#17

「こんな看板あっただろうか?」
 二人で帰ってきた私が住むマンションの入口、杏寿郎さんが指差す先にある看板には赤文字で大きく【空室有】と書かれていた。
 私が今日家を出たときにはまだなかった気がするからこの数時間で設置されたのかな?
 空室がどこの部屋なのかまでは分からず、部屋に戻りながら調べるとどうやら上階が空いているらしい。そういえばこのマンションって上階の方は広めの間取りだったっけ? そんな曖昧な記憶を呼び起こしながら杏寿郎さんにもスマホで調べた情報を見せてみた。
「寝室の他に作業部屋があるといいと言っていたからこの間取りはいいな。このマンション内で引っ越せるなら業者も呼ばなくて済むかもしれない」
 引っ越しシーズンが本格化する前に決めたい思いもあるし、杏寿郎さんの言うようにこのマンション内の部屋変更で業者も呼ばず自分たちだけでできるなら助かる。
 善は急げで部屋に着くなり不動産会社に内見希望のメールだけ送って、話が進めば正月休みのあとの土日に見れそう。
 内見っていってももうどんな設備があるかは分かるから形式だけになりそう。
 とりあえず今できることはこれぐらい。かまどベーカリーで買ったパンをテーブルに広げながら二人で食べ始める。
「あとは不動産会社からの連絡待ちですね。もう来年になっちゃいそうですけど」
「手続きしてくれてありがとう」
「いいえー。条件とか合うといいですね」
 年が明けたら私の親に会ったり内見があったりしそうだから土日は忙しくなりそう。仕事は絶対平日に終わらせるようにしないと。
 かまどベーカリーの美味しいパンを食べながらふんふん息巻いていると杏寿郎さんがパンを一口齧って止まった。
「わっしょい!!!!」
「っ!」
 喉に詰まったのかなと、お茶を渡そうとグラスに手を伸ばしたとき暫く聞いていなかった特大の掛け声が部屋中に響く。
 あまりの大きな声に手がビクついてお茶が溢れてしまい、驚いたまま固まっている私に杏寿郎さんも驚いてティッシュで溢れたお茶と手を拭いてくれた。
「すまない! どこも怪我していないか?」
「ぁ……大丈夫です。私こそ固まっちゃってすみません」
 濡れた私の手を色んな角度から確認する杏寿郎さんは真剣そのもの。
「本当に大丈夫ですよ。久しぶりに掛け声を聞いて驚いちゃいました。杏寿郎さんが食べたパンそんなに美味しかったですか?」
「このパン、さつまいもと言っても過言じゃない!」
 杏寿郎さんが手に持っている齧りかけはどう見てもパンなのに、さつまいもだと言いきるからそんなになのかな? もはやさつまいもならパンじゃなくて焼き芋でいいのでは? あれ? 今日買ったのは焼き芋じゃなくてパンだよね?
「気になるのでそのパン少しもらってもいいですか?」
「いいぞ」
 一欠片もらえると思っていたらそのまま齧れと言わんばかりにパンが目の前に差し出されることにデジャブを感じる。
「っ、……ふふ」
「どうした?」
「なんだか思い出しちゃいました」
「何をだ?」
「杏寿郎さんに初めてあーんってされた日」
「ああ、初めて二人で出かけたときか。懐かしいな」
 付き合い始める前――二人で瑠火さんの誕生日プレゼントを買いに行ったことがあって、その時もこうやって一口もらおうとした食べ物を差し出された。あのときは照れてしょうがなかったし、まあその後私もやり返したけどなんだか懐かしいな。
「遠慮なくいただきます」
 今でも照れはするけど好物を迷うことなく分けてくれる杏寿郎さんの優しさに甘えて一口貰う。
「本当にさつまいも――焼き芋みたい! すごい!」
「だろう! すごいなこれは。年が明けたらまた買いに行かなくては」
 見た目はパン、味は焼き芋。
 こんなに焼き芋の味ならパンでなくてもいいのではなんて細かいことを考えるの止めて咀嚼していると横で笑う気配がした。
「随分慣れたな。初めてのときは渋っていたのに」
「それはそうですよ。あのときは店の中だったし、それに私たちまだ付き合ってなかったんですから」
 さつまいもパンはあっという間に杏寿郎さんの胃の中に吸い込まれてもうない。杏寿郎さんは休むことなく次のパンに手を伸ばしながら、私から切り出したあの日のことを懐かしみ始める。
「……あの日も色々あったな」
 出先で会った杏寿郎さんの知り合いに勝手に勘違いして一人で帰ろうとした私。
 今回のお見合いの件も私は確かめることもせず勝手に別れるなんて考えて逃げてしまって本当に変わってない。
「なんかあの時から私成長してないですね……。一人で勝手に勘違いして」
「他人の気持ちや状況を考え先回りして行動しようとするのは悪いことじゃない。むしろ心根が優しい証拠だろう」
「うーん……」
「それでも何も言わずに一人で突っ走り気味なのはナマエの悪いところだな!」
「むぐっ!?」
 そして杏寿郎さんも相変わらずだ。今もしっかりと言葉で優しく諭して――と思ったけど上げて落とす言葉とともにパンを口に押し付けられた。
「俺はあの日は楽しかったんだ。ナマエが今でもあのキーホルダーを持っていてくれるしな!」
「私も楽しかったです。バッグチャームは瑠火さんとお揃いだし……何より杏寿郎さんから貰ったんですもん」
 あの日は初めて杏寿郎さんの運転する車に乗って、初めて手を繋いで、初めてあーんってして……。帰りの別れ間際に瑠火さんと用途違いの桔梗の七宝焼のバッグチャームを貰った。
「おいし……」
 食べるって大事なことだよね、なんて改めて思う。
 押し付けられたパンの美味しさに落ちかけたテンションは簡単にあがる。
「あれ以来あの場所に行ってないからまた今度行こうか」
「さつまいも専門店、新メニューあるといいですね!」
「あとで調べよう!」
 来年の話をすると鬼が笑うって言うけど別に笑われたって構わない。だってこんなに楽しそうな杏寿郎さんの笑顔が見れるんだもん。
 何を食べても美味しいかまどベーカリーのパンを頬張り、乾いた喉を潤すためにお茶を飲んでいたら大事なことを思い出した。
 来年の話をするのもいいけどそれよりもっと直近の話をしていない。
「杏寿郎さん、明日――年越しはどうするんですか?」
「む?」
「そういえば話してないし聞いてなかったなって。年越しは実家で過ごすんですか?」
「む?」
「……ん?」
 あれ? もう話してたっけ? もしかして私聞き逃してる? 微妙な沈黙の中で記憶を掘り起こすけど出てこない。
「いや、すまない! ここ数日足早に色々あってちゃんと話していなかった! 一緒に年越しがしたい、というかしよう!」
「実家は?」
「……実家にはもうナマエと過ごすから年が明けたら挨拶に行くと伝えている」
 さっき私が言われた言葉――一人で突っ走るくだりがそのまま杏寿郎さんにブーメランで刺さったのが見えた。
 なんなら突っ走りっぷりは私より規模が大きい。
「ナマエに言ったそばから俺に倍以上になって戻ってきてしまった」
「杏寿郎さんも私に負けずあわてんぼうですねー」
 あはは、なんて笑う私と反対に杏寿郎さんはバツの悪そうに今日の分のパンを勢いよく食べる。
「そうしたら明日は近くのスーパーで年越しそば買いましょう。二人分」
「そうだな。あとは折角だし初詣に……いや、近場だと生徒がいてゆっくりできなさそうだな」
「じゃあ家でゆっくり年越しして、松の内のどこかで行きましょうか」
「うーむ……」
「どうしたんですか?」
「やはり年越しで初詣に出掛けよう」
「じゃああまり知り合いに出くわさないようちょっと遠出します?」
「近場だ! そこで生徒に会ったら言う。ナマエが俺の彼女で結婚する相手だと!」
「……」
 今日かまどベーカリーでされた会話がまた繰り返されるの? 年を跨いで? しかも今日より人が多い中で? 流石にそれを大丈夫と言えるほどメンタルは強くない。
「えーと、そうですね。眠くなかったら行きましょうか」
 一年の締めくくりに難易度高めのミッションができてしまった。
 明日の夜はどうにか杏寿郎さんを眠くしなければ。あ、でも年が変わる瞬間は起きていたいな。
 出かける前にお酒飲んで二人きりで静かに年越ししたいとか言えば大丈夫な気もするし、明日のことはまた明日考えればいいや。
 お酒は何が残っていたっけ? 明日の買い物のときに多めに買っておこうかな。
 残りのパンを食べながら私の頭の中はもうお酒を飲むことで埋まり始めていた。

* * *

 のんびり起きた翌日のブランチは昨日の夜と同じようにかまどベーカリーのパン。
 昨日食べるのを我慢したねずこちゃん考案というキッシュは少しだけ温めれば一晩経ってもおいしい。
 杏寿郎さんに掃除を手伝ってもらったり洗濯をして、それぞれ好きなことをしながらたまに二人でぼんやりして。今年最後の日は時間がゆっくり進む。
 そろそろ買い物に行こうと準備を始めてマフラーを巻こうとしたら杏寿郎さんが私の前に立った。
「……」
「どうしました?」
「ナマエはこっちだ」
 杏寿郎さんが私にマフラーをぐるぐると巻いてくれるけどそれは私のじゃなくて……。
「これ、杏寿郎さんのマフラー」
「蒸し返したいわけじゃないが理由の有無に関係なくこういったことはナマエにだけしたい」
 私が杏寿郎さんのマフラーを巻きたいって言ったの覚えててくれたんだ。
 だけどそれは他の人に貸さないでっていう私の嫉妬が原因だし、嬉しいけど素直にありがとうが言えない。
「すみません、あのとき言ったのは私の我儘なので……」
「謝らないでくれ。これは俺の我儘でもある。自己欺瞞でするのはナマエにだけだ。神ではなくナマエに誓う」
 その言葉だけでマフラーもコートもいらなくなるくらい顔が熱くなって、これから買い物に行こうっていうときなのに杏寿郎さんに抱き着きたくなる。
 そんな思いを振り払うようにぐるぐるに巻かれたマフラーに慌てて顔を隠すと、おろしたばかりの新品の匂いに混ざって杏寿郎さんの匂いがふわりとした。
 ……我儘で申し訳ない気持ちもあるけど嬉しいという喜びが勝ってしまう。
 昨日会ったとき「寒くないか?」なんて聞いてきたのはいつ巻こうかタイミングを伺ってたのかな。そうだったらいいな。
 目を閉じて杏寿郎さん自身に包まれているような感覚を堪能しているとマフラーをズラされて隠した顔を正面から見てきた。
 目を合わせながら、親指で唇を掠められたと思ったら指の背で頬を優しく撫でてくるから猫みたいに自分からも擦り付けてしまう。
 こうやって撫でられるの、好きだな。
「……そんな顔をされると出かけるのを止めたくなるな」
 言葉は困っているのに顔は全然困った様子のない杏寿郎さんに誘導されている気がしてならない。でも悪い気には全然ならない。
「んぐぐぐぐっ」
「ははは。どうした?」
「夕方! 買い物は夕方に行きましょう!」
「夕方でいいのか?」
 言葉だけは仕方がない風を装っても行動が一致しない私はマフラーを巻き直そうとする杏寿郎さんを邪魔するように抱き着いた。
 夕食の買い物する時間なんてたいしたこと長さでもないのに、それすら惜しんでくっついていたいなんて子どもみたいなことは直接言えなくて精一杯の提案をしてみる。
「それまでは外に出ないで……昼寝……しませんか?」
「年の終わりに昼寝ができるなんて贅沢でいいな」
 抱き着いた私の後頭部を軽く叩きながら提案に乗ってくれた杏寿郎さんも満更ではなさそう。これはもう決まりだ。
 洗濯物は夕方買い物に行く前に取り込めばいいや。スマホの目覚ましは何時にセットしようかな。
 せっかく巻いてくれた杏寿郎さんのマフラーを解くのが勿体なくてマフラーを巻いたままコートを脱ぐ。なんならこのまま昼寝したいくらい。
「……眠れるといいがな」
「え? 何か言いました?」
「ん? なんでもない」
 マフラーの匂いを堪能して言葉を聞き逃した私に、杏寿郎さんは含み笑いをするだけだった。

* * *

 スマホが枕元で震えてる。
 薄暗い部屋で布団から腕を出し伸ばしたら私以外の――杏寿郎さんの腕が重なり、手首から手の甲にかけて撫でられた。
 ゆっくり杏寿郎さんに撫でられる速度に反比例してぼんやりした頭が急速に覚めていく。
 ダメ押しとばかりに指がキュッと握られて心臓が掴まれたんじゃないかと思うくらい。そんなドキドキを紛らわすように握られた指を握り返す。
 杏寿郎さんの指って私と全然違うな。
 はっきり分かる指の節は硬くてゴツゴツしてる……男性なんだし当たり前か。
 暗くてもこの距離ならはっきり見える爪は短く切り揃えられてて――。ってそこまで考えて顔の熱が一気に上がった。
「ゆっくり眠れたか?」
「……たくさん、ではないけどぐっすり寝ました」
「それは何よりだ」
 昼寝はした。したけどもすぐに寝たわじゃない。
 今目に映る指と熱が私の心と身体を翻弄して、半ば意識を手放すように眠りに落ちたところまで覚えている。
 それをようやく思い出すと色々気になることも出てきた。
「服、着せてくれたんですか?」
「雑ですまない。年末年始に限らずだが風邪を引かせるわけにはいかないからな」
 コトが全部終わってそのまま寝たから裸だと思っていたけど杏寿郎さんが頑張ってくれたみたい。大変な作業をさせてしまったな。
「すみませ……、ありがとうございます」
「どういたしまして、だ」
 杏寿郎さんの静かな声と熱を背中に感じながら握っていた指に力を入れる。杏寿郎さんも指を絡めてきて、軽く爪を立てたり擽ったり。
「ふふ」
「はは」
 顔を合わせないまま指だけの戯れが楽しいけどそろそろ起きて買い物に行かないと。それなのに杏寿郎さんの指が深く絡みだして離れてくれない。
「っん――、杏寿郎さん、そろそろ買い物に行かないと……」
「そうなんだがこのまま年を越してしまいたい気持ちもあるんだ」
 背中に感じる熱がさらにくっついて隙間がなくなっていく。
 うなじに熱い息が吐かれて小さなリップ音が耳に届くけど、それに紛れて他の音がしたからドキドキする以上に笑ってしまった。
「……お腹が鳴ってますよ?」
「よもや! 聞こえてしまったか!」
「体は正直ですね」
「俺の腹は雰囲気というものを全く分かってくれん!」
 妖しげな雰囲気が鳴りを潜め、笑いながら起き上がる。
「軽くシャワー浴びてきます」
「ああ、行っておいで」
 汗を流すだけで手早くシャワーを終わらせ、私と入れ違いでシャワーを浴びに行く杏寿郎さんを見送る。
 杏寿郎さんのお腹の主張はタイミングとしては最高だたったな。口から出た言葉も、お腹の音さえも隠さず全身で本音を伝えてくる杏寿郎さん。
 杏寿郎さんのお腹の主張を思い出し笑いしながら支度をしていたらベッドに放置したままのスマホが震える。
 止まることなく震えているからメッセージとかじゃない。
 アラームはちゃんと止めたはずだから電話かな。流石に会社からじゃないよねなんて思いながら確認する。
「お母さん?」
 年末の挨拶? いや、昨日メッセージでそんなやり取りはしたよね?
 杏寿郎さんもまだ戻って来る気配ないし電話を済ませてしまおう。支度はほぼ終わっているからベッドに座りながら通話ボタンをタップした。
「もしもーし、どうしたの? 今? 家にいるけど……え?」
 なにか小包でも送ってくれたのかななんて気楽に考えていたのに予想外の話に座ったばかりの腰が上がった。
「え、待って! なんで!? 今から!? 待って待っ……、あー切れたー!」
 どうやら私に拒否権はないようで伝えることだけ言われてすぐに終わった通話。黒い画面のスマホに向かって何を言ってももう自分の意見が伝えられない。
 ため息をついているとちょうど戻ってきた杏寿郎さんがなにごとだ? って顔をしてる。
「どうした?」
 さてどうしよう。
 このあとの予定を組み立て直すのは私一人だけでは時間もアイデアも足りない。
 どうした? ってもう一度聞いてくれた杏寿郎さんに簡潔に伝えることにした。
「うちの親が今うちに向かっているみたいです」

2023/11/22:初出