亜港の死人は人攫い

流氷原で死んだキロランケを囲んだ私達は、弔う為にキロランケを流氷で覆った。キロランケと仲の良かった白石が目を細めながら、私達につぶやいた。

「この流氷はアムール川の水が河口で凍ったものなんだって…。キロちゃんが教えてくれた。春が来たらそのまま故郷の水にとけて眠れる…。」

「…愛してたんですね。故郷も、樺太も、北海道も。愛した自然や文化を伝えたくて…私達にもいろんな事を教えてくれたんでしょうか。」

「そうだろうね…。アシリパちゃんに金塊の暗号を思い出して貰いたい気持ち以上に、知って欲しかったんだと思うよ…。」

頷きながら白石が笑った。彼はそのままキロランケの目に手を当ててそっと閉じさせる。目を瞑ったキロランケは、安らかに眠っているようだ。

「真面目すぎる男だったんだよ…っ…キロちゃんはさ…!!!」

白石が唇を噛みながら、顔にも流氷を覆っていく。彼の背中をさすりながら、私も一緒に重ねていった。馬が可哀想だとヤクザに真っ向から立ち向い走ったキロランケ。甘えていいぞと、胸を貸してくれた彼も、アシリパや私達を優しく見守っていた彼も、どれも嘘ではない。彼の守りたいもの、背負うものがあっただけだ。

「キロランケさんにとって、ソフィアさんがとても大切な存在だったんですね…。もっと早く教えてくれたら良かったのに…。」

「そうだ、ソフィア…。彼女なら全ての真相が分かるかも…。どこへ行った?近くにいるはずだ。」

キロランケの最後の言葉であるソフィアについて私が触れると、アシリパがソフィアを探し始めた。既に合流して、さっきまで一緒にいたらしい。周りを見渡していると、急に月島が膝を折り、体制を崩した。

「月島ァ!しっかりしろ!」

鯉登の呼びかけに「大丈夫です」答える月島だが、声が弱々しすぎて殆ど聞き取れない。月島も、鯉登も、キロランケにやられてボロボロだ。すぐに手当をしようと谷垣と月島の身体を支える。

「ひどい傷だ…。よくここまで立っていられたな…。」

「うわぁ…頸動脈までいってたら即死ですよ…。本当にギリギリですね。出血量が多いので、普通の人ならショック状態になってもおかしくないのに、化け物です。」

私達の会話を聞いて焦った鯉登が急いで亜港へ引き返そうと指示を出すが、アシリパと杉元は人影が気になるようで離れて行ってしまった。アシリパと鯉登は初対面なはずだが、すでにナメられている。その間に、私と谷垣で月島の身体を横にして、足を上げながら血を心臓に行くような体勢へと変えた。止血法は直接圧迫しかないので、布を当てて縛りながら手でも圧迫する。最後に残っていた薬も全部、月島に飲ませた。少しは残しておきたかった気持ちはあるが、仕方がない。目の前で人が死ぬほうが気分が悪い。

「鯉登さんも右手は大丈夫ですか?マキリで刺されてますよね?」
 
「ん?ああ、平気だ。それより、七瀬は何ともないのか?」

右手からも胸からも血が出ているのに、私を心配してくる鯉登。自分のことは二の次でジロジロと私を見てくるので、左手の小指を隠しながら彼の腕をとった。

「私の事はいいですから、ほら、固定しますよ。刺されてるのにサーベル振り回してるから傷が開いてるじゃないですか。そもそも、よくサーベルを握れましたね。」

「己の剣は死んでも離さん。」

「はいはい、三角巾するので剣は離して下さいね。」

キリッと格好つけていた鯉登のサーベルを取り上げて仕舞うと、犬のようにショボンと眉を下げた。それでも手当てを始めるとまた尻尾でも振るかのように嬉しそうにしている。戦ってる時はカッコいいのに、それ以外はポンコツ犬みたいだ。

「また亜港に戻ったら、温かいところで傷を流して、改めて手当てし直しましょう。凍ってバリバリになるので服も早く着替えた方が良いですね。」

「すまない。七瀬が居てくれて助かった。」

頭を下げる鯉登に、どういたしましてと笑う。止血がひと段落した頃、杉元とアシリパが岩息とスヴェトラーナを連れてきて戻ってきた。月島を岩息に持ってもらい、私達は亜港へと向かう。

「キロランケさん、さようなら。」

キロランケが使っていたキセルと煙草入れに傷を入れ、魂を抜くと、彼を覆った流氷の上に置いて弔った。ポクナ・モシリでも煙草をふかしているだろう。煙草と火薬と彼の香りに後ろ髪を引かれながら、流氷原を後にした。

ーーーー

亜港近郊のニヴフの集落に来た私達は、冬の家にお邪魔させて貰い、暖をとった。重傷者の尾形、月島と共に私も横になって身体を休める。毒矢が刺さった小指は切り落としたのだが、熱が出てしまっていたのだ。流石、ヒグマも10歩歩けば死ぬ即効性の毒である。

「尾形を庇おうとして指を落とすなど馬鹿者が。嫁入り前なのに、どれだけ傷つくつもりだ!」

「はあ…。何で鯉登さんが怒るんですか。私の勝手でしょう。結婚する気ないですし…。」

プンプンと怒っている鯉登が煩わしい。男達だって全身傷まみれの癖に、何で女の私だけこんなに五月蝿く言われなきゃならないのだ。

「そもそも傷がついたら私の価値は落ちるんですか?ねえ?」

私が逆に怒りながら問い詰めると、鯉登は急に真面目な顔になった。そして、たじろぐほど顔を近づけてくる。

「七瀬の価値は変わらん。しかし、世間一般的にどう受け止められるかの話だ。私は気にせんが、誹謗されて傷付くお前は見たくない。」

「……。」

私は黙り込んでしまった。男女差別やルッキズムを押し付けるなと、言うつもりが、何故か優しくフォローされてしまったから。急に恥ずかしくなってきた私は、聞かなかったフリをして毛皮にうずくまった。

「おい、無視をするな。」

毛皮の上からバンバン叩かれる。小学生か。被っていた毛皮も力ずくで剥がされた。

「ふははっ!貴様、耳が赤くなってるぞ!七瀬も照れたりするのだな!」

「キャンキャンうるさいです。静かに寝せてください。」

鯉登思わぬ優しさに驚いて、私の顔は確かに熱くなっていた。ただ、調子に乗った鯉登から揶揄われるのは癪に触る。伸びてきた鯉登の手をペシっと振り払った。

「七瀬は私にだけ態度が違わんか?なぁ?ひどいと思うだろ?月島ぁん?」

「……心を許している証拠ではないですか。」

拗ねてしまった鯉登は、寝たきりの月島に助けを求めている。月島はしんどい上に面倒臭そうに、返事をした。そんな誤解を生む言い方はやめて欲しい。

「…!!そういう事か!」

ほら、何か勘違いをしている。鯉登はニコニコ笑いながら、私の上に毛布を重ねてきた。「早く治せよ」と、甲斐甲斐しく飲み水や手拭いまで用意してくれる。なんだか複雑な気持ちになった。

それから数日後。ニヴフの集落で看病してもらった私はすっかり熱も引き、元気になった。重かった身体も軽くなり、普通に動ける。ご飯も食べれるようになったので、アシリパが嬉しそうにアザラシの脳みそを口に入れてきた。思わずヴッと戻しそうになるが、悲しませたくないので久々のソレを必死に飲み込む。杉元とアシリパと白石がキャッキャと楽しくはしゃいでるのを見て、少しだけ目頭が熱くなった。ずっとこんな三人を見ていたい。でも、そんな時間はいつまで続くだろう。鯉登や、月島の背後にいる鶴見中尉を思うと、焦燥感に駆られて仕方なかった。

ーーーー

「医者をここに連れて来なくては。」

すぐに復帰できた私と違い、尾形と月島は回復の見込みが立たない状況だった。ニヴフのお母さんに尾形は薬草だけでは治せないとはっきり言われ、杉元も決心する。危険を冒すのを鯉登は嫌がっていたが、月島の為にも必要だとなんとか納得したようだった。

「должен отвезти тебя в мою больницу.」

「病院のほうが機材が揃っていると言っている。」

杉元が連れてきたロシア人医師は、尾形を見るなりそう言った。月島に対して適切に処置してくれているし、嘘はついてないように思える。

「手術が必要なのかもしれません。すぐに連れて行きましょう。」

「ダメだ、ここでやれ。」

「それが出来ないから、彼は病院に行きたいんでしょう?」

少しでも危険を排除したい鯉登は、またもや難色をしめした。言い合う私と鯉登を見て、ロシア人医師が痺れを切らしたように怒鳴る。

「Вы же хотите его сnаcти!」

何と言っているのかは分からないが、救おうと必死に訴えているのは何となく伝わってきた。

「分かった、運ぼう。」

「おい、杉元いい加減に…。」

「尾形にはいろいろと聞きたいことがある。まだ死なせない。」

杉元は殺気立っていて、反論を許さない雰囲気を漂わせている。医師も通報する気がないと分かった私達は、杉元の言葉に押されて尾形を橇に乗せ病院へと運びこんだ。

雪が降る中、手術が無事に終わるのを外で待つ私達。診療所の周りを交代で見回った。杉元と二人になって歩く番になり、雪の中を踏みしめていく。

ザク…ザク…ザク…

隣を歩く彼は鼻と耳を赤くしながら嬉しそうにはにかんでいた。申し訳なさから胸をギュッと締めつけられる。今後の事をすぐにでも話さなければ。そう思った私は、先日に鯉登と話した事を杉元に告げた。

「…私、北海道に戻ったら第七師団の元で生活することにしました。」

「…えっ?…どういう事?…一時的に?」

突然の事で、杉元は狼狽しているようだ。桃色に緩んでいた彼の顔は、サッと血の気が引いて固くなっている。

「いえ、これからずっとですよ。第七師団で保護してくれるそうなので甘える事にします。身元も保証して貰えて、一般的より裕福な生活が送れるそうです。」

第七師団に入ったら鯉登も支援してくれると言質を取っている。アシリパの救出と私の確保という樺太先遣隊として結果を残せたことに鯉登はとても喜んでいた。私のことを少なくも好んでいるようなので、悪いようにはされない筈だ。戸惑っている杉元につられないように、私はあくまでも平静を装った。

「…急にどうしたの?アシリパさんの為に生きるって、言ってたばかりじゃ…。」

「アシリパさんがコタンに帰れるまではアシリパさんの側にいます。ただ、その先の未来を生きる事を考えたんです。第七師団に雇われるのが自分の幸せになると思って選択しました。」

嘘だ。本当はずっとアシリパと杉元と一緒にいたい。でも、未来の知識がある私を鶴見が放っておく筈がない。鯉登と月島なら帰ってすぐにでも報告するだろうし、例え秘匿してくれたとしても情報将校の鶴見なら私の正体を見破るだろう。それこそ時間の問題だ。どうせ捕まって利用されるなら、アシリパの安全やアイヌの利権確保の為に自ら交渉条件になる方がよっぽど良い。

「鯉登少尉が好きになった?それとも…俺のこと、そんなに嫌い?」

「鯉登少尉は関係ありません。杉元さんのことは大好きですよ。命の恩人ですもの。」

好き嫌いの話ではない。この時代を生きると選んだ故の決断だった。死んで情報ごと消すのは簡単だ。でも、私はこの世界に残って、自分の役目を果たしたい。大好きな人達を守りたいのだ。キロランケに託された想いもある。私はそれを無視することは出来なかった。

「…じゃあ、もしかしてアシリパさんの為?そんなの許さないよ?誰かの為に犠牲になろうとしてるんなら、結城さんに嫌われてでも止めるから。」

彼の飴玉みたいに透き通った瞳に怒りが浮かんでいる。紅く湿った目元が、やめてくれと懇願してるようにも見えた。

「俺はアシリパさんに平和に暮らして欲しいと願う気持ちと同じように、結城さんにも幸せになって欲しい。笑って欲しい。だから尾形だって助けた。二人に苦しんで欲しくないからだ。」

私の両肩を掴んだ彼の手の力がだんだん強くなっていく。訴える声が心に刺さり、私は何も言えなくなる。

「…………。」

「本当は…俺が……。」

辛そうな顔をした杉元が最後に吐露した言葉は小さくすぎて聞き取れなかった。聞き返そうと顔を上げた時、背後からアシリパの声がかかる。

「杉元!結城!尾形の手術が終わったみたいだ!」

「…… 結城さんいこう。…この話は、また改めて時間を取る。アシリパさんも聞くべきだ。」

私の肩を強く握った杉元の手が緩み、背中をそっと押してくれる。私は頷いて診療所へと急いだ。

「Б о ю с ь, до утра не продлит…」

「もうすぐ死ぬって…。」

ロシア人医師の言葉を月島の代わりにエノノカが翻訳してくれる。手術をしても手遅れだったようだ。アシリパは俯いてしまった。何て声をかけたら良いか分からない。同じようにアシリパを見ていた杉元と目が合う。眉を寄せ、下唇を噛み、どうにか出来ないかと考えている杉元。考えていることも私と同じようだった。

「どうする?」

「死ぬのを確認する。」

谷垣の問いに、鯉登は冷静に答えていた。きっと鶴見に報告する為だろう。私もエノノカに待つようにお願いしてから鯉登について行こうとする。それよりも先に、部屋へと向かっていった杉元の叫び声が響いた。

「尾形が逃げた!」

驚いて診療所の入口へ振り返ると、バンッと扉が開く。

「アシリパさん!結城さん!尾形が逃げた!」

扉から出てきた杉元の目は爛々と光っていた。正気を取り戻したかのような目は、嬉々としていてどこか狂気すら感じる。

「裏へ回れ!白石と谷垣は向こうへ!結城さんは医師の手当を!アシリパさんは離れるなッ!!」

杉元の指示に従い、診療所の手術室へと入った。鯉登がロシア人医師の様子を見てくれている間に、私は棚にある消毒液や包帯を探す。

「Вали его с ног!」

手術室の外から男のロシア語が飛んできた。驚いて振り返ると、鯉登が手術室の扉に銃を構えている。誰が入ってきたというのか。確認しようと近寄ろうとすると、倒れていたロシア人医師が起き上がり鯉登を殴り倒した。

「えっ…何で……?」

もしかしてこの医師はロシア警察とグルだったのかと、後退りする。拳銃を取り出すため、懐に手を入れたその一瞬、距離を詰められ凄まじい勢いの右ストレートが飛んできた。ロシア人の恵まれた体格から放たれたそれに脳が揺れる。この医師が日露戦争経験者だと杉元が言っていたのを思い出した。そりゃ、近接戦闘で勝てるはずがない。

(あ、気絶する。)

強烈な痛みと共に意識が遠退くのを感じる。重くなっていく視界の中、鯉登の前に立った人物が目に映った。それは逃げたはずの尾形百之助だった。

ーーーー

「七瀬っ!!ぐふっ……ゴホッ…。」

ぐったりと気を失った結城を見て鯉登が叫んだが、尾形はすかさず彼の顔を蹴った。叫ばれて杉元達が戻ってきたら困るからだ。尾形はそのまま倒れた鯉登の拳銃を奪って頭に突きつけると、ロシア語を吐き捨てた。

「Барчонок.」

聞き覚えがあるソレに鯉登が固まる。そんな鯉登を無視して、尾形は拳銃をクルクル回しながら失神したままの結城を担いだ。

「やめ…ろ…。七瀬を…どうする…つもりだ……。」

「俺の勝手だ。それより、少尉殿、アンタは鶴見中尉に満鉄の事を聞いてみろ。」

「まん…て…つ…?」

顔を上げようとした鯉登の顔と、胴体に尾形は再び蹴りを入れ、これ以上話せないようにした。ロシア人医師と人質にしたその助手にも静かにする様に指示し、そのまま結城を担いで外に出る。結城を馬に乗せて跨ると、日が落ちた亜港を駆けて行った。

ドンッ…

尾形に気付いた杉元とアシリパの姿が背後に見えた。杉元が三十年式銃で尾形を狙うが、一切当たらない。天が味方していると、そう確信して尾形は手を広げた。

「ははッ…。」

尾形は生きて逃げおおせたこと、結城をこの手にしたことに悦びを感じ、喉で笑う。杉元やアシリパはまだ結城が居なくなったことに気付いていないようだった。胸がすくような、快然たる気分だ。昏倒したままの結城の伸びた前髪をそっと撫でる。追いかけてきて欲しいと願っていた尾形だが、本当に樺太まで来るとは思っていなかった。結城も杉元もただでは起きない奴らである。

「…揺れていたな。」

尾形は流氷原での結城を思い出していた。黒柿のような焦茶色の瞳が揺れ、引き金を引こうとする指は固まっていた。尾形が本気でアシリパを殺そうとした時には、覚悟を決めたように撃とうとしていたのに、毒矢が放たれれば死ぬ気で守ろうとした結城。葛藤する彼女は泥に咲く野菊の様に愛らしい。根本から支配したい。バキバキに折ってしまいたい。そんな気持ちを抱えた尾形と何も知らない結城は、雪で境界がわからない夜の中へと消えて行った。

ーーーー

「…… 七瀬が…っ…連れ去られた。」

アシリパと杉元が診療所に戻ると、血を流した鯉登だけがそこにいた。キロランケとの戦闘の傷が癒える前に、何度も殴られ、蹴られたようでフラフラとしている。

「…は?誰に??」

「…尾形百之助だッ…!!逃がしたのか…ッ!?」

尾形が逃げたことで遠慮なくぶっ殺せると歓びすら感じていた杉元の顔が青くなる。考えるよりも先に杉元の足が動いていた。

「…もう遅いッ!!…吹雪でまた遭難するぞッ!!アシリパ!谷垣!奴を止めろ……ッ!」

獣の様に凄まじい勢いで走る杉元。アシリパも谷垣も急いで後を追うが、杉元の姿を見失わない様にするので精一杯だった。二人が叫んでも、杉元の耳には届かない。

「……はぁ…っ…はぁ…っ…嘘だろ…ッ……何で…第七師団でも…土方の仲間でもない…お前が…… 結城さんを…持っていくんだよッ…!!」

吹雪で前後左右も分からないまま杉元は進んだ。夜が迫ってきていて、光さえも見えなくなってくる。それでも足を動かし続けた。

「杉元!!!やめろ!死ぬ気か!!!」

走り続ける杉元の頭にゴンッと村田銃の銃床が当たった。真っ直ぐに走っているつもりだった杉元は右斜めにそれており、それに追いついた谷垣が放ったものだった。

「尾形が金塊を狙っているのなら、必ずまた姿を現す!今、無闇に追うべきじゃない!冷静になれ!杉元!」

「……ッ!」

歯を食いしばり、立ちあがろうとする杉元を谷垣が後ろから止める。尾形の去って行った方向すら分からなくなった杉元は、怒りに震えながらも谷垣に従った。振り向くと、谷垣の少し後ろに息を切らしたアシリパが立っている。アシリパの深い藍色の目は悲しい色を浮かべていた。

「アシリパさん、すまない…。せっかく再会出来たのに結城さんをみすみす攫われちまって…。」

「油断していた私たち、皆が悪い。そう気に病むな。尾形は結城の事を好いていたようだし、悪い様にはしないだろう。」

落ち込む杉元をアシリパが慰める。杉元が「…だから余計怖いんだよ…ッ…。」と呟いたが、それに気付いたのは谷垣だけだった。

「尾形はキロランケも裏切って金塊の鍵になる暗号を聞き出そうとしてきた。コチラが追わなくても向こうからやって来るはずだ。道は何処かで必ず重なる。」

結城から貰った麻紐を触りながらアシリパが言った。アシリパは目に見えない運命の糸のようなものがあると信じて疑わない。ソフィアとも、結城とも、また再会する時が来ると確信していた。

「……ああ。そん時は絶対許さねえ。俺がもう片方の目も抉り取って、ぶっ殺してやる。」

獣の様に逆毛立った杉元に恐怖を感じたのか、アシリパと谷垣は手に汗をかいていた。刺激しない様に谷垣が杉元の前に立って先導する。

「エノノカ達を待たせている。長々とロシア領内にいるのも危険だ。日本に帰るぞ。」

杉元とアシリパは黙って頷いた。ロシアの地で別れてしまった結城だが、日本、そして北海道に戻ってくると信じて、また雪の中を歩き始める。歩いている時も、寝ている時も、杉元は隣を確認する癖が抜けなかった。一刻も早く彼女を取り戻したい。行き先の手がかりなどなくとも、探しに行きたい。そんな気持ちを無理やり押し込めるように、深く雪に沈んだ大地を踏み締めた。


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