肆拾肆
源太郎は今夜も帰って来なかった。残った栗は夕餉の後、菊之助と唐八とで分け合って食べた。冷めてしまっても栗は甘く、蘭丸は余計に源太郎が恋しくなってしまった。志津が来た時、栗を買った店を教えて貰おう。源太郎に食べて欲しい。
夜も更け、ひっそりと布団に入る。一人用の布団なのにやけに広く感じて、蘭丸は手をいっぱい伸ばした。落ち着かなくて腕をもとの位置に戻して、瞼を閉じる。
「……」
しかし、いくら経っても眠気は訪れず、蘭丸は諦めて起き上がった。薬草を飲まなくなったのだから仕方ない。
寝返りを打つ。襖は三寸程開いているが、向こう側に菊之助はまだいない。また縁側で月見でもしているのだろうか。
部屋を出て縁側に向かう。其処に菊之助の姿はなかった。月も雲で半分隠れていた。代わりに、風呂場に小さな明かりが灯っていた。菊之助が入浴しているのだろうが、こんな夜分に随分長風呂だ。蘭丸は不安になって風呂場へ足を運んだ。
近付くとぱしゃりと水が大人しく躍動している音が聞こえた。どうやらのぼせている訳でもないようで、蘭丸はほっとした。
「乱太郎さん?」
戻ろうとすると、浴室から声をかけられた。
「は、はい」
「どうしたの?」
「いえ、遅い時刻ですので、溺れてはいないかと気になって…」
「心配してくれたんだね?嬉しいよ」
がらり、と戸の開く音がした。
「ね、こっち来て?」
呼ばれて出入り口まで行くと、菊之助が湯上がりで何も着けないまま灯りを持って立っていた。
「寝間着と大きい手拭い持って来てくれない?ずぶ濡れで行って他のもの濡らしたら、唐八さんに怒られちゃう」
「はい」
「ごめんね。治療部屋の棚の引き出しにあるから」
灯りを受け取り、母屋の治療部屋から清潔な浴衣を見つけて戻ると、菊之助は全裸のまま庭でぽつんと佇んでいた。手に瓢箪を持っていた。
「菊殿、風邪を引いてしまいますよ」
菊之助の頭に乾いた手ぬぐいを掛ける。
「肌、乾かしてるの」
確かに、空気に当たって髪の毛以外は乾いていた。蘭丸は浴衣を菊之助の肩に掛けた。菊之助が肩と肘を上げて羽織ると、瓢箪の中身が零れた。
「またお酒ですか?」
「うん。行こ」
菊之助は蘭丸の手を引き、濡れ縁に座った。瓢箪の中身を一気に呷る。
「菊殿」
「つめたっ…」
手首を掴んで止めると、瓢箪の中身が零れ、菊之助の剥き出しの胸や腹を濡らした。
「ごめんなさい。けれど、お酒は止めると約束したでしょう?」
「だって……」
蘭丸が菊之助の体を拭いていると、菊之助は俯いた。
「また、寂しくなってしまったのですか?」
「うん」
菊之助は蘭丸に抱き付いてくる。夜風で乾かしたせいで、冷たい肌だった。
「飲み過ぎはお体に障ります」
「分かってるよ」
「なら、お止め下さい」
「なら、乱太郎さんが飲んでよ」
「私が?」
「まだあるから。ほら」
菊之助は顔を上げ、蘭丸に栓が抜けたままの瓢箪を押し付けた。
「飲んで」
「ええ…?」
「早く。もう、腕以外、回復して元気なんだよね?飲めるでしょ?」
「まあ、そうですけど」
「あなたが飲まないなら、おれが飲む」
「分かりましたから」
菊之助が蘭丸の動向を見つめてくる。誤魔化せる雰囲気でもなく、菊之助をこれ以上酒漬けにさせる訳にもいかず、蘭丸は瓢箪の中身を口に含む。冷たいのに、飲み込んですぐに熱いものが込み上げてくる。
「ふあっ…」
息をつく。久方振りのせいか、病み上がりのせいか、廻りが早い。蘭丸は瓢箪を置いて、自分の足先を見詰めた。視界が揺らいで、二重、三重に見える。
「な、何を…」
「お酒だよ?もしかして、弱いの?」
菊之助は蘭丸の肩を抱き寄せた。
「大丈夫?」
「……体に、力が…」
「ここ、横になって」
菊之助のなすがまま、膝の上に頭を預けて横たわる。心配そうに見下ろす菊之助の表情が滲んでくる。ぽたりと菊之助の前髪から雫が落ち、蘭丸の睫に当たった。
「ごめんね、こんなに弱いなんて思わなかったから」
頬に触れてくる菊之助の手が柔らかく、冷たく気持ちいい。
酒は特別弱い訳ではない。告げようとしても、蘭丸は伝えられず、意識を手放してしまった。
「ふふ」
菊之助は蘭丸の顔を眺めてから静かに微笑む。瓢箪に栓をして、蘭丸を寝室まで運んだ。隣の自室にある手荷物から小袋を取り出す。
「また眠っちゃうけど、酔い止め呑もうね。薄荷は…あった」
眠る蘭丸に語りかけながら葉を選んで、口に含む。噛み砕きながら、蘭丸の歯を開き、指を差し込む。整った白い歯列と小さな舌が指に触れる。菊之助は顔を近付けて細かく砕けた葉っぱを蘭丸の口内へ流し込んだ。蘭丸の鼻をつまむと、喉がこくりと動いた。更に、瓢箪の口を唇に当て、中に流す。
「酒と薬、どっちが苦いかな?」
徐々に蘭丸の肌が火照ってくる。薄くなっていた首周辺の吸い跡も色濃くなる。菊之助は蘭丸の首筋に唇を押し当てた。熱く、早い。歯を立てると、びくりと肌が跳ねる。顔を上げる。蘭丸はまだ瞼を閉じていた。しかし、眉根が少し持ち上がっている。
「ごめん、痛かった?」
瞼の上を指先で柔らかく撫でる。
「もうすぐだからね…」
菊之助は、首筋に薄く歯型を残した蘭丸に布団を掛けて、部屋を出る。外へ出て、離れの風呂場へ戻り、脱衣所で脱いだままの服を手に取った。
「気に入ってたのになあ」
菊之助は裏庭で火を熾した。頃合いを見て服を投げ入れる。汚れた帯も、腰紐も全て。燃やし尽くす炎は眩しくて、目が熱く、痛いのに離せない。
「……」
形あるものは、いつか消えてしまう。この服が羨ましい。自分もこんな風に燃やし尽くされてしまえばいいのに。
けれど、この身が燃えた所で、魂はきっと残ってしまう。魂に刻んだこの孤独も焦燥も、空洞も一緒に。結局は生きなければならない。生きて、向き合わなければ。
菊之助は瓢箪をひっくり返して炎に酒を掛けた。炎が舞う。まるで羽衣のように。
「あつっ」
火の粉が一瞬触れて、瓢箪が焚き火に落ちた。ちりちりと焼けていく。次第に炎は小さく、大人しくなった。
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