#11

 ホテル併設のコンビニに到着すると目的のものは直ぐに見つかり籠に入れる。
 次は飲み物だと、ナマエが好んで飲む辛口のビールを冷蔵庫から数本取った。もしケーキを食べるなら甘いのも飲みたいと言うだろうと予測を立て、近くにあった甘めの酒も取り出す。
 街中のコンビニとはやはり品揃えの傾向が違うのか残念ながらこの店にケーキは置いていない。ルームサービスに期待することにして、食品コーナーで食べ物を見ながらナマエが好きそうなつまみを選んだ。
 ナマエのことを考えながらの買い物に一人高揚している自分に笑ってしまうが仕方ない。事実楽しいのだ。
 必要なものは揃い、ナマエは早く戻ってきてくれと言っていたが……。店内をぐるりと回り店の片隅に並べられていたものに足を止めた。
「あるのか――」
 意思を持って探さなければ見落としそうな程の場所にある避妊具。
 今日は話をしようと言ったばかりだろう。家に帰ればストックはある。だが明日もしナマエの部屋で使うことになったら? それなら行きがけに買えばいいだけだ。
 しかしその前に使う機会が訪れないとも限らない――。
 俺は何をふしだらなことを考えているのだと、その場で立ち尽くして自問自答を繰り返す。手を伸ばしては引いてを繰り返していると電話がナマエからのメッセージと続けて数回スタンプを受信した。
《ヤッター! ルームサービスにケーキがありましたー!》
 余程嬉しいのかスタンプの連投に笑ってしまう。
《直ぐ戻る!》
 俺はそれだけ返事をして目の前の箱を籠に雑に放り込んでレジに向かった。

* * *

 杏寿郎さんを見送り、部屋のドアが完全に閉まったのを確認してしゃがみ込んで顔を腕に埋める。
 早く戻ってきてくれなんて、ちょっとどころかだいぶ恥ずかしかったな。でも本心だもん。会いたかったし、会えて嬉しいし少しでも長く一緒に居たいって思って何が悪い。心の中で誰かに言い訳するように開き直った。
 よし、と立ち上がって仕事用に持ってきていた大きな鞄の中から小さい紙袋を出す。
「持ってきていて良かった」
 会えるかどうかも分からない、下手したらお別れになるかもしれないって思いながらも持ってきていた杏寿郎さんへのクリスマスプレゼント。
 いつ渡そうかな。部屋に戻ってきた瞬間渡したら驚くかな。あ、でも先に乾杯したい。そうしたらその後かな?
 渡すタイミングを考えてテンションが上がってきた。我ながら本当に単純で笑ってしまう。

 ルームサービスで何か食事を頼もうと部屋の机にあるメニューを取ろうとしたら“ご宿泊者様へ”と書かれたDMが置かれていた。
 なんだろう? 予約したときは宿泊だけしか頭になかったから、何か特典でもあったけなんて内容を確認した瞬間スマホを手に取る。
《ヤッター!ルームサービスにケーキがありましたー!》
 余りの嬉しさにメッセージの後に続けてスタンプを連投してしまった。直ぐに全部既読が付いて《直ぐ戻る!》の返事が来る。今どこに居るのか分からないけど本当に直ぐに戻ってきそう。
 プレゼントの入った紙袋はいつでも出せるようにまた大きな鞄の浅い場所に急いで仕舞った。

* * *

「ただいま!」
「おかえりなさい! 買い物ありがとうございます」
「ケーキがあって良かったな」
「すっかり忘れていたんですけど、今日の宿泊プランにケーキが付いていたんです」
 暫くして戻ってきた杏寿郎さんを出迎え、杏寿郎さんが持っていた二つの袋の内、食品類が入ってる方を受け取る。
「コンビニにはケーキ類がなかったから食べられそうで何よりだ。フロントに言えば直ぐに持ってきてもらえるのだろうか?」
「そうですね、ある程度なら持ってきてもらえる時間の融通も利くと思います」
「ふむ、では先に風呂に入ってきてもいいだろうか?」
「はい、じゃあ杏寿郎さんが出るあたりくらいの時間を伝えますね」
「よろしく頼む」
 手早く準備をすると杏寿郎さんは浴室へ入った――と思ったら勢いよく出てきた。
「あ!」
「はいっ!?」
「そちらの袋に――いや! なんでもない。こっちの袋にあった。気にしないでくれ!」
 杏寿郎さんは慌てて自己完結すると浴室の扉をバタンと閉めてしまう。
 何を探しているんですかなんて聞く暇もなかった。手元のビニール袋を覗いても食品類しか入っていないから杏寿郎さんの探していたもののヒントすらない。
 見つかったならまあいいか。覚えていたら後で聞けばいいし。多分忘れちゃうだろうななんて思いながら残りを袋から取り出した。

 ある程度片付け終わってソファに座る。食べ物はルームサービス頼まなくても大丈夫そうだと一息ついて、もう一度プレゼントを確認しようと立ち上がったとき浴室の扉が開いた。
「あがったぞ」
「早っ!」
「……男の風呂なんてこれぐらいだろう」
 杏寿郎さんはそんな風に言うけどいつもはもう少し長かったはずだ。だって本当に少しの時間しか経っていない。
 慌ててプレゼントを戻したけど不審に思われてないかな?
「いや……ナマエと少しでも長く居たかったからいつもよりは早かったかもしれない」
 どうやら私の挙動不審に気付いていないみたい。むしろ杏寿郎さんが顔を逸らし、居心地悪そうに顔を手で覆うから私に悪戯心が芽生えた。
 ニコニコしながら杏寿郎さんの視線の先に回り込んで覗き込む。
「きょーうじゅろーさーん? 私に会えて浮かれちゃいましたね?」
 浮かれているのは私だ。
 会えた喜びが私の口を軽くして、今までなら思っても言わなかった言葉が出てくる。指の隙間から見える杏寿郎さんの視線の先に私が居ると思うと、からかって申し訳ない気持ちよりももっと私を見てと思ってしまった。
「杏寿郎さん? 恥ずかしがらずにこっち見てください?」
「……」
 手を顔から離さない杏寿郎さんを暫く眺めていたけど、何も言わない杏寿郎さんに段々不安になってきた。怒っちゃったかな。やっぱり普段しないことはするものじゃない。
「からかいすぎちゃいましたね」
「……」
「……ごめ――ぅわっ!」
 杏寿郎さんから離れようとするより先に手が伸びて私を捕まえた。
「ナマエが好きなんだ。仕方ないだろう!」
 ギュッと抱き締められて私に触れる髪の毛はまだ湿り気を帯びている。
 本当に手早く風呂を終わらせたんだ。半ばヤケになった感じで正直に言ってくれた杏寿郎さんに私も正直に言ってしまおう。
「私も杏寿郎さんに会えて浮かれているので一緒ですよ」
「ん……」
「私も……杏寿郎さんのこと大好きです」
「……気持ちが同じだとこんなに嬉しいものなのだな」
 ぼそりと呟かれた言葉に、こんな風に私を好きになってくれる人も、好きになる人もこの先絶対に現れないと思った。
「髪の毛ちゃんと乾かしてください。風邪引いちゃいますよ」
「もう少しだけ……」
 甘えるような声音で言われて駄目なんて言えない。応えるように強く抱き返したら、杏寿郎さんもまた強く抱き締めてくれる。
 二人何も言わずに抱き合っていると部屋のチャイムが鳴った。
「……ケーキですかね?」
「俺が対応しよう」
 身体を離し私の頬をするりと一度撫でて扉に向かう杏寿郎さん。撫でられた頬を自分でも撫でて口元を緩ませているとガタガタと音が聞こえた。
 ホテルの人が配膳用のワゴンカートに乗ったケーキとともに部屋に入ってくる。
「こちらでよろしいですか?」
「ああ、大丈夫だ。ありがとう」
「使い終わりましたら廊下に出してください。ごゆっくりどうぞ。失礼いたします」
 ホテルの人が礼儀正しくお辞儀をしながら出ていくのを見送り、ワゴンカートの大きさに似つかわしくない可愛らしいホールケーキを見た。
「うまそうだな」
「ですね! この大きいワゴンカートをテーブルに使いましょうか」
 テーブルクロスの掛けられたワゴンカートをテーブル替わりに使おうと、椅子の準備を杏寿郎さんにお願いする。
「おつまみ私の好きなのばっかり買ってきてくれてありがとうございます」
「いや、折角のクリスマスなのにらしいものが買えずにすまない」
 冷蔵庫から飲み物やつまみを出しながら十分ですよ、と言っても杏寿郎さんはまだちょっと申し訳無さそうにしていた。
「あ、いいこと思いつきました。ちょっと準備するのでその間に髪の毛乾かしてきてください」
「む? もう乾いているから大丈夫だ」
「乾いてないです。駄目です」
 近付いて髪の毛を触ればやっぱりまだ湿っている。今度は甘えてきても流されないぞと思いながら言えば、杏寿郎さんは苦笑いした。
「直ぐ乾かしてくる……」
 浴室兼洗面所に向かう杏寿郎さんに仕事した気分になってふふんと腰に手を当てる。ドライヤーの音が小さく漏れ聞こえてきたから私も準備の続きを始めた。
 コーヒーカップのソーサーだけ持ってきてそこにおつまみを出す。本来の目的ではない小さいお皿に控えめに乗ったつまみをケーキの隣に並べていると杏寿郎さんが戻ってきた。
「ほら! ちょっとそれっぽくなりましたよ」
「おお! 凄いな!」
 「凄い凄い」と褒めてくれる杏寿郎さんに「髪の毛ちゃんと乾かして偉いですね」って返すとお互い褒められてどやさと胸を張り合って笑う。
 杏寿郎さんの背中を押して椅子に座ってもらい、私も向かいの椅子に座った。
 買ってきてもらった缶ビールのプルタブを開ける音だけでワクワクしてくる。この音を聞くと今日も頑張ったーとなれるからワクワクするのも仕方ない。
 杏寿郎さんのグラスにビールを注いで、黄金比は失敗してしまったけれど縁のギリギリでふわりとできる山に更にテンションが上がった。
「来年はちゃんと予約してレストランなどに行こう」
「それも嬉しいですけど、これも私たちなりのクリスマスだしいいんじゃないですか? 私、このビールを見るだけで楽しいし幸せです」
 夜景の綺麗なレストランでテーブルマナーを気にするより居酒屋で喧騒に紛れてビール片手に笑いたい。建前よりこうして杏寿郎さんの素の顔を見られる距離で他愛なく喋ったり触れ合いたい。
 杏寿郎さんが私のグラスにビールを注ぐ様子を黙って見ながら、二人で過ごせればそれだけで特別な空間になると思った。
「むう、やはり失敗してしまったな。俺のと交換しよう」
「嫌です。杏寿郎さんが注いでくれたんですから絶対私が頂きます」
 杏寿郎さんは注ぐのが苦手なようで私のグラスの半分が白い泡になるのもほら、これだけで特別仕様だ。
 断固拒否の姿勢を取れば杏寿郎さんは目を丸くしたあと眉尻を下げて笑った。
「俺も、ナマエと過ごせればどこでも楽しい」
 うん、やっぱり杏寿郎さんの笑った顔が好き。
 グラスを傾け合い、控えめにカチンと合わせる。
「「乾杯」」
 ビールをぐっと煽って喉に通る炭酸が気持ちいい。
「くぅー、やっぱりこれが一番ですよ! うまい!」
「うまいな!」
 唇に残った泡を行儀悪く指で拭いて杏寿郎さんを見れば、杏寿郎さんの口元にも泡が残っていた。
「ふふ」
「む?」
「杏寿郎サンタクロースですね」
 微笑いながら身を乗り出して杏寿郎さんの拭う。私が笑った意味が分かったのか杏寿郎さんも照れながら笑った。

* * *

 ケーキも食べ終わって残ったつまみを食べながらゆったり時間を過ごす。
 テーブル代わりのワゴンカートを挟んで向かい合っていた椅子は、飲み物を変えるタイミングで隣に並べ直した。

「ナマエはサンタクロースをいつまで信じていた?」
「私ですか? 小学生になる前くらいですかね? 枕元にプレゼントを置く祖父と目が合いました」
「はは、それは随分衝撃だっただろうな」
「あんまり覚えていないんですけど大泣きしたとは聞きました。杏寿郎さんはいつまで信じていました?」
「信じていたのは俺も同じくらいだ。信じている振りは続けていたが、小学生後半ぐらいのときに父上が酔って暴露してきた」
「ええ〜……。それ瑠火さんめちゃくちゃ怒ったんじゃないですか?」
「その頃はサンタの正体は知っていたし特段驚きもしなかったが、その日の夜に父上の髪が短くなっていたな」
 槇寿郎さん子どもの夢を壊すとか最低と思ったけど、しっかり瑠火さんから制裁を受けていたみたい。瑠火さん怒ると怖いし、髪の毛だけで済んだんだからまだ良かったんだろう。
「先程の泡のついたサンタクロースではないが……」
 いつの間に、と思わざるを得ないところで四角いラッピングされた箱がテーブルに置かれた。
「え……」
「俺からナマエへ。クリスマスプレゼントだ」
「ありがとうございます。開けてもいいですか?」
「勿論だ」
 目の前に置かれた箱を手に取って赤いリボンをゆっくり解く。
「ナマエにいつ会ってもいいようにと暫く鞄に入れていたから端が潰れていてすまない」
「そんなの全然気になりませんよ」
 さり気なく嬉しいことを言う杏寿郎さんに、中は何だろうと気は逸るのに手の動きだけが緩慢に自分を焦らした。
「ピアスだ……」
 ようやく箱の蓋を開けて出てきたのは小さな石の付いたピアス。部屋の照明に翳してみると、小さい石なのに落ち着いた深い色合いの赤はしっかりと存在感を主張している。
「実は刻印をしてもらっているんだ」
「えっ!?」
 ピアスに刻印なんてできるの?
 石の部分を見ても綺麗な赤で文字は見当たらない。じゃあキャッチの部分かなと裏返してもここにも特にない。
 どこの部分だろうと何度かひっくり返しながら見ても見つけられずにいる私に、杏寿郎さんは微笑いながら指をさした。
「棒の部分だ」
「そんなところに刻印できるんですか!?」
 キャッチを外してみれば、確かにいつも使うピアスよりも棒――ポストが太い気がする。小さく打刻されている文字に顔を近付けて、書かれている文字を読んだ。
「ふ、ロムK、for――」
 刻まれていたのは杏寿郎さんと私のイニシャル。言い終わったあと杏寿郎さんを見れば一気に喋り始める。
「洒落た言葉でも入れられれば良かったんだが文字数の関係で難しくてな。俺からナマエへ。これだけは入れたかった。以前贈ったキーホルダーは鞄の中に仕舞われてしまったから見えるところに身に付けて欲しくて……いや、独占欲が強いことを言ってすまない! 今物凄く穴があったら入りたい」
 杏寿郎さんって緊張とかすると結構早口に捲したてるんだな、なんて見当外れの感想を抱いてしまった。
 だってそう思わないと刻印されている文字や言葉の節々にある“いつ会っても”とか“独占欲”の単語に叫んでしまいそうになる。
 しかも穴があったらなんて……。まあ挿れるんですけどね。耳に穴があるので。雰囲気をぶち壊す言葉をギリギリ胸に留めた。
「付けてもいいですか?」
「……ああ、是非付けたところを見せてくれ」
 指でピアスホールの位置を確認しながらゆっくり挿し込む。カチン、と小さくキャッチが嵌った音を聞いて私は鏡で確認もせず杏寿郎さんに向いた。
 杏寿郎さんから貰ったピアスを付けた姿を最初に見るのは私でなく杏寿郎さんがいい。
「どうですか?」
「――似合っている」
 ピアスに触れる杏寿郎さんの指先が熱くて、そこから身体に熱が移っていく感覚がする。
「刻印、隠れちゃいますけど私たちだけの秘密って感じでいいですね。杏寿郎さんに守られているみたいです」
 思ったことをそのまま口に出すと杏寿郎さんは目をパチリと瞬かせてちょっと可愛い。今日の杏寿郎さんは表情がくるくる変わる。
 杏寿郎さんははぁ、と深く息を吐いたと思ったら私を引き寄せてそのまま抱き締めた。
「渡せて良かった……」
 その言葉に私は大事なことを思い出す。会えたことに気を取られて、この数週間のことを私はまだ何も謝っていない。
「杏寿郎さん、ずっと連絡しなくてごめんなさい」
「今こうして会えているからいいんだ」
「杏寿郎さんのお見合いのことやパン屋さんのこととか、瑠火さんのことも聞くのが怖くて、一人で勝手に逃げてごめんなさい」
「俺の方こそ何も言わず不安にさせてすまない」
「私がもっと、もっと――」
 杏寿郎さんに大切にされているって自分に自信を持てていたらこんなことにはならなかったのに。
 何を言いたいかもぐちゃぐちゃで分からなくなって、抱き着くだけの私を優しく抱きとめてくれる杏寿郎さんが温かい。
「もう謝らないでくれ。今は別な言葉が聞きたい……」
「……プレゼント、ありがとうございます。ずっと大事にします」
「ああ……」
 全部受け止めてくれる杏寿郎さんの熱い息が耳に掛かって小さく息が漏れる。
 身体を離すと目元を拭われ、ありがとうの気持ちを込めて鼻を擦り合わせると杏寿郎さんの目尻が柔く落ちた。
「私も杏寿郎さんに……プレゼントあるんです。私も杏寿郎さんと一緒で会えるかもしれないと思って持ち歩いていたんです」
 杏寿郎さんの言葉をそのまま借りて席を立つ。
 さっき仕舞ったプレゼントの入った紙袋を出して戻ると杏寿郎さんは予想していなかったのか口を小さく開けていた。どうぞ、と渡すと袋から細長い四角い箱を出す。
「開けてもいいだろうか?」
「はい、勿論です」
 ゆっくりとリボンを解く様子に緊張してきた。気に入ってくれるかな、大丈夫かな。さっき私がプレゼントを開けるとき、杏寿郎さんはこんな気持ちだったのかな。
 手に汗を浮かべていると、杏寿郎さんは蓋を開けて中身を出した。
「これは……ペンか?」
「ガラスペンっていうやつです」
 私が選んだガラスペンは完全な透明ではなく薄っすらと黄色味がかっていて、ペン先にかけて捻れるようなデザインになっている。
 ガラスペン、とオウム返しをする杏寿郎さんは紙袋の中にまだあるものに気付いてそれも取り出した。今度は包装もされていないシンプルな白い四角い箱。
「この赤いインクはガラスペン用……でいいのだろうか?」
「そうです。使い方というか、見本を見せてもいいですか?」
 そう言うと素直にガラスペンとインクを私に渡してくれた。
 インクの蓋を開けてペン先をそろりと浸しそっと抜き、ペン先に付いた赤に口角が上がる。
 ニヤけている顔を隠すこともせず杏寿郎さんに見えるよう部屋の照明に翳した。
「ほら! インクを付けると杏寿郎さんの髪の毛みたいになるんです!」
 初めてこれを見たとき真っ先に思い浮かんだことをそのまま口にする私。一人テンションを上げたまま部屋に備え付けのメモを持ってきてそこに“煉獄杏寿郎”と文字を書いた。
「綺麗だな」
「ですよね! インクメーカーにもよるらしいんですけど、この色とっても綺麗なんです!」
「いや……、インクもそうなんだがナマエの字が綺麗だ」
「あ、りがとうございます」
 私の文字をなぞりながら言われ、予想外の褒め言葉に変な返事の仕方になる。
「俺はやはりナマエの書く字が好きだ」
 そうだ。杏寿郎さんが私を知った――興味を持った切っ掛けは私の書いた字だった。
 瑠火さんの書道教室に通っているときに毎週貼り出された作品を彼は見ていて、そのときの感情をそのまま文字に出す人物はどんな人なんだろうと考えていたらしい。
 杏寿郎さんの肩に頭を乗せて赤くなる顔を隠す。
「好きな人の名前ですし、めちゃくちゃ気持ち籠もっていますから……」
 杏寿郎さんはもたれ掛かる私の頭に頬ずりして私からガラスペンを抜き取った。
「俺も書いてみていいだろうか?」
「どうぞ」
 杏寿郎さんに頭を預けながら、流れるように書かれていく文字に息を飲む。杏寿郎さんは自分の名前の隣に私の――名字はなく名前だけを書いた。
「書きやすいな。それに……うむ、字面もいいんじゃないか?」
 小学生や中学生みたいなことをして満足気にする杏寿郎さんに、私は肩に乗せていた頭をズラして顔を埋める。
「どうした?」
「いや、嬉し恥ずかしくて……どういう顔していいのか分からないです」
「さっき、ここの庭園で結婚しようと勢いで言ってしまった部分もあるがあの言葉に嘘は一つもない」
「はい」
「ナマエの仕事の兼ね合いもある。見合いの話も情けないがまだ完全に終わったとは言えない」
「……はい」
「きちんと時期を見て、改めて俺から結婚を申し込ませてくれ」
 律儀と言えばいいのか、きちんと順序を踏もうとしてくれる杏寿郎さんに埋めていた顔を上げてしっかり彼を見た。
「杏寿郎さん、私、今の“創る”仕事が好きなんです」
「ああ、知っている」
「ちゃんと仕事を一人前にこなせるようになって自信を付けたいです」
「自信?」
「はい、杏寿郎さんの隣に胸を張って立つ自信です」
 これはただの私の我儘の話だ。
 結婚するから仕事を辞めます、なんてことは出来ればしたくない。仕事で実力を付けてしっかりと自分だけの足で立てるようになってから次の段階に進みたい。
「だから! もしかしたら杏寿郎さんより早く私から結婚しましょうって言うかもしれません!」
「……ふ、はは、はははは」
 杏寿郎さんは目を丸くした後笑い出したと思ったら私を抱え上げた。急な浮遊感に慌てて杏寿郎さんの肩に腕を回す。
「ナマエが仕事が好きなのは知っているし、応援もする」
「ありがとうございます」
「でもナマエの自信が付く前に俺が我慢できずに結婚を申し込んでしまうかもしれないな!」
「む、そうしたら競争ですね!」
「どっちが早く言い出すか楽しみだな!」
 暗に私のやりたいことを肯定してくれる杏寿郎さんに私も一緒に笑ってしまう。
 プロポーズの競争ってなんなんだって二人で一頻り笑うと、杏寿郎さんは抱きかかえていた私を下ろし手にキスをした。
「……まじないだ」
「おまじない?」
「ナマエが俺の名字になってくれる日が一日でも早く訪れるように……」
 杏寿郎さんは目を甘くトロリとさせてまた一つキスをする。
「プレゼントありがとう。大事に使おう」
「はい。私も大切にしますね」
 贈られた赤い飾りを撫でると重ねられた手。上をちらりと向けば近付いてくる顔に、含み笑いをしながら目を閉じた。

2022/06/17:初出