伍拾伍
静かな山道に蘭丸の足音と息遣いばかりが響いていた。
空が赤く染まり始めている。このままでは、皆が帰ってしまう。山を離れて安全な場所に戻れたら、出来るだけ多くの人の手を借りたい。気ばかり焦ってしまっていた。
「源太郎様、もうすぐですよ」
蘭丸は足場が安定した平地で足を止め、眠る源太郎に声をかけながら体制を整える。もう道は平坦だ。この状態で山賊にでも遭遇したらとは気が気ではなかったが、無事に下山出来た。ほっと息をついて歩き始めようと足を運ぶと、自分以外の存在を知らせる音が耳に届いた。
「乱太郎君!」
唐八が孫六と共に麓まで来ていた。蘭丸が気付くより先に、声を上げ、駆け寄ってくる。
「やっぱり一人だった。でも、無事で良かった」
「げん!」
蘭丸がほっと息をつくよりも先に、孫六が声を荒げると、唐八が蘭丸に完全に体を任せた源太郎の首と手首に触れた。
「良かった。本当に…」
唐八の目が濡れ始めて、鼻を啜りながら目尻を拭い、付け足した。
「でも、随分体が冷えてるね。温めないと」
「はい。急いで養生所へ運ばないと」
「俺が運ぶ」
孫六が唐八と二人がかりで、源太郎を蘭丸の体から離した。背中が空気に触れ、肌寒くなったと同時に体が軽くなった。
唐八が蘭丸の背と密着していた源太郎の肌に触れた。
「良かった。肌が合わさったところ、あったかくなってる」
源太郎の服の前を合わせ、きちんと着せて、孫六は源太郎の体を背負った。
「すぐ、養生所運ばねえと」
「私、先に行って湯を沸かしておきます」
「待って、君の手当てをしないと」
蘭丸が歩くよりも先に、唐八が口を挟む。
「いいえ、源太郎様が先です。私は養生所に戻りますから、後程」
「乱太郎君!」
唐八の声が聞こえる。けれど、蘭丸は振り返らずに駆ける。少しだけ前にいた孫六に背負われた源太郎の背中を越える。風を斬る。風は冷たいのに、源太郎と触れ合っていた肩と背が温かい。
ああ、源太郎が帰ってきた。早く取り戻したくて、蘭丸は速度を下げずに走り続けた。
息を上げながら養生所に着く。蘭丸は真っ先に風呂場に向かった。朝、蘭丸の汚れを落とした湯は捨てられ、浴槽の中身は空だった。
「蘭ちゃん!?」
井戸水を汲んでいると、気付いた志津が駆け寄って来た。
「腕、どうしたの?手当てしなきゃ」
「大丈夫です。私のことよりも、源太郎様が帰って来ます。体が冷え切っているので、湯に浸からせて温めなければ」
唐突な報告に、志津は戸惑っていた。しかし、すぐに切り替えて、答えた。
「手伝うわ」
「有難うございます。私は水を運びます。志津殿は火を熾して下さいますか?」
「ちょうど、台所の竈に熾したばかりなの。持ってくるわ」
志津は告げると台所へ走って行った。
蘭丸は桶に水を汲んで、何往復もして水を運んだ。源太郎が温まれる程の水が溜まった頃、温度を確認すると、既に下の方が温くなっている。手を入れてかき回していると、外からざわめきが聞こえた。表に出ると、大勢の半裸の百姓が大きな手押し車を囲んでやってくるのが見えた。
「おうい!」
先頭の孫六が声を上げる。野菜や米を運ぶものらしいその大きな荷台には源太郎と、源太郎を膝に抱える唐八が乗っていた。源太郎の体には沢山の服が被せてあった。
「皆様…」
孫六が源太郎を背負い、それを周りの百姓たちが支えている。それを見ていたら、鼻の奥からこみ上げて、溢れそうになった。
「おい、風呂は沸いたか?」
「まだ、ぬるいですが、空気よりは温かいです」
「じゃ、運ぶか」
「有難うございます」
蘭丸は先を歩いて風呂所に促した。浴槽のすぐそばで、孫六が源太郎を下ろし、服を脱がせた。蘭丸はもう一度、浴槽の中をかき回した。蘭丸の体温よりも高くなっている。桶で掬って、源太郎の手に掛けた。熱に反応し、源太郎の体がぴくりと動く。もう一度肩に掛けると、源太郎は瞼を開いた。
「源太郎様、すぐに温かくなりますから」
源太郎は薄目で蘭丸を見詰めて、頷くようにまた瞼を閉じた。孫六らが源太郎を抱え、足先から湯に入れ、ゆっくり沈める。肩まで浸らせ、孫六は源太郎が溺れないように肩の下に手を入れ支えた。
「乱太郎君」
唐八が脱衣所で服を拾い、蘭丸を呼んだ。
「こっちおいで。手当てをするから」
「え…?」
「添え木、外しちゃったでしょ」
「いえ、私は大丈夫ですから」
こんな些細な痛みよりも、源太郎を見守っていたい。本当に大丈夫になって、安心出来るまでは。
「手当てしてもらえ。げんは、俺たちが見てるから」
孫六が口を挟む。その言葉に、もう一人の男も頷いた。
「ほら、行こう?」
唐八が服を抱えたまま、蘭丸の手を引っ張る。蘭丸は振り返って源太郎を名残惜しく見詰めた。青ざめていた肌が赤く染まっていた。孫六が蘭丸を安心させるように微笑んだ。蘭丸は会釈をして、唐八の後へ続く。
表へ出ると、半裸の百姓達が身を震わせていた。二人に気付いて、駆け寄って来る。
「おい、げんはどうした!?」
「もう大丈夫です。温まって顔色もいいです」
唐八が服を配りながら答えると、百姓たちは皆安心したように笑って、源太郎の無事を喜んでいた。
思いがけない優しさに触れて、鼻の奥がまたつんとなる。
「皆様、本当に、本当に有難うございました…!」
蘭丸は頭を下げる。語尾が大きく揺れてしまった。こらえきれなかった涙が地面に点々と落ちる。
「乱太郎君」
唐八が、蘭丸の肩に小袖を掛けた。蘭丸がそれでも頭をあげずにいると、百姓の一人が汚れた手で蘭丸の頭をくしゃりと雑に撫でた。
「ほら、頭上げな」
蘭丸は手の甲で涙を拭いながら顔を上げた。百姓たちは、皆笑っていた。
「皆様、このご恩は、一生忘れません」
「大袈裟だな」
「服貸しただけだしな」
「世話んなってる養生所の先生が困ってたからな」
「仲間助けるのは当たり前だ」
皆、あっけらかんとしていた。手前の一人が蘭丸の肩を叩く。
「げんが起きたら伝えてくれ。元気んなって、畑に来るの待ってるってな」
「はい」
蘭丸は顔を擦りながら力強く頷いた。
「じゃあ、ずらかるとするか」
「んだな。暗くなっちまう」
「大事になー」
百姓たちが帰って行く。蘭丸が見送ろうと門前に向かおうとすると、唐八が蘭丸の右腕を掴んだ。
「痛っ」
「当たり前だよ」
唐八は今度は背に手を置いて、蘭丸を診察部屋へ引き連れて行った。
腰につけたままでいた荷物を下ろされる。
「おにぎりが食べかけてあるね。君が食べたの?」
「いえ、烏にあげました」
「烏?」
「源太郎様の居場所を教えてくれた烏に」
今更、腕が疼くように痛み出してきた。
「志津さんの塗り薬、貸して」
「はい」
志津の薬は、なくさないように袴の小袋にしまってある。蘭丸は、唐八に手渡した。
「今日は目まぐるしいくらい、色々なことがあったね」
「はい」
「でも、げんさんが戻って来てくれたから、最悪な日にはなりえなかった」
「私もです」
「本当によく頑張ったね。こんなに汗かいて。夜、また体を拭くから簡単な手当てにしておくよ」
唐八が濡らした清潔な布で蘭丸の腕を拭き、軟膏を患部になすりつけると、肌をほぐすようにもみ込んだ。
「でも、君は……」
唐八が何かを語りかけ、口を閉じ、手当てに戻った。包帯を巻いて、着替え、添え木をつけて、其処にも包帯を巻かれる。さっき源太郎を抱えられた腕が、今は動かせない。
「本当に無茶をするね。でも、君が無茶をしなければ、げんさんは帰って来なかった」
「ええ。何日も塞ぎ込んでいたら、本当に源太郎様を失ってしまいました」
「朝、げんさんは殺されたって泣いていたのに、どうしてげんさんを探しに行こうとしたの?」
「それは…」
信長の笑顔がきっかけだ。けれど、他に確信に近いものがあったのも事実だった。
「菊之助のことを思い返したのです」
「菊之助は、君が、大切な人の仇だって言っていたけど」
「はい」
「本当なの?」
「はい」
唐八の顔が引きつり、目尻が下がった。
「ここへ来るほんの少し前のことです。菊之助の大切なその男は、源太郎様を盾にして、蘭を辱めました。逃げ出すには、男を殺すしかなかった」
「どうして、そんな男を菊之助は…」
「生き方を示してくれたから、と言っていました」
「……」
唐八は髪をくしゃりとかき上げ、俯いた。体が微かに震えていた。
「菊之助は、ずっと愛情を求めていた。いつから蘭を仇と見ていたのか分かりませんが、蘭にさえ、縋ることがあって」
「……」
「今思えば、恨みが垣間見えた瞬間がありました。けれど、蘭は、菊之助の要求に応えきれずにいて、そのせいなのだと、菊之助が向けた感情そのものを勘違いしていました」
唐八はさり気なく目元を擦ってから顔を上げた。
「けれど、仇である蘭を求める気持ちも本音なら、菊之助は常に葛藤していたのではないかと思いました」
唐八は神妙に頷いた。どうやら思い当たることがあるらしい。
「蘭には、その葛藤が、可能性にも思えて。結局、菊之助は源太郎様を討たなかった。討てなかったのかも知れませんが」
「君は強いね」
「いいえ。蘭は弱いです。蘭が強いなら、それは源太郎様の存在があってこそ」
蘭丸は唐八の手に手を重ねた。
「それから、唐八殿のお陰でもあります」
「え?僕の?」
「はい。唐八殿が、蘭を支えてくれました。蘭も、唐八殿の支えになりたい」
「乱太郎君…」
「私は、本当の名を蘭丸と言います」
「らんまる…」
「はい。これからは、唐八殿には本当の名前で呼んで頂きたいです」
「…蘭丸君は、本当に優しい子なんだね」
「いいえ、唐八殿こそ。私は、唐八殿の優しさに救われました。唐八殿だけではありません。先生も、志津殿も、孫六殿も、他の協力して下さったお百姓さんたちの優しさに。きっと、源太郎様だけにひっついていたら、皆様の優しさを知らずにいました」
また涙が出そうになって、こくんと飲み込んだ。
「ですから、蘭も、唐八殿の支えになりたいです」
もう一度告げて、重ねた手を握った。
「有難う」
唐八は、小さな子供を誉めるように蘭丸の頭を撫で、肩を抱く。
「君のその優しさが、充分僕を支えてくれているよ」
唐八の穏やかな声が、こんなにも心地いい。蘭丸は思い出した。蘭丸は、菊之助とこんな関係を築き上げたかったことを。けれど、それはもう叶わない。何がどうあっても、叶えることは出来ない。
「さ、もうげんさんが風呂から上がる頃だ。孫六さんたちを手伝わなきゃ」
「はい」
唐八に連れられて、蘭丸は治療部屋を後にした。
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