妄想、愉悦。


伍拾弐


  


「いい眺めだと思うよ。なのに、何でおれの気持ちは満たされないんだろうね?」

「ー!」

 恐ろしく異様なもので口を塞がれた。声を出すと、歯がそれに食い込み、より舌が密着してしまう。蘭丸は、浅い呼吸を繰り返し、必死に耐えた。

「本当にいい反応するよね。蘭丸さんの気持ちが手に取るように分かる」

「うぅー!」

 後孔が引き裂かれそうに痛む。なのに、内側から起こる熱が全身を支配し、また刺激されて煽られる。

「きついかなと思ったけど、随分気持ちよさそうじゃない」

 蘭丸は首を左右に振った。

「駄目だよ、まだ心まで堕ちてないもの。ねえ、どうして拒むの?体はこんなに正直なのにさ。怖くてもおぞましくても、喜んでるじゃない」

 抑えられなかった下腹部の猛りに、柔らかい手で撫でられてから、ぎゅっと握られた。

「おいでよ、こっちへ」

 幼い声の甘い囁きは、鼓膜を溶かしてしまうような熱さだった。

「受け入れるなら許してあげるよ。認めるんだ、おれから与えられる快楽を。そうしたら、これも外してあげる」

「……!」

「従うなら、瞬きを続けて二回してごらん?」

 白い足で腹を圧迫される。蘭丸は、顔を背けて目をぎゅっと閉じた。

「……そう、分かったよ」

 耳が、ぞくりと冷えた。まるで凍ってしまいそうな程。





 痛い、怖い…。けれど……熱い…。

「もうやめて!」

 自分の声ではっと目を開ける。体を拘束するものも、無理やり押し込まれたものもなくなっていた。ただ、体は色んな体液で汚れたままになっている。そして、足の間には真新しい白い小さな水たまりが出来ていた。蘭丸は息を飲んだ。

「これは、蘭が…」

 こんなに嫌なのに、受け入れてしまった体が疎ましくて涙が出た。滲む白い水たまりに影が重なる。蘭丸は顔を上げた。

「信長様…!」

 信長が蘭丸を見下ろしていた。蘭丸はすぐさま膝を立て、手を伸ばした。

「信長様!」

 すぐそばにいるのに、信長に触れられずにいた。届かない、どうして?蘭丸は立ち上がり駈けていく。まるで見上げた月を追いかけているように、信長との距離は縮まらなかった。

「信長様…!蘭も、どうかそちらへ…!」

 届かない信長に向かって叫ぶ。足が重たく、蘭丸は躓いてしまった。

「信長様…?」

 信長が、蘭丸に軽蔑するような冷たい眼差しを送っていた。この表情は幾度か目にしたことはあるが、蘭丸自身に向けられたことはない。

「信長様…」

 どんな闇よりも深く、暗い瞳。こんなにはっきり見えるのに、信長は遠い。

「穢れにまみれた体で、信長様に追い縋る蘭を蔑んでおられるのですか…?」

 誰よりも前に上に立つ信長は、考えることを放棄し、歩みを止め、堕落した存在を何よりも忌み嫌っていた。蘭丸も同様に、信長が心底嫌悪するものを、当然のように否定していた。なのに、自分はそんな存在に成り下がってしまっていた。

「仕方ないじゃないですか…、蘭は源太郎様を失って、友だと思っていた人に裏切られて…、これからどう進めばいいかなんて、分からない」

 こんな風に自分を正当化する為の言い訳をしたのは初めてだった。まして、信長の前で。けれど、自分を取り繕えない。蘭丸はこらえきれずにうずくまってもう一度泣いた。

「蘭は、もう…」

 信長の手が、ふわりと蘭丸の髪を撫でた。見上げると、信長が笑っていた。まるで、蘭丸をからかっている時に見せる、いたずら好きの無邪気な子供のような笑み。

「信長さ…」

 手を伸ばすと、信長の姿は炎のようにふっと消えてしまった。同時に、蘭丸の涙は止まっていた。




 瞼を開けると、光が入る。一瞬、最後に見た煌めいた信長の瞳の残像だと思った。しかし、それは窓の隙間から零れる日差しだった。
 蘭丸は部屋を見回した。ここは、唐八が寝起きしている部屋だ。綺麗な布団と帷子。髪や肌や、口の中も清められて、不快な名残は消えていた。
 記憶を辿る。蘭丸が使っていた部屋は、酷く荒らされていて、眠れる状態ではなかった。唐八に無気力な体を洗ってもらい、無理やり眠り薬を飲まされて、ここで眠っていた。

「……」

 枕元に膳が置いてある。碗の蓋を開くと、粥が湯気を立てていた。
 眠る前は、耐え難い嫌悪感で口にものを入れるのが怖かった。肉の張型や体液の味が残っている気がして、食べ物も飲み物も拒んで、唐八に強引に指を突っ込まれながら薬を飲まされたくらいに。けれど、今は不思議と、この粥が美味しそうに見えた。
 蘭丸は起き上がる。右腕以外、ちゃんと動かせる。白い手を拭いて、両手を合わせた。

「いただきます」

 粥を匙で掬って口に運ぶ。優しい塩味。一番最初に口にした源太郎の手料理も粥だった。思い出すと鼻の奥がつんとなって、蘭丸はこらえて一気に粥を流し込んだ。
 あっけなく粥を平らげてしまった。まるで、信長が生命力を送ってくれたみたいだ。
 右腕を吊って、上手く支えながら膳を持ち上げた。部屋を出て、普段皆で食事をする広間に行く。ちょうど、唐八と志津と先生が遅めの昼食を摂っていた。

「蘭ちゃん、起きて大丈夫なの?」

 すぐさま志津が駆け寄り、蘭丸の膳を取る。

「はい。美味しかったです。有難う御座いました。膳は自分で運べますから」

「いいわよ。後でいっぺんに纏めて洗うから」

 志津は蘭丸の膳を畳に置いて、座布団に座るように促した。隣へ座り、蘭丸の頬に手を当て、体温を確かめる。

「顔色もいいし、熱もないわ。良かった」

「お世話をかけました」

 蘭丸は頭を下げる。顔を上げると、櫃にびっしり並んだ握り飯が目に入る。唐八が笑って口を開いた。

「今日は、時間がなかったからおにぎりにしたんだ」

「美味しそうですね」

「君も食べて」

「有難う御座います。唐八殿、竹の葉を頂けますか?」

「台所にあるけど、何処かへ行くのかい?」

「はい」

 唐八が眉根を寄せた。

「何処へ?」

「源太郎様を、探しに行きます」

「源太郎、いなくなっちゃったの?」

 知らずにいた志津が口を挟んだ。唐八は顔色を変えて蘭丸の手を取って部屋から引っ張り出す。

「乱太郎君」

 志津の耳に声が届かない所まで着くと、唐八は蘭丸の肩を掴んだ。

「探しに行くって、どういうことだい?さっき、げんさんは亡くなったって言ってたじゃないか」

「はい。菊之助が殺したと自分で言っていました」

「その、げんさんの本物の遺体を探しに行くのかい?」

「いいえ。結果的にそうなるかも知れませんが…」

 蘭丸は、信長の笑顔を思い出して震えそうな唇を引き締めた。そして、また口を開く。

「蘭は、源太郎様は生きていると思います」

 唐八の眉間の皺が深くなった。

「どうしてだい?」

「菊之助は、私に深い恨みを持っていました。ですから、唐八殿や、先生を巻き込んで、あんなことを……」

「うん」

 唐八は、何かしら事情を察しているようだった。

「それは、また何れ、きちんとお話致します」

「分かった。でも菊之助は、あんなに酷いことを君にしたんだよ?源太郎さんが生きてるなんて……」

「はい。私も菊之助の恨みは痛い程受け取りました。だからこそ、不自然に思って…」

「何処が不自然なの?」

「本当に私への恨みを晴らしたいのなら、私の目の前で源太郎様を討つか、それが出来なくとも、私に源太郎様だと分かるように見せしめるのではないかと」

「……」

 唐八は蘭丸の指の痕が残った首を見つめながら、何も答えなかった。優しいこの人は、蘭丸が源太郎の死を認めたくない為に、まやかしのような小さな小さな希望に縋りついているように見えるのだろう。けれど、蘭丸には確信があった。他でもない信長が示してくれた希望。

「唐八殿が心配して下さるのは分かります。けれど、蘭は源太郎様を探しに行かなければ、前へ進めません」

「残酷なことを言うけど、僕はげんさんが生きてるとは…」

 唐八がそう思うのは仕方ない。菊之助が手に掛けた惨たらしい遺体と、尊厳を奪われた惨たらしい蘭丸の姿を思いがけず目にしたのだから。殊更情が深く、菊之助を弟のように可愛がっていた唐八は、表面に出さないだけで、きっと蘭丸と同じくらい戸惑い、心に深い傷を負っている。

「唐八殿」

 蘭丸は肩を掴んだ手に手を重ねたまま下ろして、ぎゅっと握った。

「仮に、源太郎様が、どんな姿であっても、蘭は受け止めようと思います」

「そんな…」

「いつ帰ってくるか分からない源太郎様を待つだけの方が、蘭には辛いことなのです。きっと、心が弱って、同じ過ちを繰り返して…だから、前へ進まなくては」

 蘭丸は笑顔を作った。弱々しさはもう見せないように、唐八に真っ直ぐ視線を向ける。唐八は蘭丸の手を握り返した。

「分かったよ、君の気持ちは」

「ありがとうございます、唐八殿」

「でも、心配だから僕も行くよ」

「いえ、唐八殿はお仕事を…」

「今日は、養生所は休み。急を要する患者さんしか受け入れないことにしているんだ」

「けれど…」

 蘭丸は返答に迷う。すぐに見つかるかはわからないし、道中、危険な目に遭うこともあるかも知れない。今の体で、唐八を守れるだろうか。

「頼りないと思われているかも知れないけど、僕にはね、君を守る責任があるんだ。そもそも、僕たちが素性を知らない菊之助を引き取ったりしたから、君をあんな目に」

「それは違います。菊之助は、此処に住めなくても、何れにせよ、復讐として何らかの手は下していたでしょう。唐八殿は、巻き込まれてしまった被害者です。蘭は、これ以上唐八殿を巻き込む訳には」

「もう、遅いよ。僕だって、君を危険な目に遭わせたくない」

 思えば、唐八が蘭丸の窮地を救ったのは初めてではない。もしも、自分が唐八と同じ立場だったら同じことをしていただろう。

「では、唐八殿。ついて来て下さいますか?」

 唐八は、安堵したように笑って頷いた。




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