妄想、愉悦。





  

 朝、蘭丸は鳥たちの囀りで目が覚めた。いつの間にか眠っていたらしい。体には布団代わりに長襦袢が掛けられていた。
 目が痛い。一人になってからも、絶え間なく泣き続けたからだ。

(信長様…、坊、力、皆…)

 枯れた筈の涙腺から、また涙が垂れた。何故、自分は生きているのだろうか。もう、いっそ死んでしまいたい。しかし、舌を噛む気力さえない。

「まだ泣いてるだか」

 いつもの百姓三人が揃ってやってきた。しかし、蘭丸の心はさほど揺れなかった。ただ、悲しみに打ちひしがれていた。

「泣くな。可愛い顔が台無しだど」

 田子作は蘭丸の涙を拭う。一人がはやし立てた。

「泣かせてる本人が言うな」
 田子作は気にせず、昨日のように蘭丸の体を拭き始めた。

「綺麗になっただ」

 拭き終えると、田子作は襦袢で蘭丸の体を包んで、髪をそっと撫でた。

「握り飯、持ってきただ。食え」

 蘭丸は返事をしなかった。田子作は、葉の包みを開き、蘭丸の傍に置いた。

「腹減ったら、食え。おらはもう行くだ。おめえたちも、行くど」

「おらたち、今日は街まで行くだ」

「田子作は先行っててくれ。分け前は渡すだ」

「分かっただ。昼前には戻れ。長にばれるだ」

「ああ」

 田子作が出て行った後、二人の男は衝立の前で何やら話し合っていた。

「今日は何を質に持っていくだ?」

「そうだな、その壺にするだ」

「あと、これはどうだ?」

「これもいいな」

 男は、蘭丸に歩み寄り、髪を引っ張り、顔を持ち上げた。

「お嬢ちゃん、おめえの着物は、すすだらけで大した額になんなかっただ」

「…?」

「これ、良いな」

 男は蘭丸の結紐を掴み、しゅるりと髪を解く。

「これは上等な飾り紐だ!見ろ」

「ああ、金になる」

 紐は金糸を使われていた。飴のような綺麗な飾り玉がついている。

「…返せ!」

 蘭丸は人が変わったように声を張り上げた。男は、一瞬たじろきながらも、楽しそうに笑った。

「髪、下ろしても可愛いだ。おめえには必要ねえ」

 蘭丸の艶やかな髪を撫でる。もう一人が歩み寄り、蘭丸に顔を近付けた。

「おめえ、ほんとにおなごみてえだな」

「煩い!返せ!」

「駄目だ。おらたちはな、おめえと違って、そりゃあ、貧乏なんだ。売った金で、お前に似合う髪飾り買ってやる」

 微かに甘い香りが漂った。懐かしい匂い。男は手に香炉を持っていた。蘭丸が密かに懐にしまった、信長の宝。

「それは…!」

「これか?お前が持ってた奴だ」

「返せ!それは、信長様の…」

「信長はもう死んだ。だからおらが貰う」

「ふざけるな!」

「返して下さい、だ」

「……!」

「どうしただ?」

 蘭丸は唇を噛んだ。怒りと悔しさを鎮め、口を開く。

「返して下さい…、紐は差し上げますから」

「そんなに大事か?」

 蘭丸は頷く。

「よし。じゃあ、上手くやれ」

 男は服を脱ぎ、蘭丸の前に晒した。何の反応もなく、だらりと垂れ下がっている。

「やらないのか?」

 男は髪を掴んで蘭丸の首を引き寄せた。
 蘭丸は、ゆっくり舐めた。愛してもいない、ただただ軽蔑している男のものを、口に含み、促す。

(信長様は、こんな姿を見たら、きっと軽蔑なさる)

 抗い続けて、殺された方が良かった。

「最高だ…」

 男は蘭丸の顔を掴み、体液を送り込んだ。酷い味だ。

「飲め。全部だ」

 蘭丸は従った。全て啜り、口から離すと、男のものは最初と同様に垂れ下がった。

「お願いします、それを」

 蘭丸が請うと、男は手に持った香炉を床に叩き付けた。陶器の香炉は蘭丸の眼前で砕け散った。
 蘭丸はただ細かい破片を見つめていた。次第に大きな瞳が涙で濡れて、綺麗な顔を歪めて嗚咽を漏らした。
 男は、その様を見て、僅かに罪悪感を抱いた。小さな子供を苛めたような気分になった。

「悪い、手が滑っただ」

 男は泣き続ける蘭丸を置いて、連れと沃さと逃げた。

「信長様…、ごめんなさい…」

 蘭丸は香炉を持ち出したことを激しく後悔した。自分の勝手な行動のせいで、あんな輩に大事な宝を壊されてしまった。
 蘭丸がさめざめ泣き続けていると、ふわりと甘い香りが鼻孔をくすぐり、柔らかな風が蘭丸の額に掛かる前髪を撫でた。殆ど閉め切った室内で、だ。

「……信長様?」

 何故、信長の名前を呼んだのかは自分でも分からない。
 蘭丸は香炉の破片をもう一度見詰めた。一番大きな欠片は鋭利な角度で刃先のように先端が薄くなっている。

「……信長様が、好機を与えて下さったのか…」

 出来るかも知れない。蘭丸はゆっくりと破片の傍で寝転がって、大きな破片を拾った。

「痛…!」

 掌を斬ったようだ。これほど鋭いなら、硬い縄も切れる。蘭丸は慎重に、手首の拘束へ欠片をあてがった。確かに手応えがある。蘭丸は縄を削った。

「うっ…」

 汗で滑って、柔らかい皮膚を傷付けた。痛い。蘭丸はもう一度縄に欠片を当てる。ぎりぎりと鋸のように前後に動かしていると、何重にも巻かれた縄の一本が切れた。

「やった」

 少し緩みが出来て、刃が当てやすくなった。乱れないように集中して、刃先を当てた。

「ふぅ…」

 はらりと縄が落ち、蘭丸の手首が解放された。手は傷だらけ、締められた箇所は縄の跡が残っている。

「信長様…」

 蘭丸は傷が出来ないよう欠片を両手で包み込んだ。微かにまだ芳香が残っている。優しく、甘い香り。しかし、浸っている場合ではない。一刻も早く、逃げなければ。蘭丸は足首の縄を自由になった手で解く。

 蘭丸は長襦袢を着て、帯の替わりに縄で腰を結んだ。
 蘭丸は気になっていた衝立の向こうを覗いた。被せてある白い布を剥がす。箱や、筒、包み用の布が散らばっている。どれも見たことがあるものばかりだった。

「これは…」

 蘭丸は桐の箱を手に取り、蓋を開けた。微かに香りが残っている。

「やはり、信長様の香炉の残り香…」

 宝物庫で自分が開けた箱だ。それでは他のものも?蘭丸は他の箱や包みを開けた。

「これは、茶器の箱…。この筒は、掛け軸の…、この包みは…」

 中身は全て空だった。蘭丸は思い出した。宝物庫で火を放った時、何者かに打たれた。そして、気付いたら此処にいた。

「奴らは私を助けた訳ではないのか」

 騒動に乗じ、宝物庫に忍び、蘭丸の意識を奪い盗みを働いた。怒りで体が震えた。何て下賤な連中だろうか。結果的に命が助かったとしても、許すべきではない。
 しかし、今最も優先すべきことはこの場を離れ、逃げることだ。蘭丸は香炉の欠片だけをしまう。

「信長様、蘭をお守り下さい…」

 蘭丸は中身のない包みに布を被せた。

 戸は鍵が掛かっていて開かない。蘭丸は小窓の枠にてをかけ、よじ登る。小さいが、細身の体なら何とかくぐれそうだ。

「よいしょ…」

 身軽な蘭丸でも、弱った体では脱出さえ重労働だったが、何とか建物から脱出出来た。

「ここは、寺?」

 建物の隣に、大きくはないが本堂らしき建造物がある。使われなくなって随分経っているようだった。柱や階段の木は腐り、塗装は剥げている。広い庭も雑草は野放しにされ、奥にある井戸も干上がっているようだった。
 蘭丸は門をくぐり、石段を降りる。階段の下は雑木林が続いている。きっと広い。此処が何処かも見当もつかないのに、大丈夫だろうか。
 蘭丸は不安を振り払うように前へ進んだ。どうなっても、戻るよりましだ。人気がある場所まで行こう。





「はあ、はあ…」

 どれほど歩いただろうか。蘭丸は、暑さと途轍もない疲労で意識が朦朧とし始めていた。
 すると、林の向こうに田畑や山間が見えた。

「絶壁だ…」

 林を抜けると、崖だった。崖の下には民家がある。人も住んでいるようだ。

「この高さなら、降りれる…」

 急ではあるが、なんとかなりそうだ。蘭丸は、腰をかがめて斜面を下る。

「痛ぁ!」

 足の裏に激痛が走る。蘭丸は足を滑らせ、尻餅を着いた。

「わ!」

 そのまま滑り落ちそうになり、横ばいに生えた木の枝を咄嗟に掴んだ。

「痛…」

 足の裏に木の枝が刺さっていた。蘭丸は枝を抜き取った。血がどくどくと流れる。
 体制を整えなくては。このまま着地しては怪我をしてしまう。しかし、足場もなく、不安定極まりない。上へ戻ろうかと迷っていると、人の気配がした。

(上…?枝を踏む音…)

 音は此方に近付いていた。

「あの、助けて下さい!」

 蘭丸は声を上げる。渇ききった喉から掠れた声が出た。

「何方か…」

 手がにゅっと出てきた。相手の顔は見えない。大きな手は蘭丸の手首を捉え、掴み上げ、軽々と蘭丸の体を引き上げた。

「!」

 もう片方の手が差し出され、相手の顔が見えた。蘭丸は手を払いのける。

「あぶねえ!」

「触るな!」

 蘭丸は、体を引き離す。そのまま、斜面を転げ落ちていった。
 岩や枝が当たり、白い肌を傷付け、固い地面に打ち付けられた。

「う…」

 体が動かない。

(蘭はこのまま…)

 だが、それでいい。彼処に戻るくらいなら、このまま命果てた方がいい。

「の、ぶながさ…」

 声が出ない。

(信長様、申し訳ありません…)

 蘭丸は、意識を落とした。手を払った主が、追いかけてくるとも知らずに。





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