妄想、愉悦。


肆拾弐


  


 布団に入って暫く経ったが、蘭丸は未だに寝付けずにいた。今日から薬草を飲まなくなったこともあるが、何よりも源太郎が傍にいないことが気がかりだった。明日もきっと帰って来ないと言うことも。
 蘭丸が腕を庇いながら寝返りを打つと、隣の襖が開いた。隙間から菊之助が覗いてくる。

「眠れないの?眠たくなるの、飲む?」

「いいえ」

 菊之助は自分の枕を蘭丸の隣に置いて、寒がりの猫のように布団に潜り込んできた。

「へへ」

 菊之助がいたずらっ子のように笑って見せる。

「何にもしないから、今日は一緒に寝てもいい?」

「ええ」

「良かった」

 蘭丸は菊之助の全身が布団に入るように少しだけ身を引いた。菊之助の肌は暖かい。しかし、慣れない状況に余計に眠気が遠退いてしまう。

「眠れなそうだね」

「今日、昼まで眠っていましたから」

「なら、おれの昔話してあげる。つまんないから、きっと眠くなるよ」

「そんな、菊殿の大切な過去の話が、つまらないなんてことはありません」

「有難う」

 菊之助は仰向けになった。そして、言葉を探すように少し間を開けて語り始めた。

「おれの小さい頃、おれは母親と流れ歩いてた。母さんは、おれを育てる為に、行きずりの人に体を売ってお金や食べ物や着るものを貰ってたんだ」

 返す言葉が出ない。蘭丸の生い立ちとは、あまりにもかけ離れている。

「ご立派な母上ですね」

 返した言葉は、自分何かが発するにはあまりにも軽すぎる。蘭丸は思った。しかし、菊之助は蘭丸の返答に満足そうに微笑み、続けた。

「でもね、おれが五つの時、母さん、嫁ぐことになったんだ。客の裕福な商人に見初められて。母さんはその男のこと全然好きじゃなかったけど、安定した生活が出来るならって。母さんはまだ十と九。相手の男は、五十路前くらいだったかな」

 菊之助はちらりと蘭丸を見て、表情を確認して静かに笑んだ。

「新しい家は快適だったよ。美味しいごはん、綺麗な着物に、あったかい布団。体だって毎日洗える。空腹や、寒さや耐えられない痒みで目が覚めることもなくなった。でもね、寂しかった。母さんはずっと男の相手をしてたから、食事の時、顔を合わせるくらいで、おれは一日の大半を一人で過ごしてた。なるべく我慢してたけど、どうしても耐えられなくて、眠れない夜は一人で泣いた」

 菊之助は、幼い頃から孤独を抱えながら、闇と向き合っていたのだ。蘭丸の胸を締め付ける。

「でもね、半月経った頃かな。夜中、いつもみたいに一人で泣いていたら、その家の次男がやってきて、おれの布団に潜り込んできたんだ。もう泣かないで、一緒に眠ろうって言われて、抱き寄せられた。勿論戸惑った。だって、おれは母さん以外の人と、そんな風に接したことなかったし、ましてその人とは挨拶以外の言葉を交わしたことがないんだから。でも、家に来てから、その夜、初めてぐっすり眠れたんだ」

 菊之助の表情と、一段輝きを増した瞳で、その次男が大切な人なのだとすぐに分かった。

「その方の、お名前は?」

「籐四郎」

「籐四郎殿…」

「そう。籐四郎は、おれより九つ上の十と四。まだ少年だったけど、おれから見たら全然大人で、でも、母さんや他の大人より若くて、おれに近い存在だった。おれは、籐四郎に訊ねた。おれのことが嫌いじゃないのかって。籐四郎は、好きだと言ってくれた。この赤い髪も、灰色の目も、綺麗だって誉めてくれたんだ」

「どなたが見ても、菊殿は綺麗だと思います」

「ふふ。有難う。でも、当時は今よりもっと色が明るかったし、やっぱり不気味がられてたよ。だからこそね、おれはすぐに籐四郎に懐いた。籐四郎は、女中が仕事と割り切って嫌々やってたおれの世話を、不器用なりに丁寧に一生懸命してくれた。着替えとかお風呂とか。どうしてそんなに親切にしてくれるのか、最初、おれには分からなかった」

「菊殿を愛おしく想っていたからでしょう?」

「乱太郎さんは本当に愛されて育ったんだね。勿論、籐四郎はおれを可愛がってくれた。でもね、それだけじゃなかったんだ。籐四郎自身が、愛に飢えていたことに気付いたよ」

「……」

「籐四郎は、男の死んだ二番目の奥さんの連れ子だった。籐四郎が屋敷へ来たばかりの頃、血の繋がらない姉さんが凄く優しくしてくれたって。でも、すぐに嫁いでしまって、母親は男に独り占めにされて、幼い籐四郎は孤独を抱えたまま大きくなったんだ。おれたちは、隙間を埋め合うみたいに四六時中一緒にいた。寂しかったのは勿論だけど、おれは籐四郎が大好きだった」

 菊之助は顔を歪ませて、片手で隠した。

「菊殿…」

 蘭丸が細い手首を取り、そっと剥がすと、視線が合う。瞳は濡れていなかった。

「泣いてないよ」

 菊之助は蘭丸の手を握る。菊之助の手は骨組みが小さく、女性のように柔らかい。

「籐四郎は、おれに色んなことを教えてくれた。読み書きや数え歌や、おとぎ話」

 不意に、指を絡ませてきた。

「喧嘩や、仲直りの仕方、人の愛し方、優しい接し方、あとは…」

「あとは?」

「口付け、愛撫、快楽…」

 口調は穏やかなのに、菊之助の瞳は、憂いたり、嬉しそうだったり、言葉を発する度に変化する。視線が離せない。

「……性交。たっぷり時間をかけてから、おれたちは一つになった。初めは痛かったけど、嬉しかったよ。籐四郎が大好きだから。体を重ねてから、もっと好きになって、交わる度にどんどん好きになるんだ」

 菊之助の瞳が煌めいた。

「数え切れないくらい、何度も、何度も、籐四郎と一つになった。籐四郎は、おれが籐四郎を好きだと言うと喜んでくれた。籐四郎の心は渇いてた。だから、少しでも満たされるように、おれは何度も体や言葉で、愛を伝えた。籐四郎は、受け入れてくれたし、同じくらい返してくれた」

 煌めく瞳が、陰る。

「もう少し、そばに行ってもいい?」

「ええ」

 菊之助が蘭丸に体を密着させる。高い鼻先が鎖骨に触れた。髪から蘭丸と同じ甘い香りが漂う。

「おれがどれだけ好きだったか知ってるはずなのに、酷いよ…」

 声が発せられる度、湿った吐息が胸に当たる。

「おれを置いてっちゃうなんて…」

 蘭丸は、そっと菊之助の髪を撫でた。蘭丸の位置からは、涙は見えない。瞬きの度に長い睫がぱさりと上下していた。

「ね」

 菊之助は顔を上げて、蘭丸と同じ高さに頭の位置を戻した。

「乱太郎さんの話を聞かせて?」

「私の?」

「そう。乱太郎さんの、初めての人」

「私の…」

 蘭丸は、つい視線を逸らしてしまった。源太郎と出会うよりも前の蘭丸の過去。かの織田信長の側近だったと言った所で、菊之助は信じるだろうか。ここは誤魔化すべきか、けれど、大切な過去を打ち明けてくれた菊之助に嘘をつきたくない。誠意を持って返さなければ。
 沈黙が続き、微かな寝息が聞こえた。菊之助は眠っていた。
 蘭丸は少しほっとして、布団を肩まで掛け直す。

(泣いてる…)

 穏やかな寝顔なのに、くっついた瞼から雫が落ちていた。蘭丸は指で水滴を掬って、菊之助を抱き寄せた。今夜は安らかに眠れるように、孤独から解放されるように願いながら。眠りながら菊之助は蘭丸の肩を抱き返してくる。殆ど無意識に、温もりを求めているのだ。涙がまた伝い、蘭丸の肩に染み込んだ。






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