#10

 フロントで渡されたカードキーをかざして部屋に入った途端、私の身体は壁に押し付けられる。
 部屋に入るまでのんびり喋っていたのが嘘みたいに、何も言わずに唇を合わせられた。
 お互いのコートや荷物が落ちる音に気を向ける余裕すらなく、厚くて熱い舌が入ってきて中を蹂躙される。
 壁に縫い付けられた手首が痛くて身を捩ると、杏寿郎さんの手は私の手首から手のひらに移動した。
 杏寿郎さんの手のひらは廊下で繋いでいたときよりも熱くて、指の股までしっかりと握れば握り返される。
「んっ、ふ……っぁ」
「舌、出せるか?」
 言われるままに舌を出すとじゅ、と音を立てながら吸ってくるから腰が震えた。
 手の自由を奪われて口端から漏れる唾液すらも逃さず舐められて歓喜にも似た声が出てしまう。
 部屋の電気も点かない暗い中でキスの音と二人の息だけが鼓膜に響く。
「きょ、じゅろ、さん」
「ん、」
「ぁ、ぅ、ッ」
「ッ」
「ぅん゛っ」
 名前を呼んで、手を握れば同じように返ってくる反応に幸福感があがる。
 こんな調子で身体が繋がったら一体どうなってしまうんだろう。
 気持ちと身体の熱が昂ぶって自分からも舌を絡ませれば、手が離れて腰に回され身体を引き寄せられた。
 コートは着てないけれど、冬の厚着はくっつく体の障害でしかなくて、直接体温を感じたいのにもどかしい。
 どこか直接肌に触れたくて、自由になった手を彼の顎へ、耳へ、首へ回して抱き着いた。
「は――、好きだ」
 私も、って言わせてほしくて息を吸うのに、すぐに唇が塞がれてくぐもった声しか出ない。
「きょ、っ、」
 顔を逸らしても執拗に追ってくる杏寿郎さんに焦れて、また舌が入って来る前に下唇に歯を立てた。
「っ――」
「私だって、言いたいんですから。杏寿郎さんのこと好きって……」
 そんな私の言葉に杏寿郎さんは目をパチクリとさせる。あ、なんか今の仕草カワイイ。
 杏寿郎さんははぁーと大きく息を吐きながらしゃがむと私を抱き上げた。
「え? ぉわっ!?」
 しゃがんだときに床に落ちていたカードキーを拾ったらしく、器用にキースタンドに挿すと真っ暗だった部屋は途端に全照明を最大にして私たちを照らす。
 私より目線が下になった杏寿郎さんを見ると、私が噛んだであろう場所は赤く滲んでいて、そっと指を血の出る場所に添えた。
「ごめんなさい。唇切れちゃった」
「む? ん、」
 杏寿郎さんは目を伏せて自分の舌でベロリと私の指ごと舐める。
 まつ毛が顔に影を落として、その艶っぽさに指を舐められるのを見ていたら不意に視線が絡んだ。
「ずっと……ナマエに逢いたかった」
 男らしさとあどけなさのギャップが凄い。
 今度は大好きな笑顔を惜しげもなく私に向けてくるから、思いが溢れて止まらなくなった。
「……私も逢いたかったです」
 泣きそうになる顔を見られたくなくて抱き着きながら同じ気持ちを吐露する。本当に幸せで爆発してもおかしくない。
「……よもやよもやだ」
「え、ちょっ! なっ!?」
 杏寿郎さんは私を抱えたまま部屋を進んでいって、そのままベッドに寝かされた。
 ギューっと抱き締められて何も言わずに頭をグリグリする杏寿郎さん。
 このままセックスになだれ込む前にできればシャワー浴びたいな。今日一日立ち仕事で汗かいているし。
「杏寿郎さん、シャワー浴びたいです」
 名前を呼んでも返事をしないからどうしたんんだろうと思いつつ、取り敢えずよしよしと頭を撫でる。
「……正直言うとこのままナマエを抱きたい。だがしかし!」
「?」
 ガバリと身体を起こすと、杏寿郎さんは部屋の外にまで聞こえるんじゃないかと言う大きな声を出した。
「今日は避妊具を持ち合わせていない! 不甲斐なし!」
「……」
 耳が痛い……のはこの際我慢する。
 さっきまでの甘い雰囲気なんて一瞬で霧散した。
 えーと、こういうときってなんて返したらいいの?
 私持っていますよ、は駄目だ。持ってない。すぐバレる嘘をついてどうするんだ。
 ゴムなくてもいいですよ? 手で致しましょうか?
 どれが正解だろうと思って杏寿郎さんを見つめていたら、また私の身体に乗っかってきた。
「だから今日は逢えなかった分たくさん話をしよう。二人で食事をしてゆっくり寝て……一緒に朝を迎えようか」
「……我慢、できます?」
 服越しでも分かる杏寿郎さんの昂ぶったモノがお腹に当たっている。
「よければ手で――むぐっ!」
 せめて手で発散させた方がいいんじゃないかと提案をしようとしたら口を塞がれた。
「俺だけ気持ちよくなっても意味がない。そして勘違いしないでくれ。これは我慢なんかではない」
「?」
「次の機会に取っておくための貯金だと思えばいい」
 ……とんでもない貯金があるもんだ。
「避妊具をつけないでするのはナマエの身体の負担が大きいし、無責任なことはしたくない」
 上に乗っかっていた杏寿郎さんは私を抱えたまま横にゴロンと転がると目を細めた。
「結婚して、ナマエがいいと思ったときに子どもを作ろう」
 大事にされている。
 杏寿郎さんが私の――私たちのこの先のことをしっかり考えてくれているんだと分かる言葉は、簡単に私の涙腺を壊す。
「私、今なら死んでもいいです」
「ははは、死んでもらったら困るし今は月は出ていないぞ!」
 有名な月のやりとりになぞって直ぐに返してくれる杏寿郎さんに、泣き笑いの顔をしたら涙を拭われた。
「ナマエが正月休暇に入ったら、夜はもちろん――朝まで繋がろうな」
「貯金、使い果たしましょうね」
「逢えなかった分もあるから覚悟しておいてくれ!」
「ひぇ……」
 本当にとんでもない貯金だな。

* * *

 あんなにも自分ががっつくなんて思っていなかったため、彼女を風呂に向かわせて顔を覆う。

 彼女に話したように真っ直ぐこのホテルに向かったが、そこでどうしたらいいかと立ち止まってしまった。
 美術館は今日は一般開放されておらず、職員や関係者だと思われる人たちがたまに出入りしているのをロビーから見る。
 まだ作業中なのかと考えて終わるのを待つか、やはり一度家に帰って彼女からの連絡を待つか……、暫くロビーを行ったり来たりしている俺は明らかに不審人物だ。
 ホテルの従業員の視線から逃れるように庭園に出れば立派なクリスマスツリーがあった。
 やることも特にない俺は、そのままクリスマスツリーを眺められるベンチに座る。
 いつ彼女に会えるか分からないからプレゼントは一昨日からカバンに入っていた。
 寒さで鼻の感覚がなくなってくるほどベンチに座っていると、美術館の入り口から結構な人数が出てくるのが見えて、その中に彼女の姿も見える。
 ――少しやつれたか?
 仕事の忙しさを物語る姿に、傍に居て支えてやりたかった自身の不甲斐なさに手に力が入った。

 ホテルの出口に向かう彼女を追いかけようとした足を止める。
 きっと今日はこれから仕事の打ち上げでもするのだろうから邪魔しては悪い。
 駅前などで会わないように、もう暫く此処で時間を潰すか。
 学校で宇髄にあれだけ煽られてここまで来たというのに、土壇場で足踏みする俺はなんと情けないだろうか。

 またベンチに座って空を見上げれば月や星は雲に覆われていた。
 今日は雪の予報でも出ていたか? 天気予報すらしっかりと見れていないなと自嘲してしまう。

 目を閉じてさてこの後どうするかと考えていたら、扉が開く音が聞こえてそちらに目を向けて驚いた。
 ロビーから庭園に続く扉から彼女が一人で出てきて、仕事仲間はどうしたんだと思う。
 俺が此処に居るのを知っているのかと思ったが、彼女はクリスマスツリーの下で立ち止まるから杞憂なようだ。
 そのまま彼女をベンチから眺める。やはり少しやつれたか。
 今駆け寄って抱き締めたら驚くだろうか、抱き締め返してくれるだろうか。そんなことを考えながら見ていたら電話が震える。
 着信欄は彼女の名前が表示されていた。

「もしもし?」
『杏寿郎さん……』

 努めて冷静に。不信感を与えないように電話に出れば彼女の声が震えている。
 久しぶりに聞く彼女の声が悲痛を訴えていて、他の誰でもない――俺が彼女を守りたいと思った。
「仕事、終わったか?」
『杏寿郎さん』
「うん?」
『きょうじゅろ、さ……』
「うん」
 ベンチから立ち上がって少しずつ近付く。

『……たい。杏寿郎さんに逢いたい』

 心が歓喜に震えた。彼女に求められることがこんなに嬉しいなんて。
「連絡をくれたら直ぐに行くと言っただろう。下ばかり見てないで顔を上げてみるといい」
 もう止まらなかった。言いながら彼女に向かって走って彼女が言葉を紡ぐと同時に抱き締める。
 ずっと、この腕に閉じ込めたかった。
 彼女のいつも使っている香りが鼻をくすぐって、色々言いたかった言葉が頭から全て吹き飛ぶ。

 ――結婚しよう。

* * *

「杏寿郎さん、お風呂空きました」
 彼女の風呂上がりの石鹸の香りに欲が刺激される。
「風呂の前に換えの下着類を買いにコンビニに行ってくる」
 彼女がシャワーを浴びている間にホテル内施設を見てコンビニがあるのは把握していた。
「私も一緒に行きましょうか? 飲み物とか買うの多くなりそうですし」
「いや、風呂上がりのナマエを部屋の外に出したくない。何か欲しいものがあれば買ってくる」
「ありがとうございます。じゃあ缶ビール! 缶ビール飲みたいです!」
「クリスマスなのに缶ビールでいいのか?」
「いいんです。プシュッと開けてくぅーっ! てやりたいです」
「いいな! 一緒にプシュッとするか!」
「やりましょう! 絶対美味しいですよ!」
 クリスマスだから洋酒が飲みたいと言わない彼女に自然と笑ってしまう。
 風呂上がりで上気した顔の彼女のこめかみに唇を一つ落とせば、一転して押し黙る更彼女に口角があがった。
「じゃあ行って来るから、大人しく待っていてくれ」
「……いってらっしゃい」
 雛鳥みたいに後ろをついてくる彼女は、扉を開けようとした俺の服の裾を弱く掴む。
「寂しいので早く戻ってきてくださいね」
 やっと鎮みかけた熱が再燃しそうなのを堪えて「いってくる」とだけ答えて部屋を後にした。
 いつぞやの宇髄の“避妊具は財布に入れておけ”という助言を思い出し、こういうことかと今になって分かる。
 自分の準備の甘さにここまで後悔するのは初めてだ。
「初めて、か」
 こんなに求めるのも、自分が臆病だと気付かされたのも、全部彼女が初めてだ。
 この先も色んな初めてを経験していくのだろう、彼女とともに。

 部屋に戻って風呂からあがったら、ルームサービスのメニューを二人一緒に見よう。
 ケーキもあるなら頼んでもいいかもしれない。
 さてクリスマスプレゼントはいつ渡そう、とその前にビールで乾杯か。
 彼女とやりたい沢山のことを考えながら、考えながら俺はコンビニに向かった。