肆拾漆
何時の間にか源太郎の腕の中にいた。
良かった。やっぱり夢だったんだ。蘭丸は安心して、逞しい胸に顔をうずめた。しかし、その体は蘭丸の重みで反対側に倒れてしまう。とっさに腕を伸ばして抱き止めると、力がなくぐったりとしていた。
「源太郎様?」
蘭丸は名を呼んだ。しかし、源太郎は目を閉じたまま動かない。
「源太郎様、源太郎様!」
肩を揺すっても、声を張っても瞼は開かない。
「源太郎様…」
ああ、これは夢だ。時折見る、恐ろしい夢。早く目覚めなきゃ。これは、夢なのだから。
はっと息を飲んで瞼を開くと、菊之助の顔があった。菊之助は蘭丸の目尻の雫を柔らかな指先で掬い取る。
「菊殿、大丈夫です、怖い夢を見ただけで…」
菊之助に支えられながら上体を起こす。腕の中に源太郎はいない。違うものを手に握り、抱き締めていた。
「……」
見覚えのある色と、覚えのない大きな大きな黒い染み。この布は何だろうか。
「乱太郎さん、体、拭こう?服も手も、泥だらけだ」
寝室で眠っていたのに、何故泥だらけなのだろうか。
「唐八さん、唐八さん!」
菊之助が高い声で唐八を呼んでいた。似たような高さの自分の悲鳴が脳裏に響く。酷く叫んで、暴れた気がする。そして、記憶が途切れるまで唐八と菊之助が傍にいて、蘭丸に寄り添っていた。
湯を張った盥と着替えを持って、唐八はやってきた。
「お早う。体、拭こうか」
蘭丸が無反応でいると、菊之助はそっと寝間着を脱がした。肌が空気にさらされる。添え木を巻いた包帯も泥だらけで、それも解かれた。蘭丸はぼんやりと自分の貧相な体を見下ろした。体の至る所にあった源太郎の痕が消えていた。
唐八に顎を持ち上げられ、頬を温かい手拭いで拭かれた。唐八は、悲しくて優しい笑顔を向けていた。蘭丸は笑い返そうとしたが、引きつって上手くいかず、代わりに涙が落ちた。
「す、すみません…」
「いいんだよ」
唐八が溢れる涙を拭き、汚れた指の土を取る。菊之助は蘭丸の膝下の汚れを拭いてから、新しい清潔な浴衣に腕を通した。
「立てる?」
蘭丸は頷いて、手を借りて立ち上がった。源太郎の着物がはらりと手から落ちる。菊之助はそれを拾い、着物の帯を結んでから手渡してくれた。
「乱太郎君、菊之助の部屋に綺麗な布団が敷いてあるから、そこで休んで」
「いえ、もう十分休みましたから…」
蘭丸は重たい足取りで部屋を出る。
「何処行くの?」
「厠です」
「おれも行くよ」
菊之助が蘭丸の肩を支えた。
「すみません」
二人で揃って縁側に出た。外は小雨が降っていた。
「菊殿」
「なあに?」
「此処で源太郎様を見ていても宜しいですか?」
「うん…、いいよ」
菊之助の返答で、もう記憶の混乱に逃げることが出来なくなった。蘭丸はぺたりと座り込んで、なだらかな土の山を見詰めた。
「羽織り、持ってくるね」
「平気です。寒くないですから。ご心配かけてすみません。もう平気ですから、ご自分の持ち場へ戻って下さい」
蘭丸は笑ったつもりでいた。しかし、笑えていなかったのか、菊之助は顔を歪めて、目を潤ませた。
「嫌だ。邪魔だって言われても、どかないから」
菊之助は蘭丸の隣にしゃがんで蘭丸に強くしがみつく。汚れた布を握り締めていた蘭丸の手に、掌を重ねる。
「おれや唐八さんにだって、悼む権利はある。短い間でも、家族同然で一緒に暮らしてたんだから」
「……」
「一人で抱え込まないでよ、おれが悲しんだって、乱太郎さんの悲しみが減る訳じゃないけど、乱太郎さんは一人じゃないんだ」
菊之助の掌の温もり。蘭丸はもう一度、土を見た。そして、改めて手の中にある布を広げる。赤黒い染みの真ん中の、胸と背の位置に大きな裂け目がある。
「……」
体が震える。これは、本当に源太郎のものなのだろうか。しかし、この日に灼けた生地も、袖口の折り目も、落ちなかった染み汚れの点も、見覚えは確かにある。
「源太郎様…」
本当に、もう会えないのだろうか。信じたくないのに、事実だと認めているかのように涙が溢れてくる。
菊之助が優しく蘭丸を胸に抱いた。菊之助の服は、まだ土で汚れている。
一頻り泣いて顔を上げる。菊之助は、唇で蘭丸の涙を掬い取った。
「すみません、服を汚してしまって」
「ううん」
「私はもう大丈夫ですから」
「やだ。傍にいたいよ」
「本当に大丈夫ですから。少し、二人だけに…」
「二人?」
菊之助は蘭丸の手の中にある源太郎の服を見つめた。
「分かった。でも、外に出たりしちゃだめだよ?」
蘭丸が頷くと、菊之助は其処から離れていった。
大人しい雨音。普段通りなら、この程度の雨なら源太郎は仕事に出なければならないだろう。
「源太郎様…」
名を呼んでも、源太郎が現れる訳ではない。このまま、源太郎が帰って来ないまま、時間がたてば源太郎のいない日々が当たり前になるのだろうか。
「そんなの嫌だ…っ」
耐えられない。耐えられるはずがない。こんな絶望を抱えて、生きるくらいなら、いっそ消えてしまいたい。けれど…。
『絶対に死んだら駄目だ』
月明かりの夜に告げられた源太郎の言葉が胸を刺す。源太郎はこんなにも早くあの夜の約束を破った。
「源太郎様…」
呟きと同時に廊下が軋んだ。蘭丸ははっと顔を上げる。
「邪魔してごめんね」
唐八が蘭丸の肩に羽織をかけた。うずくまった蘭丸の隣に座り、床についた手に温かい手を置いた。
「寒いね」
手を取り、蘭丸の体を起こす。
「唐八殿、教えて下さい」
「何だい?」
「源太郎様は、何故、彼処にいるのですか?何故、土の中で眠っているのですか?」
蘭丸は、涙を隠さず問い詰めた。唐八は視線の強さに耐えられず、俯きながら答えた。
「…昨朝ね、げんさんの仲間のお百姓さんが知らせに来たんだ。山の麓に、無惨な遺体がある。服や体格から見て、げんさんに似ているから本人かどうか確認してくれって」
「山の麓…」
「君が襲われて怪我をしたあの山だよ。その人と一緒に駆け付けたら、本当に……げんさんだった」
唐八の声や表情で、唐八自身の絶望がより具体的に伝わる。しかし、蘭丸にとってこれ以上の絶望は存在しない。
「……どんな姿でしたか?」
「君は知らない方がいい」
「教えて下さい」
「乱太郎君…」
「大丈夫ですから」
「……」
唐八はか細い声で続けた。
「体が、大きく切り裂かれていて、至る所が切り落とされていて、顔が、分からないくらい壊されて…」
「……」
源太郎も、山賊に襲われたのだろうか。けれど、あの山は危ないと本人だって心得ているはずだ。何故、近付いたのだろうか。
疑問が可能性に変わる。
蘭丸は立ち上がった。肩から羽織が落ちる。蘭丸は裸足のまま庭に出る。
「乱太郎君!?」
「確かめなければ」
「もう確かめたよ、僕も、菊之助も、先生も!紛れもなく、げんさんだった」
唐八が追い掛けて来て、肩を掴んだ。
「けれど、顔も分からなかったのでしょう!?」
「でも、家族みたいに暮らしてたんだ!見間違わない」
蘭丸はひざまずくようにして小さな泥山に手を埋めた。
「乱太郎君!そんな姿を、げんさんが君に見て欲しいと思うはずない!」
「唐八殿、私、可笑しくなった訳じゃないんです、ただ、確認しなければならない、自分の目で」
そもそも、ことの始まりは、蘭丸が信長の死を受け止めていないせいだった。受け止めなければ、また同じ過ちを繰り返してしまう。
「お願いします。絶対に、ご遺体を辱めるような真似はしませんから、確かめさせて下さい」
「乱太郎君…」
唐八は、制止の手を引いた。蘭丸は土を掘る。しかし、素手ではなかなか進まない。
「僕がやるよ」
唐八が、納屋から農具を持って来た。匙型の道具で土を掘る。まだ土は柔らかく、すぐに布が出て来た。唐八は布の中を傷つけないように、浅く慎重に掘り起こす。大きな包みが姿を表した。
「覚悟はいい?」
蘭丸は頷いた。唐八が中身をゆっくり開いた。
「!」
蘭丸は口を覆う。顔が潰れて、額や顎まで崩れている。しかし、髪や頭の形は源太郎に限りなく近い。
蘭丸は、震える手を体に伸ばす。大きな裂傷の奥に臓物がある。片腕は肘から落とされ、もう一方は肩から落とされている。
「……」
更に下腹部は、生殖器が根元から切られ、右足は脛から下がなかった。
蘭丸は、遺体の布を合わせた。手を合わせてから、土を掛ける。手の震えは止まっていた。
「唐八殿、有難う御座いました」
土を掛けながら冷静に礼を言う。
「納得出来たのかい?」
「はい」
可能性は確信に変わった。
「このご遺体は、源太郎様のものでは御座いません」
「え!?」
「この方の背格好も、背丈も似ています。けれど、全くの別人です」
「ど、どうして…」
「この方は、源太郎様の服を着ておられたのですか?」
「うん」
「切り落とされた部分は見つかっていないのですか?」
「そうだけど、どうして、そう思うんだい?」
「黒子です」
「黒子?」
「源太郎様にある黒子の箇所が、この遺体にはないのです。右腕と、左肘、それからお腹。腰は確認出来ていませんが、服を見る限り、腰にも裂傷がありますね?」
「うん…」
「それから切り落とされた右足。源太郎様の右足には、まだ火傷が残っている筈です。他の肉を抉るような小さな傷は、もともとあったこの方の、黒子などの特徴を消す為だと思います」
「でも、偶然ってことは…」
蘭丸は首を左右に振る。
「黒子だけじゃない、体型が似ていても、形が違うから、分かるんです」
「形って?」
「膝や、肘、踝。足の甲、爪。鎖骨の形が、源太郎様と異なります」
蘭丸は立ち上がって、農具で更に土を被せた。唐八は、まだ信じられていないようだ。蘭丸が悲しみのあまり現実逃避しているように見えるのかも知れない。
「どうしてこんなことを」
「分かりません」
鬼河原の追っ手の差し向けか、それとも他の何かに追われているのか。
けれど、わざわざ身代わりの死体を見せしめることをしたのは、まだ源太郎が生きている可能性もある。その可能性が大きいか小さいか何て分からない。しかし、それは蘭丸の背中を押すには充分な希望だった。
「源太郎様を、探さなければ…」
ざあ、と急に雨足が強くなる。周りを全て消してしまうような雨音へと変わった。
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