弐拾肆
「蘭ちゃん…!?」
どれほどこうしていただろう、空が幾らか明るい。蘭丸は、女の声で我に返る。
「どうしたの!?」
いつものように介抱に来た志津が、蘭丸に駆け寄り、その体をそっと抱き起こした。
「志津殿…、ご無事で…」
久々に発せられた声は、弱々しく僅かに掠れていた。蘭丸は、痛々しい作り笑顔で志津を見上げた。
「良かった、目が覚めたのね…」
志津の涙がぽたりと蘭丸の頬に垂れた。志津は蘭丸を抱き寄せ、泣き出した。
蘭丸は、志津の肩越しに白い月を見上げた。
「うっ…」
蘭丸も、嗚咽を零していた。自分はこんな風に抱き締められたかった。なのに、源太郎は他の者に温もりを与えていた。蘭丸は、求めていたよりずっと細い背中にゆっくり左腕を回した。
「体が冷たい…。中に入りましょう?」
蘭丸は顔を横に振る。
「あの部屋には戻りたくありません」
「どうして?」
蘭丸は俯く。
「源太郎様が、隣の部屋で、女の方と…」
わあっと子供のように蘭丸は泣き出した。
「他の人と、どうしたの?」
「寝ていました…」
「寝ていたって…、してたの?」
蘭丸は濡れた睫を伏せた。
「とても、綺麗な方でした」
志津はその人物が菊之助だと察しがついた。女顔の綺麗な少年だった。
「仕方ないわ、源太郎も、耐えられなかったのよ」
志津は優しく蘭丸の頬を撫でた。
ここ数日間、生きた心地がしなかったのは志津も同じだった。
「その綺麗な人はね、男の子なのよ。源太郎は、あの子をあんたに見立てたんだわ。源太郎があんたをどれだけ好きだったか分かるでしょ?」
「…それでも、蘭は嫌です」
蘭。志津の前で自分をそう呼ぶなど、余程取り乱しているのだろう。志津は、蘭丸の薄い肩を握り、顔を向かせた。
「人は、過ちを犯すものよ。蘭ちゃんは、源太郎を嫌いになったの?」
「嫌いになど、なれるはずは…」
「そうね。好きだから、辛いのよね。でも、好きなら受け入れるべきよ。でなきゃ、本当に源太郎を失うわよ」
志津は蘭丸の涙を拭う。
自分が噛んだ志津の指の怪我が綺麗に治っているのを見て、蘭丸は自分が長い時間眠り続けていたことに気付いた。
「私は、どれだけ眠っていたのでしょう…」
「八日間よ」
「……そんなに…?」
自分が源太郎の立場だったら、どうしていただろうか。近くの温もりに縋ってしまっても、それは源太郎が弱いからではない。
思い詰めた表情の蘭丸の肩を、志津はぽんとたたいた。
「あたしも、源太郎も生きた心地しなかったわ。源太郎は、寝ているあんたと向き合う時間が長い分、もっと辛かったでしょうね」
「…申し訳ありません、取り乱してしまって。有難う御座います」
「いいのよ。さあ、戻りましょう。体を綺麗にして、着替えなきゃ」
「あの…、汚してしまって…」
蘭丸は頬を赤らめながら、帷子の中心を握った。
「まあ…。寝ている時に?」
志津が遠慮なく言うと、蘭丸は頷いた。
「元気になった証拠よ。あたしがこっそり洗ってあげる。替えを取ってくるから、待ってて」
志津がよいしょと立ち上がると、ばたばたと激しい足音が聞こえた。
走ってきたのは、もぬけの殻の布団を見て慌てた源太郎だった。
「お蘭!」
源太郎が縁側から飛び降りた。
「お蘭、目、覚めただな…」
源太郎は痩せ細った蘭丸を抱き、頬に手を当てた。涙を浮かべている。
蘭丸が戸惑いの面持ちでいると、源太郎は唇を塞いだ。
「んっ…」
温かい唇の感覚に気を取られないうちに、蘭丸は顔を離し、眉間に皺を寄せた。源太郎が昨夜、違う者の唇を吸っていたのを思い出してしまった。
「お戯れが過ぎます、場を弁えて下さい」
蘭丸はついと横を向く。
「悪かっただ…。でも、良かっただ。おら、お前がいなくなったら…」
源太郎が再び涙ぐむのを見ると蘭丸の目頭が熱くなった。
「…源太郎様…」
蘭丸は源太郎の胸に顔を埋めた。
「お会いしとうございました…。また、蘭をお側に置いて戴けますか?」
「何を言うだ、おらは、お前を離さないだ、絶対に」
欲しかった温もり。蘭丸は、広い背中に手を伸ばした。
影から見詰めている者がいるとも知らずに、喜びを噛みしめていた。
源太郎が蘭丸の体を拭きながら、今までの経緯を話した。ここは山の麓に近い町の養生所であること。志津が毎朝介抱しに来ていること、源太郎が朝から夕方まで出稼ぎに行っていること。そして、後回しにしていた菊之助のことを。
「お蘭、外にいたのは、その…、昨夜の、見たからだな?」
「はい」
「悪かっただ、おら…」
「いえ、ずっと眠っていた蘭がいけないのです。お寂しい思いをさせてしまい、申し訳ありません」
「何、言ってるだ、もっと怒っていいだ」
「源太郎様が謝ることでは…。私も、夢幻にて信長様にお会いしました」
「信長と…!?」
「はい。信長様は、蘭を一頻り抱いたあと、蘭を奈落に放り、落としました。そして、蘭は目覚めたのです。起きたら、帷子を汚していました」
「そうか…」
「私も、同じです。地獄に堕ち、源太郎様を失って、信長様に身を委ねました」
「地獄?」
「ええ。すぐ、分かりました。周りは暗くて、体が痛くて、一角にだけ、憩いの炎があって、其処だけは暖かくて、痛みもない」
源太郎が考えるように動きを止めた。口を開くと、意外な言葉が出る。
「お蘭、きっと、それは、地獄なんかじゃねえだ」
「何故に?」
「お蘭は突き落とされてこっちに戻って来た、なら、彷徨っていたのは天上だ」
現実味があるのかないのかよく分からない理屈であった。しかし、その答えは蘭丸の胸を締め付けた。
「源太郎様、信長様は、沢山の方を殺めたのですよ!例え、天下を統一するためとはいえ、罪なき者をも手に掛け、非道に…」
「ああ。だから、きっと天上で爪弾きにされただ。暗い、暗い夜の空に」
「……」
「おら、ただの百姓だから分かんねえけど、お蘭は、地獄に落とされる人間じゃないだ」
「…源太郎様、蘭は、信長様に従い、この手を血に染めました。罪なき人を手にかけたこともあります…。私も、堕ちる人間なのですよ?」
夜通し泣いた蘭丸の目尻は赤くなっていた。そこに再び雫が垂れる。
「なら、お蘭も暗い空にいっちまうだな」
源太郎は蘭丸の涙を拭い、顔を近付けた。
「でも、心配するな?おら、目がいいだよ。暗闇でも、お前をすぐに見つけるだ」
「源太郎様…!」
蘭丸は素肌のまま源太郎に抱き付いた。大粒の涙は蘭丸の頬を止め処なく濡らし続ける。
「蘭は、源太郎様と離れてしまうのが、怖かった…。信長様は、蘭の気持ちを受け止めて下さって…!」
「もう泣くな。泣いてたら信長が心配するど。信長は、お蘭を助けてくれた。きっと、今も空からお蘭を見ているだ」
「は、はい…」
「お蘭を見ていれば、信長がどれだけお蘭を大切にしていたか分かるだよ。離れるのは、辛かったはずだ。だが、お蘭は此処にいる。信長が、おらにお蘭を託してくれたって、思っていいか?」
蘭丸は言葉の代わりに、源太郎の着物をぎゅっと握った。涙はまだ止まっていない。
「誓うだ、おらは、お前を幸せにするだ」
源太郎は蘭丸の体を離し、手拭いで涙で濡れた蘭丸の顔を拭いた。
「ほら、体、拭くど」
「はい」
源太郎はそっと剥き出しの胸に手を伸ばす。突起を濡れた布巾で掠めた。蘭丸の体がぴくりと動く。
「お蘭、じっとしてるだ」
「はい…。あっ」
今度は脇腹に手を伸ばす。
「そこは、自分で…、あぐうっ」
蘭丸は体をうねらせた。
「どうした、痛むか?」
「は、はい…」
「大丈夫か?」
「いえ、さ、触らないで下さいっ」
源太郎が手を伸ばすと、蘭丸が肌を隠すように身を抱き、膝を曲げた。
「すみません、体が、久々に目覚めて、敏感になっているので…。触れられると、体に力が入ってしまって、傷が…」
源太郎が呆けた顔で蘭丸を見ていた。腕の隙間から、薄紅色の乳首が覗いている。
「悪かっただ」
源太郎は後ろを向いた。
「あの、怒っておいででしょうか?」
「怒ってないだ。おら、もう時間だから行くだ。唐八に、拭いて貰え」
「はい。あの…」
「何だ?」
「もう一度、抱いて下さいますか?きっと、源太郎様が帰られるまで、蘭にとって長い一日になると思います。残しておきたいのです、源太郎様の温もりを…」
「わ、分かっただ」
源太郎は蘭丸の体を包み込む。この数日間で、随分痩せてしまった。力を込めると折れてしまいそうな程に細い。栄養不足が祟ってか、皮膚はいくらか乾燥している。
体を離そうとした時に、蘭丸が源太郎に口付けた。触れ合わせるだけの、淡白な口付け。離すと、蘭丸は照れ臭そうに微笑んだ。
「行ってらっしゃいませ」
「ああ、夕方には戻る。大人しくしてるだ」
源太郎はそそくさと出ると、そのまま走り去ってしまった。
(まずいだ、おら…)
井戸端まで行って、周りに人がいないか確認する。もぞもぞと下衣と下帯を解く。
「はああ…」
源太郎の愚息は、天を向き先端を濡らしていた。
蘭丸の傷が癒えるまでは、暫く己と戦わなければならない。目覚めた蘭丸は源太郎を掻き立てるだろう。しかし、強く求めては傷に障る。
「参っただ…」
暫くは自分でどうにかするしかない。源太郎は手をかけて自身を扱いた。閉じた瞼に浮かべる蘭丸の姿は、愛らしく淫らであった。
白濁は高く飛び、石畳を汚した。
源太郎は井戸水を汲んで、白濁を流した。
「ふぅっ…」
桶を置いて空を見上げた。秋晴れの真っ青な空。
「お蘭を助けて下さって有難うございますだ」
そう告げて、源太郎は荷物を持って、歩き出した。
「げんさん!」
声の方へ振り返ると、菊之助が小走りでやって来た。
「お早う」
「ああ、お早う」
源太郎は少し前の行動を見られていないかひやりとした。しかし、菊之助はこともなげに近付く。
「ごめん、昨夜は」
「いや…、謝らなきゃなんねえのはおらだ」
「ううん、一度だけでも、嬉しかったよ。あの子、目覚めたんだね、良かったね」
「お菊…、すまない」
笑顔でも菊之助の顔は悲しげであった。源太郎は頭にぽんと手を置く。
「そんな、いいんだ。おれも、あの子が目覚めて嬉しい」
「本当か?」
「うん」
「有難う、お菊」
「早く行きなよ。早く帰ってきてね。夕飯は、四人で食べよう」
「ああ」
「じゃあね」
手を振り源太郎を見送った菊之助は、不自然に撒かれた水を一瞥し、ぽつりと言い放つ。
「本当さ、嬉しいよ、とっても」
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