弐拾弐
「源太郎、起きて、起きてよ!」
体は薬を飲まされた時のように重く、目覚めたのは頬が腫れる程に打たれた後だった。
殆ど半裸状態の志津が、薄汚れた顔で泣き叫んでいた。志津の体は赤黒く汚れていた。傍らにあるはずの温もりが、ない。
四半刻程走った先にある養生所に蘭丸はいた。昨夜、激しく抱いた蘭丸は変わり果てていた。血の気の失せた肌、微動だにしない体、包帯からは血が滲んでいた。
源太郎は、頭が真っ白になった。
養生所の主である老年の医者は、志津の適切な応急処置のお陰で、一命を取り留めたと言った。しかし、蘭丸は目覚める気配がない。
二日が経ち、泊まり込んで看病した源太郎は蘭丸が目覚めるまで、養生所で厄介になることになった。
源太郎は、付きっきりで看病をした。毎朝体を拭いて、一日二回水薬を飲ませ、手を握って四方山に語り続けた。志津も仕事の合間を縫って来ては、作ったばかりの薬を飲ませ、包帯の替えを手伝った。
蘭丸が目覚めぬまま、四日経った。有り金が残りが半分になった。
養生所の医者が、近場の農民の農作業の手伝いをするように勧めた。源太郎は蘭丸を気にしながらも、朝早くから働きに出るようになった。僅かな賃金と、収穫した作物で、何とか治療費と宿泊費を凌いだ。
働き出してから三日が過ぎた日。仕事にも慣れ始め、いつものように夕方帰ると、蘭丸の隣に知らない女が布団も掛けずに畳で寝ていた。
女は源太郎の気配に気付いたのか、目覚めて起き上がる。
「お前、誰だ…?」
「あんたこそ」
妙齢のようだが、その声は子供のように幼い。眠そうに目を瞬かせる度に、音が鳴りそうなほど長い睫が重なり合う。
「おらは、お蘭の…」
「ああ、お兄さんか」
「…そうだ」
領主の城での件のことから、源太郎は素性を偽った。旅をする兄弟と皆に告げ、名も源太郎はげん、蘭丸は乱太郎と変えて名乗っていた。
女は立ち上がって歩み寄り、源太郎をまじまじと見詰めた。
「な、何だ?」
女は美しいかんばせをしていた。長く濃い睫に縁取られた切れ長の目と、薄い色合いの瞳。鷲鼻がかった高い鼻。ふっくらとした厚みのある唇は不思議な程に赤く、少し捲れているのが淫靡であった。それらを収めた、細面で瓜実のような輪郭。肩まで垂らした艶やかな髪の見慣れぬ赤茶色。蘭丸の魅力とは対照的で、それでいて美しかった。
源太郎は女の美しさに思わず息を飲んだ。女は源太郎を凝視しながら言った。
「似てない」
「へ?」
「乱太郎さんとちっとも似てない」
「あ、ああ…。おら、母親が違うだ」
源太郎は咄嗟に嘘を重ねる。
「ふうん…」
女は不躾に視線を送り続けた。
「お前こそ、誰だ」
「お前じゃない、菊だ。菊之助」
「お前、男か…?」
「そうだよ」
男と知って、源太郎は改めて菊之助を眺めた。女にしては骨格がしっかりして、首や肩も逞しい。しかし、体の線は男にしては凹凸があり、女のようにしなやかだった。
「あんまり見ないでよ」
菊之助は自分を棚に上げながら言う。
「お蘭の隣で何してた」
「別に。気持ちよさそうに眠ってたから眺めてただけ。そしたら、自分も寝ちゃって」
菊之助は欠伸をして襖を開けた。襖の向こうには布団が敷いてある。
「じゃあ寝るよ」
ぱたんと閉めた。
隣の部屋と言うことは、養生所の新しい患者だろうか。
「妙な奴…」
気持ちよさそう?青白く、窶れたこの姿を見て本当にそう思ったのだろうか。
「ただいま、お蘭。まだ寝てるだか?」
源太郎は蘭丸の手に触れた。もともと源太郎よりも華奢な手がここ数日で更に小さくなった気がする。
食事は唐八が用意する。唐八は養生所に助手として勤めている若者で、泊まり込みの病人の世話もした。源太郎は火を熾しながら唐八に菊之助のことを訊ねた。
「門の前で倒れてたのを、近所の人が運んで来たんです」
「あいつ、怪我してるだか?」
「いえ、疲労と空腹で。食料を与えたら元気になりましたけど…。でも、妙なんです」
「妙?」
「ええ。銭はあるから暫く置いて欲しいって言うんですよ。宿屋を勧めたら、何でも手伝うからお願いしますって」
「何でまた」
「さあ。人手不足だから、先生も喜んじゃって。早速手伝わせてましたよ」
「養生所ではおらは役に立たんしな。あいつ、役に立つんだかな?」
「はい。今日、あの美人、来なかったから、代わりに乱太郎君の包帯を替えて貰ったんですけど、上手でしたよ」
「…あいつが巻いただか?」
「ええ。手慣れてましたよ」
「…素性は?」
「内緒って言われたんですけどね…」
唐八が声を潜めた。
「唐八さん!」
背後で声がして、二人は肩を竦めた。
「ごめんね、おれ、寝ちゃってたから。手伝うよ」
菊之助が二人の間に割り込んだ。結局話の続きは聞けないままに、夕餉は三人で膳を並べた。
菊之助の作った煮豆は塩辛かった。明らかな失敗作に三人は米をひたすら口に押し込んだ。
翌日、外は大雨だった。此処へ来てからの初めての雨。源太郎は仕事を休んで唐八の朝食作りを手伝った。
「お蘭、今日はずっと一緒にいれるだ」
朝餉の後、源太郎は蘭丸に薬を飲ませる。薬草をすり潰し、水で溶いて蘭丸の口に少しずつ流し入れる。蘭丸の乾いた唇から緑の筋が垂れた。
源太郎は妹を思い出していた。日に日に弱って、痩せ細って食べ物も飲み物も受け付けなくなり、死んだ妹。
「お蘭、そろそろ起きてくれ…」
源太郎は、蘭丸の帷子を開き、包帯だけの蘭丸を抱き寄せ、口付けた。歯の間に舌をこじ入れると、苦い草の味がする。
「いつもは、ここで…」
今度は萎びた下肢を膨らみごと揉み込んだ。体は温かく、肌は柔らかいのに、表情や声はない。
源太郎は蘭丸を布団に寝かし、両脚を持ち上げた。ここ一週間、遣っていない窄まりはより無垢に見えた。源太郎は凝視し、脚を広げた。
「止めなさいよ!」
包帯を替えに来た志津が源太郎を制した。
源太郎は我に返る。
「お志津…」
「無抵抗の蘭ちゃんに、そんなことをしたら駄目よ。辱めることと一緒だわ」
「そげんことねえ。お蘭は、おらだけのものだ。お蘭だってそう言っただ。何をしようとおらの勝手だ」
「そうね、この子なら許してくれる。でも、そんなことをしたら、あんたは今以上に辛くなる」
源太郎は持ち上げた細い脚を下ろした。白い顔の蘭丸は相変わらず穏やかだった。
「そうだな」
志津は乱れた布団を掛けて、蘭丸の体を隠した。
「ごめんなさい、あたしがあの時、源太郎を薬草取りに誘ったりしなければ…」
「お志津…」
志津の心は源太郎以上に罪の意識に苛まれていた。志津の蘭丸に対する気持ちに気付いていた源太郎は、震える肩を抱き締めた。
(お蘭、まだ、寝ていたいか?おらも、お志津も、もう限界だ)
「うっ…」
源太郎は志津の肩に涙を落とした。蘭丸が眠ってから、初めての涙だった。
あと何日、日に日に痩せ衰えてゆく蘭丸を見守りながら、蘭丸を失うかも知れない恐怖と対峙しなければならないのだろうか。
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