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朝起きてお父さんがいると、今日は日曜日なんだなとわかる。土曜日はせっかくの休みだからと遅くまで寝ているのに、日曜日は“せっかくの休み”であっても絶対に起きている。

そして日曜日の朝だけは、お父さんがコーヒーを淹れて、パンを焼く。そんなお父さんの姿をお母さんがソファに座って幸せそうに見ている。引っ越してきてからもこの時間は変わらなかった。

お父さんの作った朝ご飯が並ぶテーブルにつく。

「もう8月終わるけど、願書どうするの?」

幸せな食卓に似合わない質問。どんな返事を求めているのか、お母さんの表情をちらりと確認したが、責めているわけではないようだ。

「締切来週でしょう?最終的に受けなくてもいいから、出すだけ出しておくのがいいと思うわよ」
「・・・うん、わかってる」
「来年の夏にもあるんだろ?」
「そう。だから花子が本当に受けたいと思ったときに受ければいいわ」
「受けたいと思ったときに受ける権利だけはもらっておかないとな」
「うん、わかってる」

両親の私を気遣った優しい言葉が逆に辛い、なんてわがままだな。いつもより濃い目のコーヒーを必死にごくんと飲み込む。

私の気持ちを察したお母さんはさらりと話を変えた。駅前の有名らしいパン屋さんで買ってきたパンだとか、同じく有名らしいおにぎり屋さんは長蛇の列で買えなかっただとか。

「今日立川にお買い物に行こうと思うの、花子も行く?お部屋に足りないものがあれば大きい家具屋さんがあるのよ、ほらなんていったっけ。有名なお店」

有名なお店、がたくさんあるんだ。1つ1つリサーチして歩き回っているお母さんは楽しそうで、良かったと思う。

お母さんがお気に入りのパン屋さんは前の町にもあった。嫁いでいった町で一生懸命に根付こうとしていた。お父さんだって、地元にずっと住んでいくのだと信じていたはずだ。

それでも私のために全部を捨てて、一緒に東京に来てくれた。

だから私もできることをしなければいけない。そう思うのに、どう進みだしたらいいのかわからない。

温かな日曜日の朝ご飯。おいしいパンも、全部食べきることができなかった。




その日の夜、倉持くんはいつも以上に遅い時間にいつもの場所にやってきた。

「まだ、いたんだな」

今日はバットを持っていない。聞いたことがないような暗い声に反応ができないまま、横に倉持くんが座るのを待った。

「いつもは帰ってる時間じゃね?」
「うん、まあ・・・今日はちょっと」
「そか」
「倉持くんこそ、遅いじゃん」
「俺もちょっとな」

今日も曇りがちな空。かろうじて見える一等星も、その本来の輝きは届かない。

「今日練習試合があってよ」

思わず倉持くんの方に目を向けた。練習を頑張っている話は毎回のようにしているけれど、野球そのものの話をされるのは初めてだ。倉持くんは曇り空をじっと見つめたまま続ける。

「負けた」
「・・・うん」
「エースに変わったとたん打てねぇし、沢村・・・ピッチャーがイップスになってやがるし」
「イップス?」

イップスは精神的な問題により思うようなプレーができなくなること、らしい。今までは当たり前にできていたなにかのプレーが突然できなくなる。
               
「寮で同じ部屋の後輩がそのピッチャーで、すげえ強気なピッチングするやつでさ。そいつが途中から投げたんだけど全然ちゃんと投げらんなくて、アウト1つも取れなかった」

倉持くんは草の上で横になり、両腕で目を隠した。声がいつもよりも弱く聞こえる。アウト取れないことに怒っているのではなく、ただその人のことをおもって一緒に苦しんでいるんだと、その声を聞くだけでわかった。

「怪我してるわけじゃねぇし、メンタルの問題だからよ、こういうのは。投げられないっつって落ち込んでたらまだ励ましようがあるっつーのに、あいつ、投げたいっていう気持ちは全然変わってねぇんだ」
「うん」
「投げたいっていう気持ちは後ろを守る俺らにも伝わるのに、得意のインコースに投げらんねぇ。試合中何もしてやれなかったから帰ってきてから何とかしてやれたらって部屋いたけど、落ち込みすぎててどーしようもねえからよ。ちょっと1人にしてやろうかと思って出てきた」

私にすら心配して声を掛けてくれた人だ。同じ部屋で過ごしていて、一緒に戦うメンバーが苦しんでいたら、倉持くんは放っておけないのだろう。かすかに震える声に彼の優しさを感じた。

「せめてよ、いくらお前が点取られてもカバー忘れても俺らが点取ってやっからお前はいつも通りうるさくやっておけって言えたら良かったのに、俺もエースからは全然打てなかった。打てねーしどうしてやったらいいかわからねーし、情けねぇ先輩だよな」

そんなことないよ、って言うのは簡単だ。でも私には倉持くんが野球に懸ける思いも、その人との絆も全然わからないから何も言えなかった。ため息をついて両腕を伸ばしながら、倉持くんはまたまっすぐ空を見上げた。私はそんな倉持くんの顔を横目で見ていた。曇っている空の向こう、今日こんな日にこそ星が見えたらいいのに。

「流れ星、今日は流れねーの?」
「え?あー・・・ない、かな」
「そっか。この前みたいに星が流れてくれれば、あいつのイップス直してくれよって願えんのにな」

願い事だなんて、倉持くんらしくないことを言うなと思った。倉持くんらしさなんて私がわかっているとは思えないけど、でもこの人の口から“願い事”という言葉が出てくるのは不思議に感じた。

一緒に空を見上げる。一等星の強い光すら地上に届かない。こんな空に流れ星を見つけるのは難しいこと、きっと倉持くんだってわかっているはずだ。それでも願いたいと思うほど、大事な仲間なんだ。

私にはその”沢村くん”がとてもうらやましい。


「流れ星ってさ、これくらいしかないんですよ」

寝っ転がった倉持くんの顔の上で、小石くらいの大きさだということを親指と人差し指で示してみせた。

「宇宙の中の石とか氷とか、そういう塵みたいなものなんです」

倉持くんはぽかんとした目を私に向ける。レジャーシートの上に思い切り横になり、倉持くんと同じように大の字に腕を広げた。

「そんな塵のようなものが引力で地球に引き寄せられて、大気圏に突入するときに摩擦が起きて光る、というか、燃えるだけなの。人間が”流れ星”なんて綺麗な名前つけて特別にしただけ」
「へぇ」
「だから、そんなただの現象に願うこと自体よりも、流れ星に願ってでも救ってあげたいと思う倉持くんが近くにいるっていうことのほうが、きっとその人の力になると思います」

少なくとも私だったらそうだ。どうしようもなく辛いあのとき、両親だけは私のことを思ってくれた。夜以外家から出られなくなった私を東京まで連れてきてくれて、未だに前を向けないでいる今も支えてくれている。

もし両親の他に倉持くんみたいな人がそばにいたら、もしかしたらまだあの町で前を向けていたかもしれないな。そんな夢みたいなこと考えても仕方ないんだけど。

「まあどうしようもなくて願いに託すなら、9月の頭、はさすがに期待薄だから・・・10月の終わりくらいですね。流星群」
「・・・ヒャハ、んなに待てねぇし、仕方ねーからあいつが安心するくらい俺らが打ちまくってやるか」
「優しいですよね、倉持くん」
「同じ部屋だから仕方なくな」

8月が終わる。夜の風に含まれていた湿気が少しずつなくなっているのを感じていた。