妄想、愉悦。


肆拾伍


  


 目覚めた蘭丸は布団の中にいた。頭が痛い。昨夜は菊之助の膝の上で記憶が途切れている。

「……」

 酒を飲んで気分が悪くなった後、どうしたのだろうか。
 蘭丸は体を起こして部屋を出た。廊下は雨戸が閉まっていて、暗い中で戸板と戸板の僅かな隙間から光が洩れていた。
 やけに静かで、皆出掛けているのだろうかと思い、確認の為に治療部屋の戸を開けると、三人が一斉に此方を向いた。

「あの…」

 三人の異様な表情に蘭丸はたじろいた。唐八と菊之助の頬にははっきりと涙の跡が残っている。先生は泣いてはいなかったが、落ち窪んだ目が悲しげに下がっていた。
 三人の身に何が起こったか分からず、蘭丸が挨拶も忘れて戸惑っていると、菊之助が顔を拭い、笑顔を作って歩み寄ってきた。

「ごめん乱太郎さん、夕餉、作るの手伝ってくれない?」

「夕餉?」

 また長時間眠りについていたことに蘭丸は驚いた。

「うん。台所、行こう?」

 菊之助に引っ張られ、去り際振り返ると、唐八と先生が哀れんだような目を此方に向けていた。

「ごめん、寝起きなのに」

 部屋を出ると、菊之助は鼻を啜りながら言った。まだ瞳は濡れている。

「いえ、何かあったのですか?」

「……」

 菊之助は足を止めた。服は昨夜の浴衣のままで、動きやすいように裾を膝丈で切り落としていた。至る所が泥で汚れている。いつもの着古した藤色の着物はどうしたのだろうか。

「菊殿?」

 菊之助は赤い唇を強く結んで、小さく全身を震わせた。

「さっき、唐八さんの友達が、遺体で運ばれて来てね…」

「ご遺体で…?」

「うん。まだ若いのに、その人も唐八さんも可哀相で、見てられなかった」

 菊之助の振動が蘭丸に伝い、震えが止まるように握られた手を強く握り返した。菊之助は目尻を濡らしたまま、にこりと微笑んだ。

「真っ暗だね」

 菊之助は雨戸を開け始めた。蘭丸も反対側から開けて行くと、光りが両端から廊下に入っていった。庭が赤く染まっている。本当に、もう夕方なのだ。

「あそこ」

 菊之助は庭の一角の、真新しい土の盛り上がりを指差した。可憐な花が手向けられ、夕日を浴びている。

「あそこに葬ってあげたんだ」

「きっと、安らかに眠れますよ」

「うん…。おれもそう思うよ」

 菊之助の作り笑顔は、ひきつっていた。

「無理に笑わないで下さい」

 蘭丸は菊之助の頭を撫でた。菊之助は蘭丸の肩に顔を埋めて、くすん、くすん、とか弱く泣いていた。





 その日も源太郎は帰って来なかった。
 菊之助も唐八も表情が暗く、三人だけの食事は酷く静かだった。

「今夜は私が後片付けをします故、お二人はお休みになって下さい」

 唐八が食後の白湯を飲んでいる頃合いに、蘭丸は声をかける。唐八ははっと湯飲みから顔をあげ、分かりやすい作り笑顔で取り繕う。

「いいよ、乱太郎君こそ、もう休んで…」

「私、起きたばかりですから」

「そうか…」

 唐八は俯いて目を泳がせていた。

「良いじゃない、唐八さん、たまには早く休んでも。お風呂、もう入れるよ」

 菊之助が口を挟む。

「あ、ああ…。そうするよ」

 菊之助に後押しされ、唐八はのそのそと覇気のない足取りで部屋を出て行った。
 蘭丸が唐八の膳を片付けると、菊之助がそれを持ち上げた。

「さ、洗いに行こう?」

「有難うございます」

 菊之助の後をついて行く。

「気になる?」

「気になるって…?」

「唐八さんのこと」

「大分、無理をしておいでですね」

「うん。友達が亡くなったとはいえ、あんなに繊細な人が医者何て務まるのかな」

「ご友人は、どんな方だったのですか?」

「分からないんだ」

「分からない…?」

「どんな人なのか判らない程、惨い姿をしていたから」

「……」

 唐八の心情を考えると、言葉が返せない。菊之助も眉間に深い皺を刻み、神妙な顔をしていた。

「止めよう、この話。もう思い出したくない」

「はい、すみません…」

 蘭丸は話題を変えた。それ以前に気になっていたことがある。

「菊殿、昨夜の酒は…?」

「あれ?特製の蒸留酒だよ」

「少し飲んだだけで喉が灼けるようでした。菊殿は、あんなものを飲んでいるのですか?」

「まさか。おれは少し舐めただけ」

「どうしてあのようなものを」

「あんなに強い酒って知らなかったからね。乱太郎さん、ちょっと飲んだだけで気失っちゃって驚いちゃった」

「私も驚きました。起きたら、もう夕刻で…」

「ごめんごめん。引きずらないように、薬草を飲ませたんだ。眠りすぎたのは多分そのせい。でも、今日は寝ていてくれて良かった」

 菊之助が歩みを止めて、庭の盛り上がった土を一瞥した。

「……」

「そんな顔しないで」

 菊之助が蘭丸の髪を撫で、再び歩き出した。それはこちらの科白だ。そんな顔をされたら、深く追及出来なくなってしまう。菊之助は振り返って、大人しく菊之助の後をついて行く蘭丸に、また語りかける。

「お人好し」

「何がですか?」

「俺がどうしてあんな酒を持ってるか気にならないの?」

「なります」

「聞けばいいのに」

「ならば、菊殿。どうして、あのような酒を持っていたのですか?」

 菊之助が態度を変えたせいで、蘭丸の口調も少しだけ強くなる。

「安心してよ。酒屋の男とは会ってないから。あれはね、消毒用に使ってるもので、母屋から持ち出したんだ。眠れなかったから湯浴みを終えたら飲もうと思って」

「消毒の……道理で」

「普通、飲む時は水で割ったりするんだって先生は言ってたけど。少し強いくらいがいいかなと思って」

「少しじゃないですよ」

「そうだね」

 菊之助は井戸端に膳や食器を置いて、水を汲む。盥に水を移して、皿を洗い始めた。蘭丸も隣で作業を手伝う。
 菊之助の支えになりたい。けれど、いずれ自分はここを離れなければならない。そんな自分が、菊之助に深く関わっていいのだろうか。蘭丸はまた同じ疑問に躓いていた。







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