弐
蘭丸は目を開けた。畳部屋に一人、眠っていた。蘭丸に与えられた個室だ。
「う…」
起き上がると、微かに下半身が痛む。久し振りに精を放ち、繋がったせいだ。蘭丸は先程の状況を思い出し、再び顔や体が熱くなるのを感じた。
ゆっくり立つと、着せられた寝間着が肩からずり落ちた。
(これ…、信長様の…?)
寝間着は、丈も幅も余っていた。信長が着せてくれたのだろうか。
どうやらまた、自分が先に堕ちてしまったらしい。枕元に蘭丸の服が綺麗に畳まれてある。
「兄上、目覚めたのですね」
着替えていると、小姓の後輩でもある弟の力丸がやってきた。
「のぼせて、お館様に運ばれて来たんですよ」
「信長様に…?」
「はい。兄上だから許されたのでしょうけど、驚きました」
「…何とご無礼を…」
蘭丸は髪も結ばず、部屋を出ようとしたが、力丸がそれを止めた。
「今、お館様は奥方様と一緒です」
「あ…」
「お詫び入れはまた後にした方が」
「そう、か」
「兄上、もう夕餉の時刻ですよ」
「まだ、仕事が残っているから、後にするよ」
「お持ちしましょうか?」
蘭丸は顔を横に振る。
「今はいい」
「承知しました」
力丸は部屋を出て行った。蘭丸は布団を畳み、大きな寝間着を抱き締めた。今、この持ち主は、あの妖艶な妻を抱いているのだろう。それは悲しいことではない。信長は、妻を心から愛している。時折冷たい眼差しを向けられることもあるが、聡明で尊敬に値する人物でもある。ただ、二人が同じ世界を分かち合い、共鳴していることが、不思議だった。
「今度、話してみよう、奥方様に…」
きっと、自分の青さに笑うかも知れない。いや、もしかすると、共感するかも知れない。立場は違えど、信長を愛する者としての気持ちを。
「そうしよう」
一人ごち、蘭丸は大切な寝間着を畳んだ。髪を結い上げ、机に向かう。たまった仕事を片付けなければ。
「ふぅ…」
筆を置き、伸びをした。どれほど机に向かっていただろうか。気がつけば、窓から月が空高く昇っている。
「今日は此処までにしておこう」
蘭丸は机周りを整理して、窓辺に座り込んだ。
もう、皆眠っている頃合だろう。部屋は静まり返り、外は虫の鳴き声がした。蘭丸は、窓枠に寄りかかり、月を見上げた。
ここのところ忙しなく、こうして一人で月見をする暇もなかった。月明かりは優しく蘭丸を照らした。
蘭丸が静けさに寄り添っていると、不規則な音がそれを遮った。蘭丸は顔を上げる。
「馬…?」
馬の嘶きと、蹄の音が聞こえた。人数はどれぐらいだろうか。その音は、確実に近付いている。
蘭丸は部屋を出て、階段を駆け上った。上の階の廊下から身を乗り出し、門の外を覗き込む。
「光秀様…?」
松明の灯りと、照らされる水色の旗が見えた。こんな夜更けに、大軍を連れて何用だろうか。
「………」
胸騒ぎがする。明智光秀は、蘭丸が心から尊敬する織田家家臣の一人である。そんな光秀が…。蘭丸は膝を窓枠にかけ、もっと身を乗り出し、旗印を確認した。
「お蘭」
「わあ!?」
思いがけず声をかけられ、驚いた蘭丸は窓枠から落ちそうになった。振り返ると、声の主が背後にいる。
「信長様…」
信長が蘭丸の隣に手を掛け、外を見下ろした。
「お蘭…、見えるか?」
「…明智様の、旗印にございます…」
「ほう、光秀が…」
「急ぎのご報告がおありかと思います」
蘭丸は一縷の望みを口にした。窓枠から降りるのも忘れて、主を見下ろしながら。だが、報告などで軍勢を率いてくるのは、あまりにも不自然だった。蘭丸は必死に理由を探す。
「若しくは、出陣前に御挨拶にいらしたのかも知れません、光秀様は、実直な方ですから…」
そうだ、蘭丸が知っている明智光秀は、信長の忠実な家臣なのだ。不安になることはない。蘭丸は縋るように信長を見下ろした。しかし、信長は何も答えない。
「お蘭」
信長は蘭丸を支えながら、窓枠から下ろした。
「ご無礼を…!」
主を高い位置から見下ろしたことに気付き、蘭丸は体を低くして跪いた。信長はくいっと顎で外を指した。
響き渡ったのは、兵士たちの掛け声と、大きな爆撃の音。
「!」
蘭丸は窓の外に目をやった。大軍が門を押し開き、突き進んでいる。
「光秀様…、謀叛を…?」
見間違いではない。旗にある紋様は、紛れもなく桔梗。
「…是非もなし」
信長の声は、極めて冷静だった。
「信長様…!」
見上げた主の顔は、笑っていた。
「お蘭、この場をどう切り抜ける?」
「皆を、起こして参ります」
「ほう、切り抜けられるか?」
「はい。この敷地の広さなら、敵が辿り着くまでまだ間があります。蘭が時間を稼ぎますから、その隙に西へ周りお逃げ下さい」
「逃れられるか?」
「はい。中央広場まで行けば、撒けるかと」
確証はない。この軍が、如何なる数かも分からない。だが、迷っている暇はないのだ。
「信長様…」
惜しむように蘭丸は信長に抱き付いた。もう、この胸の中に戻ることはないかも知れない。
「どうか、蘭の意志を通させて下さい。蘭は、信長様の天下を信じております」
信長が抱き返すより先に、蘭丸は身を離した。
「ありったけの武器を集めて、力に持たせます。信長様、ご武運を…!」
蘭丸は頭を下げてから、その場を離れた。
一番恐れていたことが起こった。光秀の裏切りではない。
蘭丸は気付いていた。信長は、自分が取る天下への執着を失い始めていた。そして、この状況を楽しんでいることを。分かっていても、蘭丸は信長の天下を見たい。仕えた時から、信長に尽くすことを決めたのだ。例えそれを、主が望んでいなくても。
(どうか、命を投じないで下さいませ…)
信長から離れた途端、涙が零れた。
「兄上!」
「蘭丸殿…!」
階段を駆け降りると、弟や小姓仲間がただならぬざわめきに気付き、不安に顔を曇らせていた。殆どの者が寝間着姿だ。蘭丸は迅速に指示を出す。
「今、明智の軍が攻撃を仕掛けようとしています。皆で、お館様をお守りましょう」
明智殿が、と数名が戸惑いを口にした。しかし、それにわざわざ答える暇もない。
「力丸、梅乃助殿と若千代殿と共に、武器庫に行ってきてください。持てるだけの武器を集めてきてください」
「はい、兄上」
「かしこまりました」
蘭丸は従う三名を目で追わず、一番幼い小姓二人に目を向ける。
「一郎太と清麿は、一階の北部屋に行きなさい。皆を匿って下さい」
「はい!」
清麿は返事をしたが、一郎太は返事をしない。一階の北の部屋は、女中数名の寝床だった。光秀が、幼い子供や、女を殺すことはないだろうと考えてのことだった。
「一郎太?」
「我も、戦いまする!」
「一郎太…。女の方を守るのも大事な役目。分かるね?」
「……」
「この役目、私や皆では駄目なんだ。一郎太でなければ、女性をお守りすることは出来ない」
「蘭丸殿…」
幼い一郎太の大きな瞳から、涙が零れた。
「死なないで下さいませ」
蘭丸は頷いた。
「さあ、走って!早く!」
清麿が手を引き、一郎太は走って行った。心を揺るがしてる暇はない。
「鶴千代殿は、火付けを頼みます」
「此処を焼くのですか!?」
「信長様を守る為です。鶴千代殿は本堂と、東門へ行って下さい」
「はい!」
残りの者が蘭丸の指示を待っている。蘭丸は、一つ下の弟の坊丸に視線を送る。
「残りの者は、存分にその力量を発揮して下さい!命を惜しまず、悔やむことなく、敵に立ち向かって下さい!織田の方々を、お館様を、皆で守りましょう!」
蘭丸の声に応えた、年若い少年たちの声がこだまする。殆どの少年が、戦を経験したことがない。最早、死ねと言っているようなものだ。しかし、後戻りは出来ない。皆は、信長の為に仕えているのだ。
力丸らが武器を持ってやってきた。皆が、それぞれ武器を選んでいる。
「力丸、これを持って、三階の渡り廊下へ行って下さい。お館様がお待ちしております」
「はい、兄上は…?」
「私は、火を放ち、時間を稼ぎます」
「兄上!」
坊丸が濡れた瞳で蘭丸を見つめ、刀を差し出す。
「…ご武運を」
信長から賜った愛刀、不動行光。他の者が使えぬよう、身の丈を越す長さに設えてある、蘭丸だけの愛刀。蘭丸は受け取り、二人の弟を抱き寄せた。今生の別れを覚悟した抱擁であった。
「有難う、坊も力も…、共に、信長様を守ろう」
「はい!」
蘭丸は身を離し、背を向けて走った。
裏庭に出て、油を撒き、火を放った。燃え広がると、煙が立ち込める。
「いたぞー!」
敵の兵士に見つかった。蘭丸は、炎の奥へ逃げた。
鶴千代が上手くやってくれたのだろう、炎は燃え広がり、辺りには煙が充満している。
「宝物庫…」
本能寺の宝物庫は、敷地の最奥の離れにある。他の者に見つからないよう、小さな隠し通路で繋がっていた。しかし、この状況ではいずれ見つかる。蘭丸は、身をかがめて、煙を避けながら宝物庫へ向かった。
宝物庫には誰もいなかった。蘭丸は急いで油を撒く。
「…あ」
厳重に縛られた桐の箱が目に入る。信長の大切な香炉だ。
(信長様…)
自分は今日ここで命を落とすだろう。信長にもう会えないならば、せめて信長の大切なものを持っていたい。蘭丸は箱を開け、香炉を大切に抱える。微かに香りが残っていた。信長の好きな香り。蘭丸も、この香りが好きだった。
「信長様…、最後のご無礼を、お許し下さい」
香炉を懐に隠し、立ち上がる。
火を放とうとした時、みしりと軋む物音がした。蘭丸は見上げる。瞬間、顔面に強い衝撃があった。
……。
突然のことで、何があったか分からない。勢いにより体は床に叩きつけられ、耳もあまり利かない。
どうやら見つかったらしい。何て不甲斐ないだろう。蘭丸は、遠のく意識の中、主の無事を願った。
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