肆拾壱
雨は、三日間降り続いていた。
小雨の時間もあった。しかし、火傷もあり唐八から許可が下りず、源太郎は養生所で過ごしていた。
源太郎は、毎日、寝入る蘭丸を起こしては抱いていた。源太郎は優しくも時折強引で、そして吐き出しても吐き出しても、満ち足りた表情を見せることはなく、瞳は虚ろだった。
そして、雨が止み、源太郎は今朝仕事へ出掛けた。蘭丸は眠っていて、源太郎を見送ることが出来なかった。
「包帯が取れて良かったね」
蘭丸の髪を洗いながら、菊之助は言った。蘭丸は、菊之助の作業を遮らないようにこくりと小さく頷き、自分の体を見下ろした。
今朝、先生に診察をして貰って、胸の怪我は殆ど回復したと言われた。あの眠たくなる薬も、今日から食事と共に出されなくなった。お陰で、午前中よりも頭がすっきりしている。
今度は蘭丸から呟くように菊之助に語りかける。
「今日は…」
「ん?」
「源太郎様は、どうでしたか?」
「清々しく出掛けて行ったよ。火傷も殆ど治ってたし」
「良かった」
「心配なの?」
「働けないのが、お辛いようでした」
「退屈なのが辛いから掃除とかしてくれたのかな。母屋だけじゃなくて、風呂場も物置も綺麗にしてくれてた。火傷した足で動き回ったら意味ないって唐八さんに怒られてたけど」
菊之助は笑いながら指先を動かした。柔らかい指が頭皮を滑っていく。
「それに、休みの間、ずっと仲良くしてたでしょう?」
蘭丸の体には、源太郎が付けた鬱血が幾つも残っていた。菊之助の位置から見える箇所にも。
「そうですね…」
蘭丸は否定しなかった。羞恥を隠せずに慌てふためく様を予想していた菊之助は、目を丸めて蘭丸の顔を覗き込む。
「喧嘩でもしたの?」
「どうしてですか?」
蘭丸も同じ表情で聞き返す。
「態度が違うから。いつもなら顔真っ赤にして慌てるのに」
「いいえ。そうではないです。このところ元気がないようで」
「源太郎さんの?毎日してるのに?」
「体のことではありません」
「ふうん。でも、休みの間は少しおかしかったかな。火傷のせいだと思ってたけど、その火傷も、精神状態が絡んでのことみたいだったし」
「え?」
「駄目だよ、動いたら」
振り返ると、菊之助に濡れ手で後頭部を抑えられる。菊之助は蘭丸の髪を梳かす作業に移っていた。
「おかしかったって…?」
「唐八さんから聞いたんだけど、源太郎さん、お金が欲しいみたい。義理堅い人だから、ここでずっと世話になってるの辛いみたいだよ。空元気って言うか…。普通に話すし、笑いもするけど、無表情な時が多かった」
蘭丸ははっと息を飲む。源太郎が火傷をしたのも、瞳が虚ろだったのも、蘭丸の言葉のせいだ。今すぐ二人で何処かに行きたいだなんて、この状況で出来るはずもないのに。昂った感情を全て源太郎にぶつけてしまった。
その後、幾らでも機会があったのに、どうしてちゃんと伝えられなかったのだろう。恐怖や嫌悪なんかより、源太郎の方がずっと大事なのに。源太郎さえいてくれたら、何処にいたって構わないのに。一時の恐怖心に駆り立てられて、源太郎を追いつめるようなことをしてしまった。
「どうしたの?具合、悪い?」
菊之助が心配そうに見つめる。蘭丸は笑顔を作って誤魔化した。
「いいえ。本当にあの方は、菊殿の言うように義理堅く、不器用なのです」
菊之助が連れ込んだ男に、蘭丸は襲われた。菊之助だって傷ついているはずだ。真実を伝える訳にはいかない。
けれど、源太郎には伝えなければ。どれだけ源太郎に幸せも安らぎも与えられているか。源太郎の優しい瞳の輝きを取り戻せるように、嘘偽りない笑顔で、源太郎を迎えよう。
ここへやって来たばかりの頃よりも、日没が早くなった。庭は闇に溶け、殆ど景色も見えない。昼に洗った髪も乾いていた。
「…くしゅっ」
肌寒い。蘭丸は羽織の襟を整えた。夕を知らせる鐘が鳴ってから、随分経った気もするが、源太郎はまだ帰って来ない。
蘭丸は草履を履いて、庭に出る。門を抜けると、道の向こうにぼうっと灯火が見えた。
「乱太郎さん!」
灯りが大きくなる。近付いて来た光りは、菊之助の顔を照らしていた。顔も服も手足も汚れていて、帰宅時の源太郎と同じ、汗と土の匂いがした。
「何処行くの?まさか、源太郎さんの迎え?」
「ええ…」
「駄目だよ。まだ病床の身なのに」
そんな大袈裟なものではない。片腕は不自由だが、胸の傷は治っている。しかし、菊之助は蘭丸が何かしら行動を起こすと、小さな子を持つ母親のように蘭丸を叱りつける。
「菊殿、随分汚れていますね」
「源太郎さんが遅いから、足の怪我もあるし覗きに行ったんだよ。この雨で、結構荒れててさ。畑いじり、少し手伝ってきたの」
「お疲れ様でした」
「そう、源太郎さん、今日は帰って来ないよ」
「え?」
「畑、泊まり込みで補正作業しなきゃならないんだって。あと二、三日はかかるみたい」
「そうですか…」
「そんな顔しないで。さ、中戻ろう。もうすぐご飯だ」
菊之助は蘭丸の先を歩いた。井戸端で手を洗っているのを隣で待っていると、菊之助が笑った。
「待っていなくていいよ。寒いでしょ?部屋に入ってて」
「は、はい」
これでは、本当に母親に付きまとう小さな子供だ。気恥ずかしくて、蘭丸はいそいそと部屋へ戻る。
昼まで寝ていた布団の隣にもう一組、無造作に畳んである。蘭丸は源太郎の脱いだ寝間着を胸に抱いた。源太郎がいない夜を過ごすのは、出会ってから初めてのことだった。
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