に笑う夢の中の結城は、とても眩しかった。七瀬結城はこんなこと、絶対に言わないだろう。自ら俺に触れようとすることもないだろう。そんなこと分かっていても、心地が良くて、この夢から覚めたくなかった。

「…生きてるだけでってことか?陳腐だな。」

「死ぬのが逃げって言ったのは尾形さんですよ。じゃあ答えはそうでしょう。」

生きているだけで価値がある奴らを殺してきた俺はどうなるんだ。それでも結城は俺が生きてるだけで良いと言うのか。これ以上は夢だろうと、どんな答えも聞きたくなかった。ただ、結城の体温を感じていたい。

俺は結城を抱きしめると頬に手を当て、彼女の唇に唇を重ねた。そのまま結城の口内に舌をねじ入れると暖かさに包まれる。動けないように頭を押さえて、長い間、深く深く、口づけをした。胸を強く叩かれて、唇を離すと息ができなかったのか涙目になって呼吸する結城がいた。満月の日のように顔を真っ赤にさせている。

「…っ…急に…何ですか…?」

「体内が一番、温度が高いだろ。」

しれっと言ってみせると、呆れた様に肩を落とす結城。

「…はぁ…。どんな屁理屈を捏ねようと同意のない行為は駄目ですよ。次は噛みちぎります。」

「ふん。出来るならやってみろ。」

この夢の中の結城の頭の中には次があるんだな。それが無性に嬉しかった。どれだけ憎まれ口を叩こうと俺を完全に拒もうとしない彼女が既に懐かしい。でも、もう終わりだ。手が冷たくなってくる。ああ、夢が覚める。ギュッと目を瞑るが、身体を揺らされて無理に起こされた。

「尾形、朝だぞ。寝起きが悪いとは、やはり、まだ体調が悪いようだな。」

アシリパが心配そうに俺のおでこに手を当てる。木の枝の煮汁を再び飲まされた。クソ不味い。

「どうする?また歌って踊ろうか?」

白石がウイルタ族の村で貰ってきたヨードブという魚皮製の振楽器を俺に見せる。コイツらがうるさかったせいで悪夢を見たんじゃないのか。やめてくれと、楽器を奪って投げた。歌なら、結城の歌がいい。結城の膝の上で微睡みながら、結城の歌を聞いた事を思い出した。あの時は短かったが、驚くほど深く眠れた。だが、そんな過ぎ去った事をいつまで考えても仕様がない。振り切るように立ち上がると、余った煮汁を啜っていたアシリパに声をかけた。

「熱はもう下がった。早く亜港に行くぞ。」

「そうだな。徒歩だから時間もかかる。」

頷いたアシリパは手早く荷物を片付けると、馴鹿に再び背負わせた。枯れた木と雪だけの道を、アシリパ、キロランケ、白石と再び歩き始める。結城の姿はどこにもなかった。

ーーーー

亜港監獄に辿り着き、準備を進めながら時が来るのをニヴフの集落で待つ間、俺はボーッと囲炉裏の前で温まっていた。

「尾形ちゃん、なーに見てんの?…あ!結城ちゃんがくれた腕紐…?」

背後から白石から声をかけられたかと思うと、当たり前のように横に座ってくる。

「…結城ちゃんも死んじゃったんだよね…。良い子だったのに…第七師団の奴が許せねぇよ…。」

声を震わせながら項垂れる白石。逃げるために結城に発砲したが、肩にしか当ててないので死んではいない。だが、生きている事を知ればアシリパと白石が戻ると五月蝿いだろうから、死んだことにしていた。

「撃たれて倒れるのを見た。杉元と違って確認はしてないが、ほぼ死んだと見て間違いない。」

「…尾形ちゃんが一番側にいたよね。手元にあるのがこの麻紐だけってやっぱり辛いんじゃない?」

心配そうに白石がこちらの様子を伺ってくる。本当は結城も連れて行くつもりだった。だが、それを選ばなかったのは紛れもなくアイツだ。

「…静かになって清々したぜ。」

「素直じゃないねぇ…。」

白石が苦笑いする。杉元を撃った時に、結城なら俺がやった事に気付くのは分かっていた。結城も網走監獄の異変を見て、中の見張り台へと移動していたからだ。それでも、どこか見なかったふりをして約束を守ってくれるじゃないかと、淡い期待を持っていたのも嘘ではない。

俺が逃げれない様にすかさずこちらを狙って来たのは驚いたが、それでこそ戦士だとも思った。俺の胸にあったのは落胆と悦びと納得だ。

「…未来にでも帰ったんだろ。もともとこの時代には浮いた異質なやつじゃねえか。」

「それを願うしかないね。だって知らない地で、知らない奴に殺されて人生を終えるなんて、悲劇でしかないよ。」

北見で撮った写真をポケットから取り出す。そこには写ることのない結城のいた空間と、寄りかかって不自然に浮いた俺の腕だけが写っていた。確かに悲劇だ。金塊争奪戦に関わろうとアイツの生きた証はどこにも残らないのだから。

写真をなぞっていると、結城の髪の毛がハラっと落ちた。根本は黒色だが、毛先は茶髪から金色へと色が変わっている。テントの中で一緒に寝ていた時に引きちぎったものだった。

「…それ、結城ちゃんの髪の毛…。え、尾形ちゃん、めちゃくちゃ結城ちゃんのこと好きだったんじゃんッ!!!」

「黙れ、ハゲ頭。」

「クゥン…。」

弾除けとして貰った奴だ。このお陰か網走では弾に擦りもしなかったな。一発も当てれなかった結城からしたら皮肉だろうが。変な鳴き声を出す白石を無視して写真と髪の毛をポケットに仕舞おうとすると、背後から声をかけられた。

「それ、私にも一本貰えないか。」

アシリパだった。猟から帰って来たらしい。面倒になった俺は全部掴んでアシリパの手に落とした。

「いや、全部は悪い。形見だから一本でいいんだ。」

「いらねぇから全部やる。こんなもの大事に持っていても意味はない。」

弾除けの役目をを果たした髪の毛を後生大事に持っておく趣味はなかった。こんなものよりも、結城自身が欲しい。

本当は憎しみを抱えてでも追って来て欲しかった。戸惑いながら俺に銃口を向けてきたらなお良い。揺れる瞳が見たかった。歪んだ顔が見たかった。もっと深く、俺のことを刻みつけたかった。

それはもう敵わない願いだ。

ならば、俺は本来の目的のために動くだけだ。


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