好きな人が出来た。名前は七瀬結城さん。いつから好きだったのかは分からない。一緒に過ごしているうちに自然と惹かれるようになったから。その子の事について少しだけ聞いて欲しい。
百年以上先から来たと言い放つ、変わった女の子。中身はクマにも人の死体にも怯える普通の女の子に見えた。だけど自分のことになると「殺してもらっても平気ですよ」と笑う、少しイカれた子だった。
金塊争奪戦に巻き込んだのは俺だ。俺と出会わなかったら、俺が第七師団に捕まらなかったら、結城さんはアイヌの村で保護されたままぬくぬくと平和に暮らしていたかもしれない。俺のせいで鶴見中尉から目をつけられた彼女は、俺たちと一緒に金塊を巡って旅をすることになった。
人の死体を見て吐くような子が、ライフルを担いで歩く姿は胸にくるものがあった。でも、小樽を出たあの時には、結城さんは既に覚悟を決めていた気がする。
『…天は何を思ってこんな事をしたんでしょうね。役目があるとすれば、最初に出会ったアシリパさんや杉元さんを助けろという事でしょう。』
白石やキロランケにそう話している結城さんをみて、すごく悲しくなった。死に場所を探している結城さんに「生きる理由を見つけて欲しい」と伝えても、彼女はただ、困った顔をするだけだった。
『杉元さんと白石さんが死んだら私の世界が崩壊するので絶対に死なないでくださいね。泣かせないでください。』
自分の命は軽く見てる癖に、俺と白石が夕張炭坑で死にそうになった時はボロ泣きしているもんだから、少し驚いた。可愛らしい人だなと初めて思ったのはこの時だと思う。
酒には溺れるし、博打はするし、見てて危なっかしくて、ほっとけなくなってきたのも、たぶん同じ頃だろう。アシリパさんの方がしっかりしてる時も多いくらいで、俺が見てやらなきゃって気持ちも芽生えていた。そんな時、月形のコタンで尾形から衝撃的な事を告げられる。
『結城の奴、お前の背後を取った奴を拳銃で斃してたぞ。これまで人を殺さないように立ち回ってたのに、杉元のせいで人殺しの仲間入りだ。ハハッ…可哀想になァ…?』
俺は驚きのあまり固まってしまった。やってしまったと、心が黒く塗りつぶされていく。金塊争奪戦に巻き込ませただけじゃなく、手を汚させてしまった。それはアシリパさんも嫌がっていたことだったのに。
アシリパさんから狩猟や採集を楽しそうに学ぶ結城さんが浮かぶ。本来はとても純粋な子なのだ。それなのに、俺のせいで、結城さんを変えてしまった。歪んだ笑いを浮かべる尾形に腹が立つよりも、自分自身への怒りと失望が全身に広がる。旭川のコタンでやっと結城さんと二人きりになれた時、俺は事の正否を彼女に尋ねた。
『…ええ。それがどうしましたか?』
結城さんがあっさりと肯定するから、尾形の嫌がらせという淡い期待はすぐに崩れ去ってしまった。何で彼女は俺を憎まないんだ。戦いに巻き込んで、手を穢したのは俺なのに。動揺して戸惑う俺の顔を彼女が掴んだ。
『私の魂は人を殺したぐらいでは穢せないですけど?』
そして馬鹿にするなよ、とでも言うように眉を寄せている。こんな顔する結城さんは初めてみた。怒気を纏った声で、次々と俺を詰めていく。殺生の優劣の無さや、戦争や自然の摂理を説く彼女は、何処か遠くの人みたいだ。
『自分は汚れてるみたいな言い方はしないでくれますか?怒りますよ?』
既に怒ってる彼女の頭突きで頭がジンジンする。でも、それすらも居心地が良かった。俺のことを想って怒ってくれるのが嬉しい。俺が無茶をする度に拳骨を落としてきた亡き母を思い出した。
俺が謝ると、結城さんが抱きしめる様に両手を俺の背中に回して撫でてくる。もしかして、この人は菩薩か天使なんだろうか。温もりに包まれた俺は呆けてしまっていた。
『そもそも国の為に戦った人が、アシリパさんの為に命を賭けれる人が汚れてるわけないでしょう。もっと自分自身を愛して下さい。』
結城さんの柔らかい声が耳をくすぐる。抱擁なんて幼い頃に、両親に抱き締められた時以来だ。抱擁がこんなに、嬉しくて、安心できて、幸福を感じるものだったとは。目頭が熱くなってくる。俺は情けない顔が結城さんに見られない様に、彼女の肩に顔をうずめた。まるで子供みたいに背中をトントンされるが、嫌じゃない。お互い、体重を預けて、彼女の優しさに甘えた。そんな事が出来た、初めての相手だった。
彼女を意識しだしたのはそこからかもしれない。ただ、結城さんは一切俺のことを男としてみてないのか、夏はピッタリとした服で前を通るし、シモ事情まで聞いてくる。それに誰に対しても優しかった。あのクソ尾形にもだ。深入りしたら辛くなると気づいてたのに、好きになっていたんだから心というのは儘ならない。
彼女が酔っ払うといつもハラハラしたし、でも甘えてくると嬉しかった。尾形と楽しそうに話してると苛立つのに、俺に向かって笑いかけてくれるとそんなモヤモヤした気持ちも一瞬で吹き飛んだ。
『お願い…します…杉元さ…ん…助けて…下さい…っ…楽に…なりたい……ッ…。』
ラッコ鍋を食べてしまった時なんか、衝撃すぎて忘れられない。目を湿らせて抱きついてくるもんだから、完全に固まってしまった。初めての接吻は、触れるだけの可愛いものじゃなくて、深くて、必死に絡みついて、想像の何倍も淫靡で。理性が消し飛んでいてもおかしくないのに、寸前でよく堪えたと自分でも思う。
『ごめん。楽にしてあげたいけど無理だ。』
強がってそう言ったけど、やっておけば良かったと何度も後悔した。あの時は焦点も合わない結城さんを抱いて、気まずくなって、それっきりになるのが怖かったから。でも、今はどんな形でもいいから繋がってたらもっと何か違ったのかもとも考えてしまう。
『…俺と一緒になるのはどうかな…?』
網走で結城さんが、俺とアシリパさんの願いが叶う事が自分の幸せとか口にするもんだから、それが叶った未来の話をした時につい言ってしまった。全部が終わってから告げようと思っていたけれど、あまりにも結城さんが自分を卑下するから悪い。でも、結城さんは俺の告白を罪悪感と勘違いからきたものだと断言して取り合ってくれなかった。
『幸せになって欲しいんです。杉元さんの幸せを冷静になって考えたら私という選択肢は絶対に無いんですよ。』
そう吐き捨てた結城さんの後ろ姿は、トンネルの先の光に溶けていった。人の幸せは祈れるくせに、結城さん自身は幸せになれないと思ってる。酷いよ。俺のことが嫌いとか、男として見れないと言われるほうよっぽど良かった。あの時は辛くて、ズシリと心が沈んだ。
それなのに、網走監獄で俺が尾形に撃たれた時、結城さんは俺のそばを選んでくれた。嬉しくて泣きそうだった。肩から血を流しながら、気絶するまで俺に声をかけていたと家永から聞いた時は、食べ物が口を通らなかったほどだ。
だから期待をしてしまう。いずれ、気持ちが通じて夫婦になれるんじゃないかって。俺は諦めきれずに、想いを垂れ流していたから、それに全く気付いていなかった様子の結城さんには頭を抱えた。
『…まるで私の事が好きみたいですね。』
豊原で彼女が熱を出した時に言われた言葉だ。求婚したはずだろ。抱きしめたりもしてる。少女世界で定番の恋文か櫛でも送らないと分からないのだろうか。俺は戸惑いながら、再び気持ちを告げる。照れながら顔を赤くする結城さん。これが脈ありじゃないなら、何が正解だと言うんだろう。
しかし、今度はアシリパさんの話を出されて躱された。普通に悲しい。
その後も、いい雰囲気になる度に、結城さんはアシリパさんの事を出す。アシリパさんはまだ子供で大事な相棒だ。そんな目で見れるわけがない。それに俺が惚れたのは結城さんだ。でも、彼女は二人だけの話だと思っていない様で、俺が真剣に迫れば迫るほど、身を固くして困った顔をした。
好きだけど、困らせたいわけじゃない。これからもずっと隣でいたいだけだ。気持ちを伝えるのを控えて、彼女が心を開いてくれるのを待つしかない。そう決心して、結城さんの側にいた。
結城さんの生きる理由は俺じゃない。アシリパさんだ。それでも良い。生きてさえくれたらそれでいい。笑ってくれるなら、それだけでいい。
もしかして、これが、愛なんだろうか。
ーーーー
コトコトと鍋を煮込む音が聞こえる。にんにくの香ばしい香りに誘われて、そっと目を開けた。結城さんが鍋を見ながら、全身に手作りの軟膏を塗っている。谷垣や月島軍曹達は外に出ているらしく、ウイルタ族の天幕には俺と結城さんの二人きりだった。
「背中、塗るよ。自分じゃ塗りにくいでしょ。」
「ありがとうございます。起こしちゃいました?」
俺が自然に目が覚めたと首を振ると、ホッとしたように目尻を下げる結城さん。無防備にはだけさせた背中をこちらに向けた。
(これで意識しないってほうが無理だよ。)
なるべく平常心で彼女の肌に触れる。乾燥は無くなり、すっかり綺麗になっていた。ただ、尾形に撃たれた左肩の傷と、都丹の手下にやられた腰の傷と、箸を刺したという太腿の傷はしっかり残っている。
(懸命に戦い、生きようと決心した人間に、これ以上傷付いて欲しくないって、傲慢だったな。)
結城さんの傷はこの世界で生きた証だ。そして、これから出来る傷も、生きる為につく傷だろう。それは勲章であり、俺が止める権利などない。愛おしい彼女の傷を無意識でそっとなぞる。彼女は悶えながら、艶めかしい声を漏らした。
「…んっ……。」
ハッと顔あげると、耳を赤くする彼女がいた。どうも堪らなくなってくる。勢いのまま、手を出してしまってもおかしくない。俺は急いで結城さんの服を整えた。
「ごめん、くすぐったかったね。」
「あ…いえ、大丈夫です。ありがとうございました。」
結城さんは恥ずかしそうにはにかみながら、下ろしていた髪の毛を纏めていく。樺太にきてからずいぶん器用になっていた。その後ろ姿にどうしても我慢できなくなって。
「結城さん、その…抱きしめてもいい?」
「え?」
返事を聞く前に背後から抱きしめた。結城さんは驚いているようだけど、抵抗したり、振り解くことはない。俺の回した手に手を重ねてきて心配そうに尋ねてきた。
「…何か、ありました?」
「…ううん。」
何かがあった訳じゃない。好きだと言えないのが辛いだけだ。鯉登少尉が結城さんを意識してるのも気付いてる。結城さんを誰にも取られたくない。そう、気持ちをぶつけても、結城さんは戸惑うだけだろう。
「…もうすぐですね。昼過ぎには亜港に着くそうですよ。」
俺のそんな悶々とした気持ちを知るわけもない結城さんは、「ようやくですよ」と俺の髪の毛を撫でる。励ましてくれてるんだろう。その優しさが、より胸を締め付ける。
これから待ってるのは、パルチザンで爆薬を扱う工兵のキロランケと、凄腕狙撃手の尾形だ。怖くてもおかしくないのに、結城さんは決して逃げたりしない。敵になった二人を未だに想いながら、それでも共に立ち向かおうとしてくれる結城さんがいじらしくて仕方がなかった。
俺は絞り出すような声で、結城さんに呟く。
「…一緒に戦ってくれて、本当にありがとう。」
「…どういたしまして。」
穏やかに笑みを溢す彼女。とても嬉しそうだ。
「こんな遠いところまで、来てくれたこと…感謝してる。結城さんがいなかったら、月形でも、屈斜路湖でも、網走でも死んでた。」
「杉元さんは私が助けなくても平気そうですけどね。脳みそ欠けても死なない不死身ですから。」
「流石に頭に弾丸が直撃だったり、心臓を刺されたら死ぬよ。」
結城さんが「本当に?」と笑った。躊躇ったり臆せば、人は簡単に死ぬ。不死身ってのは自分に言い聞かせてるだけだ。
「結城さんはずっと後ろから守ってくれてた。それなのに、結城さんを失うのが怖くて…手を引いてって押し付けてごめん。」
彼女の肩に顔を埋めながら謝った。彼女はそんな俺の頭をポンポンと撫でてくれる。
「お酒一升で許します。」
「それは多すぎ。」
「えー?じゃあ二升?」
「なんで増えてんの?」
二人で顔を見合わせて笑い合った。この笑顔を守りたい。出来るだけ長く見ていたから、お酒はもう少し控えて欲しいかな。
「長生きしてよ。酒に溺れて死んだら、アシリパさんも俺も許さないからね。」
「大丈夫ですよ。八十までは生きます。酒は百薬の長って言いますから。」
「変わる気が一切ないな…。」
ケラケラとぼける結城さん。悪戯っぽい顔も、悪い顔も、可愛く見えてしまう。極め付けにドヤ顔で振り向いた。
「変わって欲しいなら、管理してくれないと困ります。」
「何でそんなに上からなんだよ。一生管理するぞ、この野郎。」
俺が脇を掴んで懲らしめようとすると、逃げようともせずに「それは頼もしいです」と結城さんは柔らかな表情で微笑んだ。ズルすぎる。本気にしちゃうだろ。一生離したくない。離さなくても知らないよ。
俺が抱きしめる力を強めると、結城さんはハッと気付いた様に顔を上げた。
「あ!やばい!焦げてます!ほら、早く食べて準備しなきゃ!」
俺の腕を解いた結城さんは、炭を端に寄せて鍋をかき混ぜると、馴鹿鍋を椀によそってくれた。ニンニクと胡麻油の香りが鼻をくすぐる。炊いてくれた米と一緒に口にかきこんだ。肉と野菜の旨味が口一杯に広がる。
「ありがとう。今日もとっても美味しいよ。」
「良かったです。何が待ってるか分かりませんから、しっかり精をつけておきましょう。」
「…ああ。」
残った汁を、啜りながら頷いた。また、明日もこうして結城さんと食卓を囲みたい。アシリパさんと白石と賑やかに食べるのもいい。その時、隣に結城さんがいて欲しい。明後日も、来月も、一年後も、ずっとずっとその先の未来も。
ふぅーふぅーと一生懸命に鍋を食べる彼女の横顔を見ているだけで愛おしさが増していく。
好きだよ。大好きだよ。
絶対に守るから、幸せにするから。
俺を選んで、結城さん。
ようやく食べ終わった結城さんに手を差し出した。
「行こう、亜港監獄へ。」
いつでも手をとる準備は出来ている。だから待ってるんだ。結城さんが自分から手を置いてくれることを。俺の元に飛び込んで来てくれる日を。