その人が倉持くんという同い年の男の子だということを知ったのは、5回目に話したときだった。
「名前、なんていうんすか?」
バットを確かめるように何度も握り直しながら彼が聞いた。名前も知らないで話しているのは変だと言われたら、確かにそうかもしれないと思った。
「俺は倉持」
「田中です」
「高校生?」
「あ、えっと、2年生」
「ヒャハ、なんだ同い年じゃねーか」
話していると言っても毎回5分に足らないくらいで、来るのももとうに白鳥座がてっぺんから少し降りたくらいのところにあるような遅い時間だった。そんな時間なのに彼はいつも汗をたくさんかいた姿でやってくる。夕方ここに来るときにも野球部の人たちがグラウンドを走り回っているのを見たのに、いったいいつ身体を休めているのか疑問に思う。
生きてるか心配だったって、初めて会った日は言ってた。きっと疲れているであろう時間なのにあれから何度か声をかけてくれるのは、彼の優しさなのだろう。
今日の空は薄く雲がかかっていて、星はほとんど見えない。
「夏休み、普通に31日まで?」
夏休み、の言葉にドクンと心臓が揺れる。
「ああ、ね。倉持くんはずっと練習してるけど、お休みないんですか?」
「休んでるヒマなんてねえからよ」
「そっか、そうなんだ」
夏休みの話題を意図的にそらしながら、気になっていたことも聞いてみる。話題をずらしたことは倉持くんにはバレていない、と思う。
座ったままバットを振りながら、倉持くんは話を続けた。
「夏は決勝で稲実に負けて先輩たち引退しちまったから、次の秋大は俺らの代がリベンジしねーと」
「稲実・・・って、あの甲子園の鳴ちゃん?」
「鳴ちゃんって」
「すごい人気でしたよね。ニュースでたくさん見ました」
「成宮の野郎・・・まー、すげえピッチャーなのは間違いねえけど」
「そっか。鳴ちゃんと戦ったことあるんですね、倉持くん」
「成宮な!」
あんなにマウンドで王様気取っているヤツが王子様扱いされているのが気に食わない、と倉持くんはブツブツと続けた。それと同時にバットを振る力も少し強くなる。右から振ってみたり、左から振ってみたり、お話したり、ずいぶん器用だ。
横になり、じっと空を見なおす。やっぱり今日は星が見えない。
「毎日夜遅くまでいて、ちゃんと寝てんのかよ」
「いや、それはこっちのセリフです。私は朝は遅くまで寝てるから、全然問題ないですよ」
「ヒャハ、朝寝られるのはうらやましーわ」
「朝も練習?」
「もちろん。まあ好きでやってることだしな。田中だって、好きで毎晩ここにいるわけだろ?」
毎日こうやって空を見るのが、好きなのかと問われると少し難しかった。
もちろん嫌いじゃない。天体ショーのスケジュールを見て何ヶ月も何年も先のことを楽しみに待っていたりもする。
でもどちらかというと、習慣だった。あるいは執念。
「私、つい最近このあたりに引っ越してきたんです。引っ越してくる前はまあまあ田舎で、夜はどこもお店しまっちゃって、暗くて星だけは綺麗だっていう感じの場所に住んでたんですよね。だから星を見るのが何となく楽しくなったというか」
「いや、何となくそうはならねえって」
「んー、小学校の授業で星座習うじゃないですか。多分それがきっかけで、毎日見るようになったんです」
「星座って、あれだ、俺おひつじ座」
「あはは。春生まれなんですね」
「おひつじ座がどこにあんのかも、全然知らねえけどな」
「今見えるとしたらあっちですけど、見えないと思います」
寝転がったまま東の方向、地平線の少し上を指差す。遠くの街の光が溢れて星があったとしても見えないだろう。あっちに新宿とか渋谷とか、大きい街があるんだなと光だけでわかる。
「どこになんの星があるか全部わかんの?」
「さすがに全部は。でもおひつじ座はわかります」
「ふーん、すげ。飽きねえの?毎日変わるもんでもないだろ」
今日みたいに見えない日はなおさら。そんな目で、倉持くんも空を見ている。
「飽きる・・・は、ないです。なんというか・・・ほら夜ってなんだか落ち込むじゃないですか。考えちゃうというか」
いつも細かく相槌をとってくれる倉持くんは、空を見たまま黙っていた。何を言い始めているんだろう、と頭の半分で考えながらも、この人は聞いてくれているんだろうなという不思議な確信があったから言葉を続けた。
「でもどんなときでも星は綺麗で。昼間は空が閉じているように感じるんですけど、夜は宇宙まで見えるから、むしろ昼より世界が広いんじゃないかって思えるんです。それが私の心の支えというか」
宇宙に思いを馳せれば、自分が自分であることなんて、どうでもいいように思えた。想像もつかないほど広い宇宙の中で、私はただ小さくそれを見ようとすることしかできない、ちっぽけな存在なのだ。
でもだからこそ、宇宙に強く惹かれてしまう。見つめずにはいられない。
「そっか」
倉持くんは小さくつぶやいて、じっと空を見ていた。
薄い雲の向こうに、かすかにベガの光が見えた。