伍拾陸
自然に寝返りを打った。窮屈さはなく、体が温かいことに気付いて、源太郎はゆっくりと目を開けた。
「……」
近くに誰かがいる。目が段々慣れてくると、寝間着一枚で小さくうずくまっている蘭丸の寝姿が見えた。源太郎は手を伸ばす。指がちゃんと動く。その指で、ひんやりとした髪に触れ、頭を撫でた。身を起こして、冷たい体を布団に引きずり込んだ。蘭丸の体がびくりと跳ね、暗がりで瞳が煌めいた。
「あっ…」
体を密着させると蘭丸の腕に巻きついた板が当たった。
「痛くなかったか?」
「源太郎、様…?」
源太郎の問いには答えず、逆に問いかけるように名を呼ぶ。
「うん」
「夢では、ないのですね…?」
「夢じゃない。おらの体、あったかいだろ?」
蘭丸の小刻みに震える体を包み込んで、蘭丸の薄い肩をさすった。
「また痩せたか?」
「すみません、骨が当たって痛いですよね?」
「ううん、暫くこうしてたい」
蘭丸が頷くような仕草で俯くと、髪が源太郎の唇を掠める。源太郎は蘭丸の額に口づけた。触れた肌が熱くなる。湿った睫や頬に唇を押し当てていくと、蘭丸は咄嗟に源太郎の口を掌で抑えた。
「唐八殿がおりますから…」
「へ?」
源太郎は部屋を見回した。源太郎の足の先に、布団が横向きに敷いてある。
「ずっと看病して下さったのですよ」
蘭丸が囁きながら、人差し指を立てて唇の前に置いた。蘭丸は源太郎の腕から抜け出して、唐八の肩の布団を掛け直して源太郎に向き直る。
「体調はいかがですか?」
「良いだよ。厠行きたい。お蘭は?」
「私も良いです。源太郎様が温めて下さいましたから」
蘭丸は固定された腕を吊って、畳に落ちた羽織を拾い、源太郎に左手を差し出した。手を借りながら立ち上がる。足が、ちゃんと自分の体を支えていた。
源太郎の布団のすぐ隣に敷いてあったもう一組の布団が目に入った。恐らく蘭丸が使う予定だったものだろうが、乱れた様子はない。
部屋を静かに出て、縁側の雨戸を開く。空が薄明るい。蘭丸が用意してくれた草履を足に嵌めた。
表に出て、囁きではない声で語りかけた。
「お蘭も、おらのこと看病してくれただな」
「ええ…」
抑える必要もないのに、蘭丸の声はまだどことなくか細い。
「でも、布団に入らないと駄目だよ?」
「すみません。源太郎様が気持ちよさそうに寝ていらして、つい眺めてしまいました。そうしていたら、何時の間にか眠っていて」
「うん。久し振りにぐっすり寝て気持ち良かっただ。昨日まで閉じ込められてたなんてな」
源太郎は笑ったが、蘭丸は笑い返してくれなかった。厠へ促される。
一人、厠に入って用足ししようとすると思わず驚愕した。下帯ではなくおしめが着けてあった。濡れていないことにほっとして、外して用を足す。終えて戸を開くと、蘭丸が濡れ布巾を持って待っていた。
「お顔、洗いますか?」
「うん」
井戸端の洗濯桶に外した布を放り、井戸水を汲んで顔を洗う。手渡された手拭いで顔を拭いていると、蘭丸が柄杓を洗い、水を掬って源太郎に差し出した。
「有難う」
受け取って中身を口へ流し込む。水が今まで感じたことがないくらい美味しくて、体の隅々にみずみずしさが巡ってゆく。
「源太郎様、少し、ここに居ても良いですか?」
「うん」
蘭丸は東屋の長椅子を拭いた。源太郎が其処へ腰掛けると、持っていた羽織を源太郎の肩に掛けた。
「寒くないだよ。お前が着てな」
「駄目です。腕を通してきちんと着て下さい」
蘭丸に羽織を着せられると、源太郎は蘭丸の腰を引き寄せた。
「こうしてたらあったかい」
蘭丸は、黙ったまま広げた源太郎の足の間に腰掛けた。
「ごめんなさい、本当は、まだお休みになられていた方が良いのですが、唐八殿も眠っておりますし」
「うん。おらも、お蘭と話したいから」
「けれど、何から話せば良いのか…。色んなことがありすぎて」
「そうなんか」
「はい。こんな短い間に、絶望も、幸福も」
「おらも。おら、自分が不甲斐なくて、また見失ってただ」
「そんなことありません。私達、二人で助け合わなければならないのに、蘭が一方的に源太郎様に甘えていたから」
「でも、おらは甘えて欲しかっただよ。全部受け止められるようになりたくて…」
蘭丸は、体を捩って源太郎の胸に顔をうずめた。片足を源太郎の膝に載せる。着物の裾が広がり、白い腿が露出してしまった。
「蘭はこうして甘えるだけで、幸せなのです」
蘭丸が源太郎の手を取り、自分の胸に置いた。
「だのに、蘭がそれをきちんと伝えずにいたから、こんな目に…」
蘭丸は、源太郎の手首の縄の鬱血に触れながら泣き始めた。
「そんな自分を責めるのはお蘭の悪い癖だ。まあ、お互い様かも知れなんけどな」
源太郎は蘭丸の頭を撫でた。地面に着いていた蘭丸のもう片方の足も膝に載せ、椅子の上で横抱きにするみたいな体制で、蘭丸を抱き締める。
「あの、長い長い雨の日の前日、蘭は源太郎様を困惑させてしまいました」
爪きりをして蘭丸に激しく求められた夜。蘭丸の話を聞きながら自分の爪先に指の腹で触れると、少しだけ伸びていた。
「何かあっただか?」
「男に襲われました。唐八殿が助けて下さって、大事には至りませんでした。けれど、今思えば、あれも菊之助が仕向けたことでした」
「そげんことが…」
その日の夜の蘭丸の懇願の真意は全く見当違いだった。しかし、何故菊之助はそんなことをしたのだろうか。
「おらも、お蘭とすぐ二人きりになりたくて、どうしても金が欲しくて。お菊に、いい話があるって言われて」
蘭丸は濡れた目で源太郎を睨んだ。
「もう、あの男を、そんな風に呼ばないで下さい」
「へ?ああ…。そいで、危ないけど、すぐに大金が手に入るって聞いてな、おら、つい」
「つい?」
「うん。で、一緒に山登ってたらな、何時の間にか、気ぃ失って、目、覚めたら、縛られて、小さい箱ん中にいただ」
「意識を失った直前の記憶は?」
「ないだよ。何日あの中にいたかな。分かんねーけど、すげえ長く感じた」
「……」
蘭丸は源太郎の手首の痣をなぞると、左腕を肩に巻き付けて、抱き付いて嗚咽を漏らした。
「お蘭?」
寝間着の肩口が蘭丸の涙で濡れる。源太郎は力を込めすぎないように蘭丸を抱き寄せた。
「もっと早くに気付いていれば…」
「無茶言うな。神さんでもないのに、そげんすぐ分かる訳ないだよ。お蘭は、お蘭が出来る限りのことして、探してくれただな?」
蘭丸は顔を上げず、鼻先を源太郎にこすりつけたまま泣いていた。源太郎は蘭丸の頭と背を撫でた。
「気が済むまで泣いていい。でも、自分を責めたら駄目だ」
少し経って、蘭丸が顔を上げ、濡れた目に源太郎を映した。
源太郎は、小さな顎を持ち上げて、口を吸う。蘭丸は目を大きく見開いた。濡れた瞳が間近で輝いていた。蘭丸の閉じていた唇に舌を伸ばすとすんなり開いた。口を開くのと同じ間で、瞼が閉じられる。源太郎は舌を奥へ滑り込ませて、粘膜をなぞった。しかし、蘭丸の舌は反応せずにいた。強ばったような動きで、ゆっくりと白い歯を閉じて、源太郎の舌を押し出してしまう。
「…?」
蘭丸は俯いて、源太郎の膝から降りて、隣へ腰掛ける。
「そろそろ、志津殿が起きる頃かも知れません」
「お志津が?」
「はい。色々手伝って下さって、夜遅くなってしまったので、泊まって頂きました」
「そうか」
「源太郎様、もう少しお休みになっていて下さい」
「でも、沢山寝たしな…。それに、まだ話、終わってないだよ」
「それでも、急に活動したら体が吃驚してしまいます。せめて二、三日は安静にしていただかないと。それに……話は、いつでも出来ます」
蘭丸は立ち上がった。源太郎も蘭丸に続く。
「お蘭は?」
「私は朝食の支度をします。唐八殿にはもう少し休んで頂きたいので」
「片腕じゃ辛いだろ。おらも」
「手伝ったりしたら、蘭も源太郎様も、唐八殿に叱られてしまいます」
「ん、分かった」
蘭丸は、母屋の出入り口で足を止め、源太郎を中へ促す。
「必ず、布団に戻って下さいね」
「うん。また後でな」
蘭丸が外で立ったまま待っている。源太郎が中へ戻り、蘭丸から見えない位置で少し待っていると、蘭丸の草履の足音と、勝手口の開閉音が聞こえた。
大人しく部屋に戻るとしよう。源太郎は残りの雨戸を全開にした。闇がぼんやりとした光に溶け込む。
「ん?」
縁側に面した畳が部分的に黒ずんでいた。恐らく泥汚れだが、拭き取ってあるようで、こすりつけた指先には付着しなかった。
「……」
それは、複数の足跡だった。反対側の廊下に続いていた。その向こうには、源太郎が蘭丸と寝起きしていた部屋がある。障子が外されているが、光は届いていない。心拍数を上げながら、歩を進めた。
ぼんやりとした視界。空気がどんより重く、不快な匂いが漂っていた。源太郎は小窓を開けた。北向きの小さな窓では明るさは殆ど変わらなかったが、複数の足跡と壁と畳を覆う大きな黒い染みは見えた。
絶望と幸福。
蘭丸の言葉が蘇る。源太郎は身動きが取れず、重たい空気の中で立ち尽くした。
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