やうやう積もるは恋う色:10
「……ん、ぅ」
ゆっくりと意識が覚醒していく。視界に入るのは自分の家の天井じゃない。実家に戻ってきていたんだっけ? なんてぼんやり考える。
……違う、煉獄家の天井だ。人様の家でぐっすり寝てしまった。今何時だろう。スマホどこ置いたっけ? 布団から腕だけ出して頭らへんを行き来させているとふと部屋の中に自分以外の気配に気付く。
「起きたか?」
「え?」
声のした方を見ると暗がりで見えづらかったけど人が——杏寿郎さんが居て起き上がろうとすると素早く私の元へ来て背中を支えてくれた。
「大丈夫か? ゆっくりでいい」
「ありがとうございます」
「喉が乾いただろう。水を飲むか?」
その言葉に頷くと水を渡され一息で飲んだら頭の中がクリアになっていく。
「あれ? 千くんが“兄上以外は家にいる”って言っていたんですけど」
「帰ってきた」
「そうなんですね。お仕事お疲れさまで——」
空になったコップが持っていかれると同時に抱き締められて驚いた。何も言わない杏寿郎さんにどうしようと思ったけどここは杏寿郎さんの家だし、帰ってきたというのならこっちの言葉の方が妥当かな?
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま……」
いつもより元気のない杏寿郎さんに心配になる。抱き締められた杏寿郎さんの体が冷えていたから布団を手繰り寄せて少しでも温まるように掛けるとまた強く抱き締められた。
きっと瑠火さんから話を聞いたんだろうな。折角の土曜日なのにみんなに迷惑を掛けてしまって申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「……君は守られるべき存在だ」
少しの沈黙の後に掛けられた言葉に自分の手がピクリと動く。私は布団越しに回していた腕を外して杏寿郎さんを睨んだ。
「……なんですか、それ。勝手に決めないでください」
「一人で仕事に打ち込み耐える姿は美徳と捉われるだろうが実際の君はどうだ?」
「何がですか?」
「こんなにも心が悲鳴を上げて泣いている」
顔を覗き込みながら言われて初めて泣いている事に気付く。急いで涙を拭こうとしたら腕を掴まれた。
「守られるなんてそんなに弱くないです」
「知っている」
「じゃあ何で!?」
「強きものは弱きを守るものだと育てられた」
「だから、私弱くなんて!」
掴まれた腕を振りほどこうとしても全然外れない。口では“弱くない”なんて言っているけど腕を振りほどけない私に“弱い”が現実として突きつけられて、また涙がボロボロと溢れてくる。杏寿郎さんはそんな私を見て掴んだ腕が痛いのかと勘違いしたらしく謝りながら腕を離してくれた。
「君は強い。強いからこそ頑張れてしまう」
「頑張って悪い事はないでしょう」
「それで君が泣いていては意味がない」
「だって! 頑張らないと皆そっぽを向くじゃないですか! 仕事が出来ないやつなんて烙印押されたくないんです! いなくても問題ない存在になりたくないんです! だったら頑張り続けるしかないじゃないですか!! それに私より大変な人だって沢山いるのに私ばっかり弱音吐きたくない!」
泣きながら悲鳴をあげるように吐露する。案件が重なっても他の人も同じかもしれないと思えば次へ次へとこなしていった。自分にばかり回される仕事ももしかしたら他の人より大したことないのかもしれないと思えば断る事もしなくなった。自分より大変な人がいると思わないと潰れそうだった。なんで自分ばかりと自棄になりかけるのを寸前で踏ん張っていた。
「もういつまで頑張ったらいいのかも分からないんです……」
分かっている。誰かに助けてもらえばどれだけ楽かなんて分かっているけどその“誰か”が分からない。
「頑張らなくても俺はそっぽを向かない」
「何ですか……それ……」
「俺が君を守りたい。どんな君でも俺は君を必要とする」
真っ直ぐ私に向く視線の熱さに背けたくなるけど、その眼でずっと見ていてほしい。相反する気持ちが私の表情を更にぐちゃぐちゃにしていたらまた抱き締められて背中をポンポンと叩かれた。
「頑張りを人と比べることなんて出来ない」
「結果でしか見てくれないから……頑張って結果を出すしかないんです」
「書の上達も、料理の上達も君の努力の賜物だろう。そこに至るまでの君の頑張りは俺が見ているし知っている。それこそ母上も、父上も、千寿郎も。もっと胸を張っていい」
私の叫びに一つひとつ答えてくれる杏寿郎さんの声音は凄く優しくて、少しずつ涙が引いていく。
「いなくても問題ない存在なんて誰ひとりいない」
「今だって……私……杏寿郎さんにしがみつくしか出来ない」
「そんな事はない。それにこれは俺が君を離したくないだけだ」
そう言うと杏寿郎さんは背中を叩くのを止めて、私が痛がらないギリギリまで強く抱き締めてくれる。
「一人で立ち止まるな。動けずうずくまる前に俺を信じて投げてくれ」
「何で……そこまで……」
杏寿郎さんは体を離すと一度眼を伏せた後、真っ直ぐに、射抜くように強く私を見た。
「君が好きだから守りたい。身も、心も」
その言葉に心と体が熱くなる。ずっと欲しいと思っていた。ずっと言われたいと願っていた。杏寿郎さんから、無条件に私を必要だという言葉を。
それでも臆病な心を覗かせる私は素直に返事が出来ない。
「うち……家柄とか何もないです」
「家と付き合うわけではない」
「私、ワガママです」
「むしろ君のワガママがどれだけちっぽけかを教えてやりたい!」
「ちっぽけって……。機嫌悪くて八つ当たりもします」
「それぐらいを受け止める胆力は兼ね備えているつもりだ!」
「き、嫌いになって無視してもですか?」
「好かれるように俺が努力するだけだ」
「っ……、」
もう他に言う事はないか? という杏寿郎さんの瞳の赤は私の小さな虚勢を溶かしていく。
「“嫌いになっても”ということは今は好かれていると受け取っていいだろうか」
言われて一寸後に顔が赤くなる。涙はすっかり引っ込んでしまった。
「好きということでいいか?」
何も返事をしない私に再度確認するように言ってくる杏寿郎さん。
「こんな……私なんかで、いいんですか?」
「何度でも言う。“私なんか”ではなく俺は“君が”いいんだ」
二十代半ばの恋愛ってもっと駆け引きを沢山するものだと思っていた。だけどこんなにも真っ直ぐぶつけられてしまえば、駆け引きなんて杏寿郎さんの言う“ちっぽけ”なものなんだろう。気持ちをそのままぶつければどんな形でも必ず応えてくれる。時間をかけてその信頼を私にくれた杏寿郎さんの目をしっかりと見る。
「私も、杏寿郎さんが好きです。杏寿郎さんじゃないとイヤ」
手を伸ばす先に杏寿郎さんがいて欲しい。それと同じくらい杏寿郎さんの視線の先には私が居たいとも思う。目を合わせて自分の今の精一杯の言葉を出せば、杏寿郎さんは今までで一番素敵な笑顔になる。
「ほらちっぽけだ!」
「え?」
「“俺じゃないとイヤ”だなんてそんなワガママ直ぐに叶えてやれる」
また涙が出るけど今度は嬉しくて出てくる涙だ。離れていた体がまた近付いて目を閉じれば重なる唇。
杏寿郎さんと交わす初めてのキスは涙混じりの甘い味がした。