やうやう積もるは恋う色:8
杏寿郎さんは以前私のことを“感情をそのまま表に出す”と言っていたけれど、それはあくまで煉獄家にいるときの話。仕事とプライベートがみんな違うように私も仕事では違う。
「何度言えば覚えるんだ?」
いいえ、初耳です。
「これは古参の大口顧客の案件だって言ったよな?」
いいえ、初取引でお試し受注だって聞いています。
「こんな企画で来週明けのプレゼン間に合うのか?」
「え? プレゼンは再来週末って聞いていますけど……」
流石にスケジュールについて黙っていられず口を出したら目の前の机でふんぞり返って座っている部長に睨まれた。
「リスケになる事なんてこの業界ザラだろ。来週って聞いてても明日にでも出せるように準備しとくのが仕事だ」
それはいくら何でも暴論が過ぎる。だけどどれだけ正論で返してもこの部長には暖簾に腕押し、根性で何とかしろでまとめてしまう。
月曜は平穏に過ごせていたのに火曜の朝イチからげっそりする。古参顧客なら今までの企画確認しなくちゃいけないし、どういった傾向が好まれるかも把握しなければならない。振り出し以前に戻されて何から手を付けていくかリストアップしよう。他の仕掛りも確認して今週の予定を組み立て直さなくちゃ。
ああ、今週家に帰れるかな……。他の案件のメールの返信でキーボードを叩いていると三年程先に入社した先輩がスナックパンを机に置いてくれた。
「大丈夫か?」
「あー……はい、何とか大丈夫そうです」
いつも思うんだけどここで私が“駄目です無理です”って言ったらどうするんだろう? 言ったところで労いの言葉を掛けられるだけで仕事が減るわけでもないのは経験則で分かっている。
それなら変に気を使わせるより無難に“大丈夫です”と返した方がお互いに取っていいんじゃないか。というか、そもそも何に対して“大丈夫か?”なんて聞いてきているのか理解できない。
「そっか……。心苦しいんどけどさ、この資料づくりいける?」
「は?」
この先輩は部長のデスクの前で怒鳴られていた私を見ていなかったのかな? 来週末予定のものを今週中に仕上げなくちゃならなくなったんだぞ。手を借りたいぐらいなのに何で手を貸さなくちゃいけないの?
「ちょっと実家の母親の調子が悪いって連絡来ちゃってさ」
渡された資料こそ納期めちゃくちゃあったやつなのに何で今日まで手を付けていないんだと頭を抱えたくなるけど、他に忙しい案件抱えていたのかもしれないと思えば口出し出来ない。今は何でやっていなかったんだと詰めるよりも手を動かして処理していく方が優先だ。
「お母さん心配ですね。大事にしてあげてください」
自分に置き換えれば母親が“調子が悪い”なんて連絡は余程のことがない限り来ない。だから連絡が来るなら相当なんだろう。仮に瑠火さんから“体調が優れない”なんて連絡きたら今すぐにでも早退して煉獄家に行く。
先輩は申し訳ないと手を合わせながら定時のチャイムと同時に帰っていった。
先輩から渡された資料づくりは半分くらい出来ていたけれど、予算組の計算が合っていなかったり他の資料を丸写ししたのか案件名が違うものになっていたりと散々だった。何度も辻褄があっているのを確認していたら提出日の午前が終わろうとしている。
「先輩、お母さんの体調大丈夫でしたか?」
「あ? あ、ああ、帰ってみたら大したことなかったよ」
「健康ならそれが一番ですよ。これ昨日の資料の——」
昼休みが始まるチャイムが鳴ってしまったけれど出来た資料だけ渡したい。
プリントを渡しながら申し送りをしようとしたら先輩の友人だと思われる他部署の人が入ってきた。
「今日すげー頭痛てーのヤベーの。二日酔いヤベー」
語彙力もヤバいですよ。その人は先輩と話す私を見てもお構いなしにペラペラ勝手に喋り続けて正直五月蝿い。関わっても碌なことがなさそうだからなるべく視界に入れないようにする。
「あれ? お前もう次の子に手出してんの?」
「違うよ、同じ部署の子だよ」
「そうだよなー、昨日の夜はお前本命の子持ち帰ってたもんなー」
「あ、バカ」
「……」
その会話を聞いて分かるのは二つくらいか。
彼は母親の様子を見るために定時退社したわけじゃない事。合コンで無事にお目当ての娘をお持ち帰りできた事。
前者に関しては母親は元気そうで何よりだと思ったけど、後者に関しては何の感情も湧かなかった。だって先輩が誰を連れ帰ったかなんて全く興味がない。それよりも昨日の“大丈夫か?”は“
私はお前の彼女でも母親でも世話係でもないんだと言いたいけど不毛だ。嘘ついていたんですねと言うのも時間が勿体ない。私は最優先させたい企画書作成に少しでも早く取り掛かりたいのだ。
「この資料のデータはサーバーに入っているので先輩の方で最終確認しておいてください」
それだけ言って現状の最終プリントだけ渡す。
「うわー、可愛くねー」
後ろから聞こえた声の主は先輩の友人だけど、それに嫌味を返すのも反論する事もなく私は自分の席へ戻った。
「え?」
「もうその企画書必要ないから」
どういうこと? 来週頭のプレゼンの企画を練り直して作成していたら時間はあっという間に過ぎていってもう金曜の朝。
火曜から終電+家での作業でトータルの睡眠時間なんて片手から少しはみ出すくらい。肌はボロボロだし頭も段々とうまく働かなくなってきている。それでも何とか終わりが見えて、八〇%完成したところで部長にチェックを入れてもらおうと声を掛けたら意味の分からない事を言われた。
「必要ないってどういうことでしょうか?」
「あー、言ってなかった? 前に出した企画書を本部長に見せたらそれでOK出たんだよ」
「……初耳ですけど」
「すまんすまん、伝え忘れてたみたいだわ」
「私の仕掛りタスクの進捗、メールで毎日送っていますよね?」
「部下が何人居ると思ってんだよ。全体把握はしているけど詳細までは面倒見切れると思うか?」
思うかって何だそれ。それがあんたの仕事だろう。
「お言葉ですが詳細まで見ずとも仕掛りタスク名で判断出来ると思います」
「……ッチ」
これみよがしに舌打ちをすると部長は椅子から立ち上がり私に背を向けた。
「これから俺は会議なんだ。その企画は今度別なところで使え」
結局今週私は無駄な事をしていたってこと?
これが無ければ別案件の納期調整もしなかったのに、毎日終電で帰ることも家に帰ってまでパソコンの電源を入れることもなかったのに。これが無ければ——。込み上げる感情をぐっと抑えた。
“もしも”は存在しないから“今”がある——。
杏寿郎さんの言葉を思い出して深呼吸をする。過ぎてしまった事は取り戻せない。部長の言うようにこの企画は別案件でいつか日の目を見てもらおう。その時の作業がたまたま今週になっただけだ。大丈夫、大丈夫だと言い聞かせて何回か深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着ける。
いなくなった部長の机の前に立っていても仕方がないと、私はお蔵入りになった企画書を潰してゴミ箱に投げ捨てた。
午前中にいざこざはあったものの、結果として今日中にやりきらないといけないタスクはなくなった。久しぶりに今日は定時であがろう……。
メールを確認していれば件名に【至急】の文字。嫌な予感がしてメールを開けば納期と仕様変更の知らせ。今日は定時であがるという決意はわずか五分で霧散した。
結局終電で帰ってきて家の電気を点ける。1DKの狭くも広くもないダイニングにあるローテーブルの上は空のペットボトルに栄養ドリンクが転がっていて、それを見ただけでまた疲れが押し寄せた。
床にへたり込んでローテーブルに顔をくっつければひんやりと気持ちがいい。
明日は週に一度の瑠火さんと料理作りと書道教室だから片付けるのは日曜日にしよう。お湯を張って湯船に浸かりたい。ベッドで大の字になりたい。でもその前にちょっとだけ、ちょっとだけ眠らせて。
「杏寿郎さんに逢いたいな……」
瑠火さんもだけど、杏寿郎さんに逢えればきっと元気になれる。
杏寿郎さんの笑顔を思い出しながら無意識に零した言葉を最後に私はそのまま瞼を閉じた。
——お尻が痛い。
スマホが床で震えて私のお尻に振動を伝えてきて、手探りでスマホを取ると目覚ましが起きろと私に告げている。
「最悪」
ちょっとだけ寝るつもりだったのにそのまま朝まで床で寝てしまった。体を伸ばすと肩や背中からパキパキ音がする。ベッドに移動して出かける時間まで寝ようかとも思ったけど、今寝たら夕方まで起きない気がして目を覚まそうとシャワーを浴びた。髪を乾かしつつボーッとしながら今日やることを組み立てようとすれば、頭にモヤがかかって考えがうまくまとまらない。寝起きだし疲れているし、シャワー浴びて体温上がっているからかな。
鏡を覗き込めば隈が酷い。化粧で誤魔化していればどんどん厚塗りになってアプリで加工している気分になる。
ノロノロと休憩を挟んで準備をしていればあっという間に出かける時間で、立ち上がると立ちくらみがした。近くの壁に手をついて目を瞑り立ちくらみをやり過ごす。
瑠火さんに会って美味しいご飯食べれば元気になる。杏寿郎さんにも今日は逢えるかもしれない。だからもう少しだけ頑張れ自分。
何度か頭の中で繰り返し自分に言い聞かせてから私は家を出た。
「こんにちはー。ごめんくださーい」
いつもどおりの挨拶を玄関ですると、千寿郎くんが出てきてスリッパを出しくれる。
「いらっしゃいませ。どうぞ」
「千くんありがとう。お邪魔します」
「いらっしゃい」
「瑠火さんこんにちは。今日もよろしくお願いします」
「ええ、今日も……」
言いながら瑠火さんの顔が曇った。どうしたんだろうと首を傾げると「ちょっと居間にいらっしゃい」とだけ言われた。
居間に通されると今度は「座って待っていなさい」と言われ居間に座ると千寿郎くんも瑠火さんと一緒に居間から出ていく。
自分一人しか居ない居間はいつもの喧騒がなくとても静かで、途端に怖くなって鳥肌が立った。イヤだ、此処に一人で居たくない。瑠火さんのいる台所へ行こうとしたら丁度瑠火さんが戻ってきたので立ち上がりかけた体を元に戻す。
「まずはこれを飲みましょう」
出されたのは
「今日は一緒に料理するのは止めましょう。書道教室もお休みです」
「え?」
「顔色がよくありません。今週ちゃんと寝れていますか?」
「えっと、昨日ちょっと遅かっただけで他はちゃんと寝ていました」
怒られると思ったのと、迷惑を掛けたくなくて事実と違うことを言えば無言で私を見てくる瑠火さん。その視線に耐えきれなくて目を逸らしたタイミングで千寿郎くんが居間に入ってきた。
「母上、準備出来ました」
「ありがとうございます。千寿郎」
あれ? なんか、千寿郎くんの声が遠く聞こえるし準備ってなんだろう。
「直ぐバレる嘘は止めなさい。今週きちんと寝ていませんね?」
「っ、」
瑠火さんの指摘に何も言えずに黙っているとため息をつかれた。
「早く帰って休みなさい、と言いたいところですがそんな状態の貴女を一人にできません。今日はうちに泊まっていきなさい」
どれだけ大丈夫だと主張しても今日は何もさせてもらえなさそう。
「いえ、そこまでお世話になるわけにいかないので今日は帰ります。嘘ついてごめんなさい」
「こちらを見なさい」
怒鳴られた方がどれだけマシだろうと思えるくらいに凛と通る声で言われて肩がビクつく。ゆっくり顔を向けると瑠火さんはさっきと変わらない表情をしていた。
「子を持つ親としての命令です。泊まりなさい。千寿郎、案内を」
「はい。立てますか? こちらです」
「うん……」
千寿郎くんに手を借りてゆっくり立ち上がって居間を後にする。
「ごめんなさい」
居間を出る時に私はもうそれしか言えなかった。
千寿郎くんの案内で客間に通されると布団が敷かれていて手際よく寝間着の浴衣を渡される。
「まずは寝て体力を回復しましょう。あまり寝すぎても逆に体力を使ってしまうので夕食の前あたりに起こしに来ますね。それまではこの部屋は誰も来ませんが家には兄上以外みんな居るので何かあれば遠慮せずいつでも呼んでください」
瑠火さんの言いつけ通りに役目を果たしたであろう千寿郎くんはお辞儀をすると部屋から出ていった。
ここまで来たら帰れない。渡された寝間着の上にはお泊まり用のメイク落とし。心遣い痛み入ります、と合掌してまたノロノロと着替えて布団に潜り込む。
元気になりたくて来たはずなのに、手伝いも出来ずあまつさえ寝なさいと怒られてしまった。どこまで私は駄目なんだろう。情けなくて涙が出てくる。
これ以上人様の家で惨めなところを晒せないと目をこすっていると“チリン”と小さく音が鳴った。どこからだろう? 首を動かして探すと、窓辺に風鈴がぶら下がっている。今って風鈴の季節だっけ?
風鈴の絵柄はあれはなんだろう。花の絵柄みたいだけどここからじゃちゃんと見えない。
起き上がって近くで見たいけど、お陽さまの恵みを目一杯浴びた布団はふんわりして暖かくて抜け出せない。起きたら後でもう一度見よう。私はあっという間に眠りに落ちた。