やうやう積もるは恋う色:4
二回目の瑠火さんとの料理の日。
いつも通り書道教室も終わり、煉獄家に戻って配膳の準備をしていたら瑠火さんが大きなお
「それは何ですか?」
「炊飯器のご飯をお櫃に全部移して持っていくのです。素材の木がお米の水分をいい塩梅に調整してくれるんですよ」
お櫃にそんな効果があるなんて知らなかった。先週はカレーだったからご飯は炊飯器に入ったままだったけど、今日はご飯にかけるものもないからこれに入れていけばお代わりの度に台所に行かなくて済む。
先人の知恵って凄いって思いながらご飯をお櫃に全て移せば湯気に混じって木の香りがする。いい匂い。蓋をして運ぶぞと気合いを入れたけど、お櫃の大きさと重さを全く考えていなくて一人じゃ無理だと気付いた。
千寿郎くんに手伝ってもらおう。居間に居るであろう千寿郎くんを呼びに行こうとして廊下に出たら別な人が居間に向かっているのが見える。
「杏寿郎さん」
呼びかけるとピタリと止まってゆっくりこっちを振り向く彼。私と目が合うとへにゃりと笑うから私もピタリと止まる。
「名前、呼んでくれたな」
——一瞬なんの事か分からなかった。
「初めて会った日以来名を呼んでくれないから忘れてしまったのではないかと怪しんでいたところだ!」
そんなわけないでしょ。瑠火さんも旦那さんも名前呼んでいるのに。
「千寿郎なんていつの間にか“千くん”と呼ばれていたしな!」
確かに初対面だった日に名前を呼んで以来口にしていなかったかもしれない。“あの”とかで済ませていた気がする。
「名を呼ばれるのはやはり嬉しいものだな」
いつも見る向日葵のような笑顔じゃなくて、はにかむように微笑う表情は優しくて瑠火さんにそっくり。
先週千寿郎くんの呼び方の時に歯切れが悪かったのってもしかしてこの事? 彼の事を知りたいと思ってから呼び方も変わるとか私単純過ぎないかとも思ったけど名前を呼んだら嬉しそうにしてくれるから呼んで良かった。
「ん、ごほん」
二人廊下でホワホワしてたら第三者の声に我に返る。後ろを振り返れば瑠火さんの旦那さんが居心地悪そうに立っていた。
「居間に行きたいのだが……」
「父上! 廊下の只中で失礼しました」
「すみません! どうぞ!!」
廊下の端に寄って道を譲って通るのを見届けると微妙な雰囲気が流れる。この前書道教室で似たような雰囲気になったのに今日は気まずさなんて感じずに杏寿郎さんと顔を合わせて笑う。
「何か用向きがあったのではないか?」
「そうだ、ご飯の入ったお櫃を運んでもらおうと思いまして」
「お安いご用だ!」
無邪気に笑う顔と大げさに腕まくりをして見える逞しい腕のギャップに可愛いと思っていいのか頼もしいと思うべきなのか。台所へ向かう杏寿郎さんの後ろ姿に背中大きいな、なんて全然別な事を考えていた。
今日も例に漏れず杏寿郎さんと帰り道を並んで歩く。
「杏寿郎さんって何の科目担当なんですか?」
「俺は歴史だ!」
「瑠火さんの書道教室に通うあたり国語とか古文とかだと思っていました」
「人に教えるという道を選んだのは父上や母上の影響だが歴史は元々好きなんだ」
「世界史ですか? 日本史?」
「教鞭を取っているのは日本史だが世界史も好きだな。過去の偉人たちにより今がある。では何故今に辿り着いたのか? 当時の時代背景や人間関係、諸々の要素がたまたま重なった結果なのか。当時の偉人たちの気持ちを考え、今の自分ならどうするのかと振り返るのが楽しくてな」
「“もしも”とかも考えたりするんですか?」
過去の偉人たちがもし違う選択をしたらどうなっていたんだろうとか考えて杏寿郎さんに聞いてみればふっと笑った。
「“もしも”は存在しない。だから“今”がある。俺はその“今”と“その先”を大切にしたい」
「……前向きなんですね」
「そうだろうか?」
「そうやって今とこれからを大事にしたいとは思うんですけど、やっぱりどうしてもあの時ああすれば良かったとか考えちゃいますよ」
「ふむ」
「私は後悔ばかりです。こんな自分が嫌だって思っても立ち止まってつい考えちゃうんです」
彼の前を少し歩いて自嘲するように笑う。
「何故あの時こうしなかったのか? それは常に付いて回るな」
「はい」
「過去の後悔は未来の糧にすればいい。後悔ではなく反省だな」
諭すような落ち着いた声音で杏寿郎さんは私の横に並ぶと話を続ける。
「失敗も成功もあるからこそ今の自分がある。成長しようと思う気持ちがあれば昨日よりも確実にいい自分になっている」
「そういうものですかね?」
「未消化な部分もあっていい。全てを完璧にこなせる人間などいないしそれが人間のいいところだ」
「その未消化がずーっとグルグル回って動けない時はどうしたらいいんでしょう?」
「誰かに話してしまえばいい」
「話す?」
「立ち止まるのは悪いことではない。でも一人で立ち止まって動けなくなる前に誰かと共有する事も大切だ」
「難しいですね」
「そうだな。難しい。勇気がいるかもしれないが話してみれば意外と簡単だったなとなるぞ」
杏寿郎さんは私の言葉を否定することなく受け入れた上で補うように提案をしてくれる。こんな上司が欲しかったなあ。
「相手の事を信頼していないとなかなかできないですよね、そういう事って」
「相手を信じるにはまず自分が自分を信じてやることからだな」
「うーん、やっぱり難しいです。私は自分の事あまり信じてあげられていないから」
「君の字は毎週新しい変化を教えてくれる。苦しいことも楽しいことも受け止めてそれを字というもので昇華させている。それは何より君が成長している証拠だと俺は信じている」
思っていた以上に杏寿郎さんが私の事を評価してくれていて面映い気持ちになる。
こんな風に誰かに“信じている”なんて言われるのはいつぶりだろう。その言葉がすとんと胸に落ちていくのは私も杏寿郎さんの事を信じ始めているからなのかな。
「煉獄先生、課外授業ありがとうございます!」
「君に先生と呼ばれると気恥ずかしいな!」
学校の先生っぽい事を言う杏寿郎さんは新鮮だ。先生っぽいというか、先生なんだけど。
真面目な人生相談みたいになった雰囲気を砕けた態度と言葉で崩せば杏寿郎さんは照れていて、その顔はやっぱり幼くて可愛いなんて思ってしまった。少し杏寿郎さんの事を知ることが出来て距離が近付いた気がする。
私たちはまた別な話をしながら歩いていると、杏寿郎さんがふと思い出したように言い出した。
「先生といえば、来週から大会の引率などで土曜に不在が多くなりそうだ」
「部活とか大変ですねー」
「俺が居ない時の送る役目は千寿郎に任せようと思っている」
「え、大丈夫ですよ。千くんも中学生なのに夜に外に出歩いていたら危ないですよ」
千寿郎くん可愛いから変な趣味の人に狙われでもしたら申し訳が立たない。
「それは君にも同じことが言えるのだが」
「前も聞きましたし言いましたけど私に限ってそんなことないです」
「……ふむ」
杏寿郎さんは何をそんなに心配しているのだろう。彼は何か考えるように顎に指を当てた後、私に向き直り詰め寄ってきた。
「え? なんですか?」
「言って分からないならやって分かってもらうまでだと思ってな」
トーンの落ちた声音で迫ってくるから後退りしているとあっという間に誰かの家の塀に背中が当たる。
「こうしてどこの誰かも分からない男が迫ってきたら君はどうするつもりだろうか?」
「どうって……杏寿郎さんの事知っていますし……」
「知り合いだとしても、だ」
彼は塀に手を付いて私の退路を塞ぐと更に距離を詰めてきた。
誰か通行人が居れば助けての一言も言えるかもしれないけれど、タイミング悪く誰も通らないかもしれない。現に今、杏寿郎さんに詰められていても誰一人通る気配がない。私の視界は杏寿郎さんで埋め尽くされてこれはマズイ。そう頭の中で警鐘が鳴るけど体が上手く動かなくて目を瞑る。
「——」
「っ!」
耳元にかかる声に恐怖を感じて体が縮こまるのに、聞こえた言葉に恐怖とは別の感情が生まれた。
「分かってもらえたか? 知り合いの俺でさえ
私が目を見開いて杏寿郎さんを見ているから驚いたのだろう。私から離れようとする杏寿郎さんのシャツを掴んでその動きを止めた。
「杏寿郎さん、名前……」
「む?」
「私の名前、今、呼んでくれた……初めて」
色んな感情で混乱してカタコトの単語だけをとにかく伝える。
詰め寄られて耳元で言われたのは私の名前。思い返してみれば私も杏寿郎さんに名前を呼ばれたことがなかった。
名前が呼ばれただけでこんなに嬉しくなるなんて、こんな気持ち私は知らない。私に杏寿郎さんが呼ばれた時こんな感情だったのかな。人の往来のある道の端で詰め寄られて怖かったのに自分の名前が紡がれた瞬間怖さが一気に吹き飛んだ。
なんて現金なんだろうと自分でも思うけど嬉しさの方が勝ってしまったのは事実だ。
「怖くなかったのか?」
「怖かったです。逃げたいのに逃げられないし声もうまく出せそうになかったです……でも」
「……」
「名前が呼ばれた事が思ってた以上に嬉しくて」
「よもや……」
私が今どんな表情をしているか自分で把握できていないけど、杏寿郎さんはシャツを掴んだままの私を見て額に手を当てた。あ、これは学習してないと思われていそう。
「杏寿郎さんの心配を無下にしてごめんなさい」
「いや、俺こそ怖がらせて申し訳ない。送る立場の俺がなんとも不甲斐ない」
「杏寿郎さんがいない時は千くんに送ってもらうようにします」
「そうしてくれると俺も安心だ」
怖さと嬉しさがない混ぜになった私は涙目なのかもしれない。杏寿郎さんが私の目元に指を伸ばして目元を拭う仕草に一瞬身構えてしまったけれど甘受して目を閉じる。
「杏寿郎さんは……優しいですね」
「……誰にでもではない」
そう言うけどきっと杏寿郎さんはこうやって誰にでも正面から向き合う優しさを持っている。だって私の涙を拭ってくれる杏寿郎さんの指はとても温かかった。
コンビニの前で杏寿郎さんが見えなくなるのを確認して真っ直ぐ家に帰る。コンビニで買い物する気にはなれなくて寝室に入るとそのままベッドにダイブした。
今更帰り道での出来事に羞恥心がこみ上げてきて爆発しそう。
人生相談みたいな話をしていたはずなのに私は一体何をしたんだ。何をされたんだ。
思い返そうとすれば最初に出てくるのは杏寿郎さんの近付いていくる怖い顔と、相反するように静かに呼ばれる自分の名前。
名前って自分に送られる最初の贈り物だと思う。そんな今日まで、これからもずっと一緒にあるものを誰かに呼んでもらえる。
会社や病院とかでも名前は呼ばれるけど全然違うのだ。幸福度が。瑠火さんに呼ばれるのともまた少し違うこの感覚。
ベッドで足をバタつかせて枕に顔を埋めて呻いてしまう。
小学生みたいに落ち着きがなかったり屈託のない笑顔を見せたり、かと思えば顔に触れる指の太さや私をすっぽり隠す程に大きい体、そこから仄かに香る香水は大人の男性だと意識するには十分で。
「杏寿郎さん」
私は部屋で一人彼の名前を呟いてまた足をバタつかせた。