伍拾肆
沢を渡る。昨日までの雨で地面が柔らかく、足を取られないように慎重に歩いた。この辺は閑散としていて、山賊の縄張りとは思えないほど静かだった。ぱきり、と小枝を踏む。早く進みたい気持ちを抑えながら、蘭丸は小さな川縁を歩いた。
「え……?」
孫六が教えてくれた目的地に着いた。蘭丸は予想外の光景に、つい足を止めてしまった。確かに、祠らしきものがあるのだが、土砂崩れと言うにはあまりにも大袈裟な状態だった。草の大地が一部分抉られ、小さな祠が川沿いに盛られた土に寝そべっていた。泥を退けて石の台に戻せばすぐに元通りになりそうだ。
一羽の烏が祠の木の壁を嘴でつついている。その向こうにある社は無事で、山肌に寄り添うように、しっかり聳えていた。
「まさか…!」
蘭丸は足場の悪さを忘れて走り出した。蘭丸に驚いた烏が飛び立った祠を跳び越え、社の開きに手を掛ける。
「源太郎様!」
古びた戸はなかなか開かない。蘭丸は、一瞬迷ってから扉を蹴り破った。
「源太郎様……!」
しかし、その中に源太郎の姿はなかった。
「源太郎様…」
蘭丸は唇を強く噛んだ。此処以外に源太郎の行方の手掛かりはないのに。早く他を探さなければ。蘭丸は考えた。他に菊之助の行きそうな場所は何処か。記憶を呼び戻す。
壊れすぎちゃったから。
菊之助の残酷な言葉が脳裏を過ぎり、蘭丸は首を振った。駄目だ、まだ源太郎を見つけていないのに恐怖に取り込まれては、折角信長が与えてくれた力をふいにしてしまう。
「天馨寺…」
山の天辺の寺と孫六は言っていた。そんなに大きな山ではないが、今晩じゅうには帰れなくなりそうだ。しかし、それ以外に情報を得る手段がない。他にも土砂に巻き込まれた祠があるのかも知れないと、蘭丸は考えてまた歩き出そうと来た道を振り返る。
祠に先と同じ烏が止まっていた。執拗に同じところをつついている。
「……?」
何かあるのだろうか。蘭丸は歩み寄って、烏を追い払う。しかし、烏は去らずに、近場をかぁかぁ鳴きながら飛んでいた。酷く耳障りだが、悪いことをしたと、蘭丸は握り飯の包みをひらき、ちぎってかけらを適当な岩へ置いた。烏は蘭丸が離れるのを見計らって、岩へ止まり、米粒をつつき始めた。
蘭丸は、祠の烏がつついていた箇所を覗き込む。小さな隙間が開いていて、暗くて中は見えない。けたたましい食欲旺盛な烏の声。蘭丸は、箱のような祠の側面に手を伸ばした。確かな重みがある。
『壊れすぎちゃったから』
「……!」
菊之助の残酷な言葉が先よりも鮮明に蘇り、蘭丸は手を引っ込めてしまった。鼓動が早まる。まさか、まさか。震える指を握り締めて、褪せた木の箱に手を伸ばした。
祠の扉は、地面に埋まっている。蘭丸は、箱を縦に起こす為に持ち上げようと手を添えた。しかし、重くて動かない。まるで、大きな生き物が押し込められているみたいに。
蘭丸は一旦箱から手を離して、逸る鼓動を静める為に深呼吸をした。腕を吊る布を取り、包帯を解いて筋肉の殺げ落ちた右腕から添え木を外し、もう一度祠に手を伸ばした。
「くっ…ううっ」
祠の屋根を両手で掴み、持ち上げる。重みで扉がひらき、手の中が軽くなった。中から大きな何かが落ち、土から川へ滑って行く。
短い毛を濃く生やした頭部、広い肩、背中。見覚えがある。他の誰かならば精巧な造りの人形だと思うかも知れない。しかし、自分だけは見間違えるはずかない。蘭丸は声を上げた。
「源太郎様!」
蘭丸は空になった祠を捨て、窮屈な体制で投げ出された人体を抱き起こした。触れた素肌の異様な冷たさに、背筋が凍る。
「…ん…」
その人は、青ざめた唇から小さな声を漏らした。
「源太郎様!」
「…ら、ん…」
目を微かに開き、蘭丸と視線が合うと口の端を上げた。源太郎は生きている。
「源太郎様!」
源太郎はこの大きな体を、膝を抱えるように座った体制で、両手首と両足首を縛られ、あの小さな祠に押し込まれていのだ。
「源太郎様、もう大丈夫です。今、解きますから」
「お蘭が、本当に来ただ…」
源太郎は、それだけ言うと意識を落とした。
「源太郎様!?」
呼吸と一緒に、窮屈な体が微かに動いていた。蘭丸は縄を鎌で切り落として、源太郎の体を解放させる。
「源太郎様…!」
諦めなくて良かった。失わずに済んで良かった。安堵で涙が溢れ、源太郎の頭を抱き寄せた。源太郎の腹にあった手がくらりと投げ出され、浅い水面をちゃぷんと叩いた。手首には縄の痣が残っている。
「早く、暖めなくては…」
源太郎の大きな体を背負って、日の当たる草の上に寝かせ、体を拭く。水に浸かっていた箇所はふやけていてより冷たく、連日の監禁を物語った無精髭が顎や頬にまばらに生えていた。
許せない。けれど、今は怒りにかまけている場合ではない。蘭丸は源太郎の体を拭き、浴衣を着せた。そして、小袖を脱ぎ、源太郎に着せて、更に羽織りを掛ける。力の抜けた源太郎が落ちないように、なるべく腰を曲げて、大きな体を背負った。
「源太郎様、すぐ、温めてさしあげますから」
この体制では走ることもままならない。面倒な輩に遭遇しないように祈りながら、源太郎を抱えたまま借りた鎌を握る。
蘭丸は目的地へ向かって歩き始めた。源太郎の肌はまだ冷たいのに、吐息は温かい。微かな温もりが、帰り道の心細さを消していった。
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