やうやう積もるは恋う色:9

「父上、明日車を使いたいのですがいいでしょうか?」
「どこか出掛けるのか?」
「学校と、その後に少し遠出しようと思いまして」
 彼女と母上の誕生日の贈り物を買いに行く約束をした前日の木曜の夕食後、母上が台所で片付けをしている最中に父上に切り出せば二つ返事でいいぞと言われて一安心する。
 母上の誕生日の贈り物選びを口実として誘ってしまった手前、母上がいる場で話をするのが憚られたので話す機会を伺っていた。
「あ、兄上!」
「どうした千寿郎?」
「俺は明日部活なので! 一日中」
「そうか! 気合いを入れて頑張れ!」
「はい、兄上も頑張ってください!」
「うむ!」
 何を応援されているのだろうと腑に落ちない部分はあったが、次の日の事で頭がいっぱいだった俺はその時の千寿郎の取り繕うようなさまを当日、彼女の言葉で理解した。彼女はどうやら千寿郎にも声を掛けていたようで、それを千寿郎が「部活があるから」と断ったというところか。
 どうにも自分の彼女への想いが家族に筒抜けなようで、協力してくれるのは有り難いが少し面白くない。彼女が千寿郎の連絡先を知っていることも、誘いをかけていたことも。彼女はそんな俺の様子に気付く様子もなく、窓の外の移り行く景色を楽しそうに眺めている。
「このアーティストのこの曲特に好きなんです」
 好きなアーティストは以前聞いていて、彼女ならこういう選曲が好きだろうと考え作ったプレイリスト。実際作り方は分からなくて同僚の宇髄に聞いたのは彼女には内緒にしておこう。
 彼女のいつもと違う服装に俺の為にめかしこんだと自惚れてもいいのか、それとも誰と出掛けるにもそんな格好をするのか。
 初めて繋いだ手はとても小さく、そしてとても柔らかかった。

* * *

 母上の誕生日祝いをしてから何週か後の土曜日。
 今日もこうして学校に来て仕事をしているが考えてしまうのは彼女のことだった。そろそろ次の段階に進んでもいいだろうかと思案する。
 考えてみれば俺に名前を呼ばれて目を輝かせ、“可愛い”と褒めれば朱に染まる頬。母上の誕生日の贈り物を買いに行った時に握り返された手。甘露寺との事に勘違いをして泣きそうな顔をしていた事。帰りは初めて家の場所を教えてくれたし、その日の夜は贈ったキーホルダーを早速鞄につけている写真が送られてきた。千寿郎に嫁に来れば義弟になると言われたときなんて満更でもない顔をして、何より——俺のことを“知りたい”と言ってくれた。
 自惚れるには十分だろうと行き着く。

 そうやっていくつかの事実を思い重ねていけば別な事も一緒に思い出してしまった。さつま芋の甘味を食べさせた時、口端から垂れるアイスに劣情を抱いてしまい柄にもなく動揺した。
 職場で何を考えているんだ、教職者として不甲斐なしと頭を振って考えを元に戻す。
 書類作成が進まず今日は逢えないかもしれないとため息をついていると伊黒がやって来た。
「先日甘露寺に会ったみたいだな」
「ああ、伊黒に教えてもらったさつま芋専門店のある観光地で会った」
「それは甘露寺から聞いた」
「そうか、甘露寺が元気そうで何よりだった!」
「まあ、それは良いんだが煉獄……」
「どうした?」
「一緒に居たのは彼女なのかどうなのかと甘露寺がしきりに気にしていた。それと俺にはよく分からないが大丈夫だったか聞いてくれとも言われた」
「!」
 そうか、あの時は彼女も一緒だったから。甘露寺との事を勘違いしてあの場を去った彼女を説明もろくにせずに追いかけてしまったから気にしていたのか。

「なーなー、それってあれだろ? “土曜日のコンビニフライデー”」
「なんだそれは? 土曜日なのにフライデーとか義務教育からやり直せ」
 伊黒の言葉に耳聡く話に入ってきたのは美術の宇髄。その宇髄の言葉に伊黒が眉をしかめる。
「最近生徒の中で派手に噂になってるぜ。土曜の夜にコンビニ行くと煉獄が女と居るのが見れるって」
「なんだそれは?」
 今度は俺が伊黒と同じ台詞を口にした。
「その言葉の通りだよ。煉獄の家に入っていくところも見たとかも聞いたぜ。いつの間に家に連れ込む程の女が出来たんだよ? っつーか、この前教えたプレイリストもその女の為だろ?」
 知らない間にうちの生徒に目撃されていたのか。やはりそろそろ次に進んだほうがいいな。今日……いや、来週になるか。それとも明日逢えるか聞いてみるか。
 そう考えていたら机の上に置きっぱなしの電話が震える。彼女か千寿郎からのメッセージだと思い確認をすると送り主は滅多なことで連絡をしない母上からで簡潔に一言。
《夕食までには必ず戻りなさい》
 今日は土曜日で、彼女が家に来る日で。十中八九彼女に関することだと直ぐに考え至る。
「すまない! 火急の用事ができたので帰る! 伊黒! コトが全て済んだらきちんと報告する」
 書類を鞄に雑に入れ、挨拶もそこそこに学校を後にして駅に走る。いつもなら自転車か車なのになんで今日に限って電車を使ってしまったんだ。焦っても時刻通りにしか進まない電車に苛立ちだけが募った。

* * *

 玄関を開けて乱雑に靴を脱ぎ居間へ向かうも誰もいない。ならば台所だと向かえば母上が——母上だけが居た。
「ただいま戻りました!」
「おかえりなさい。仕事中に連絡をしてしまい申し訳ありません」
「いえ、問題ありません。俺の方こそ連絡いただきありがとうございます。何か——彼女にあったのでしょうか?」
 玄関に彼女の靴があったのに台所に居ない事に心臓がざわついた。

* * *

 母上からはずっと寝ていないようだったから客間で寝かせていること、そして今日は泊まらせる旨だけを伝えられる。彼女と話すかどうかは任せると言われ、母上は夕食の準備を終えると自室へ戻っていった。

 足音を立てずに廊下を進み、客間の襖を開けると部屋には布団が一組敷かれていて微かに上下に動いている。傍に寄って覗き込めば静かに寝ている彼女は泣いたのか涙の跡が見えた。
 彼女の仕事の忙しさは土曜に送る際の話や書道教室の字の状態から見ても分かっていた。それでも彼女は“他にも大変な人はいる”と言い、まだまだだと自分の頑張りを横に置き、もっと自分に自信を持てばいいのにと常々言っていても頑なに認めようとしない。そのうち気付くだろうと思っていたが、そもそもそれが俺の間違いだった。彼女はもう限界を超えていたのだ。
 もっと無理やり引き出せば良かった。追い込むようなことをしてでも心の奥の泥を全て出させればここまで彼女の言う“頑張る”を止めていたのだろうか。自分の手に力がこもって爪が食い込んでいく。

 ——頑張るのは心身ともに余裕があってこそです。
 彼女と邂逅する前に母上に言われた言葉。母上もきっと気付いていた。彼女の危うさを。俺を信じて託してくれたのに不甲斐ない。
 “もしも”などと詮無きことはもう考えない。同じ過ちは繰り返さない。だから——。