参拾弐
ぱちん、ぱちんと頬を何度か叩かれ、蘭丸は重たい瞼を開けた。
「……?」
視界が霞む。源太郎の声が「お蘭」と名を呼んだ。
「いかが…なされました?」
蘭丸は目を瞬かせて焦点を取り戻した。源太郎が真顔で心配している。
「良かっただ」
源太郎は蘭丸を抱き寄せる。汗と泥の匂いがした。
「お蘭、ずっと寝てただよ。お菊は薬のせいだって言ってたけど、おら、また目、覚めなかったらって…」
源太郎は蘭丸の上体を起こした。力が入らず、源太郎の腕の中で赤子のようにだらんと首や四肢を垂らした。
「何処か痛いか?」
「頭が、少し」
「寝過ぎたせいだ」
源太郎は無邪気に笑いながら蘭丸の頭を撫でる。
「もう直ぐ晩飯だ。その前に、おら、風呂入って来るだ」
「晩飯…?」
「ああ。飯食ったら、体、拭いてやる。ちゃんと待ってるだよ?」
「はい」
源太郎は、蘭丸の疑問に気付かず、体を布団に横たえて風呂場へ向かってしまった。
(ええと、今日は…)
ぼんやりとして思考回路が崩れ落ちそうになる。明け方、源太郎と体を重ねて、朝を迎えた。その後はどうしただろう。記憶がない。またそのまま堕ちて、此処へ運ばれたのだろうか。時間の経過に違和感を抱いた。今が夕餉の時刻なら、あまりにも眠りすぎだ。
蘭丸は確かめるようにゆっくり唾を飲んだ。草の味がする。眠っている間に飲まされたのだろうか。
「……」
静けさに、再び瞼が重たくなった。蘭丸はゆっくり瞬きをした。
「乱太郎さん、ご飯だよ」
菊之助が盆を持ってやってきた。相変わらず、静かな足取りだった。
蘭丸は布団に顔を埋めながら横目で盆を見た。雑炊の茶碗に、土瓶、そして薬草と擂り鉢が並んでいる。
「辛い?」
菊之助が柔らかい掌を蘭丸の額に当てた。
「熱はないね」
今度は右頬に手の甲をすり当てた。撫でるように皮膚の上に手を添えて、短く言った。
「良かった腫れてない。昨日は、御免ね」
「私の方こそ」
「ううん。乱太郎さんは、間違ってない」
菊之助が蘭丸の肩に手をかけると、蘭丸が竦めた。
「まだ眠いです」
「仕方のない人だね」
菊之助は蘭丸の髪を撫でながら、優しい声で言った。幼い声がゆるやかに耳に響く。
「明日、天気が良かったら、髪を洗ってあげる」
「はい…」
蘭丸は視線を目の前に落とした。菊之助がむっちりとしたしなやかな脚を横に崩している。その綺麗な膝や臑が視界に入った。
「体も、拭いてあげる」
「はい…」
瞼が引き寄せあい、自分の長い睫が視界を遮った。蘭丸は目を閉じた。
「乱太郎さん?駄目だよ、寝る前に、ご飯、食べなきゃ」
「はい…」
蘭丸は殆ど呟くように言うと、静かに寝息をたてはじめた。
菊之助は、蘭丸の体を仰向けに転がす。無抵抗なことを確かめると、盆にある薬草を口に含んで噛んだ。
「ん」
菊之助が蘭丸の鼻を摘むと、蘭丸は無意識に口を開けた。それを自らの口で塞ぎ、細かくなった苦い薬草を唾液ごと流し込んだ。
「ん、ぐっ…」
蘭丸は苦しそうに口の中のものを飲み込むと、菊之助は鼻と唇を離した。蘭丸は目を薄く開けて、切なげに顔を歪めた。
「飲みたくなかった」
「駄目だよ」
菊之助は蘭丸の上体を起こし、膝の上に載せるようにして胸に抱えた。
「早く、治して」
口内を清めるようにと、菊之助は湯呑みに入った白湯を蘭丸の口に付けて傾ける。蘭丸はゆっくり飲んだ。
「これを飲むと暫く、眠り続けてしまって…」
「量が多いのかな。おじさんに言って、減らして貰うよ」
「それに、頭もぼうっとして、働かないんです」
「うん。でも、その分、傷の治りも早いから」
蘭丸の瞼がとろんと落ちて、再び静かに寝息を立てた。また暫くは目覚めないだろう。菊之助は蘭丸を抱いたまま、顔や肩を眺めた。
「おらん」
耳元で囁くと、蘭丸は擽ったそうに首を傾け、耳を遠退けた。
菊之助は痩せた手首を掴み、持ち上げた。白い肌には青い線がくっきり浮いていた。その手首を口に挟んで歯を立てる。痛みで蘭丸の体がびくんと揺れた。菊之助は歯型をうっすらと残した手首を離す。
今度は、薄い皮で覆われた首に指先を移した。とくりと適切な速度で脈打つ。
「ねぇ、起きないの?」
菊之助は僅かに爪を立てた。首を上げて、喉笛を晒す。自分と同様に、あまり膨らみは目立たない。
「ねえ、らん…」
菊之助は喉に親指を沈めた。蘭丸が苦しげに飲み込む動作をすると、同時に親指が沈んだ。
「まだだ…」
菊之助は圧迫させた脈と喉を解放し、無防備な体を抱きすくめた。
「まだだよ、蘭丸さん」
部屋の向こうが騒々しい。源太郎が風呂から上がったのだろう。菊之助は歯の痕が残る蘭丸の手首を隠すように包み込んだ。
- 32 -
*前次#
ページ: