妄想、愉悦。


伍拾漆


  


 病人とは酷く退屈なもので、源太郎は布団の上で体を持て余していた。唐八の部屋にある本が源太郎に読めるはずもなく、よく分からない挿し絵だけ眺めてすぐに棚に戻してしまった。
 寝返りを打つ。布団の中にいることを強制されたが、どう考えても自分は健康体だ。片腕が不自由な蘭丸は、甲斐甲斐しく朝から働いているのにも関わらず、自分ばかりが休息を強いられるのは居心地が悪い。
 結局、蘭丸とは夜明けに薄暗い東屋で共に過ごしただけで、それから顔を合わせていない。志津は明るくなった頃に挨拶だけ交わして帰ってしまったし、唐八も先生も忙しく働いていて、短い診察と配膳の時間を除いて、源太郎は一人で過ごしていた。
 明るい場所で眺めると手首の痣はよりはっきりしていた。つい考え込んでしまう。自分が箱の中で過ごしていた期間の出来事を。考え込んでも仕方がないと、もう一度もとの寝室へ赴いた。そして、今朝よりも明るくなった部屋の変貌をより一層強く目の当たりにすることになった。

「……」

 またもや言葉は出なかった。
 拭き取りきれなかった無数の足跡は、源太郎の草履と同じくらいの大きさだろうか。それらが畳一面に付けられていたが、布団一枚分の箇所にだけはなく、襖が外された菊之助の部屋は、黒ずんだ大きな染みが壁と畳を汚していた。淀んだ空気に混ざる不快な匂いは小窓を開けて空気を通しても残ったままだった。

「げんさん」

 少し遠くで名を呼ばれ、源太郎はすぐに部屋を出た。もとの寝室から離れると、あからさまに空気が軽くなってゆく。

「げんさん、ご飯の時間ですよ」

 戻ると、唐八が昼食を持って来ていた。

「厠ですか?」

 源太郎は返事が出来ず、無言のまま布団の上に座った。

「今朝よりも顔色が優れませんね」

「そんなこと、ないだよ」

「無理しないで下さいね。朝は重湯でしたけど、昼は粥ですよ」

 唐八が椀の蓋を開けた。湯気が立っている。

「もう、普通に食べれるだよ?」

 唐八は口元だけを綻ばせて、取って付けたような笑顔をした。

「駄目ですよ、少しずつ慣らしていかないと。何せ、三日も飲まず食わずだったんですから」

 唐八は源太郎に椀と匙を手渡した。

「さ、食べて下さい」

「唐八は食わないだか?」

「僕はまだ仕事が残ってますから」

「なら、行ってていいだよ。薬も飲むし、膳も片付けとくから」

「いえ。午後は休診なんで、後でゆっくり食べますよ。冷めてしまいますから、食べて下さい」

 源太郎は粥を啜った。匙が不必要な程水分が多いが、味付けは調度良い薄さだった。

「旨い。唐八が作っただな?」

「よく分かりましたね」

「分かる。お蘭と違うから。そういや、お蘭は?朝も顔、見なかったけど」

「げんさんが目覚めたのを、農場の皆さんに報告したいって出掛けてきました。養生所、昨日休んでいたでしょう。今日は患者さんが結構来て忙しかったんです。朝からずっと手伝いしてくれていたから、もう休むように言ったんですけどね」

「そっか。みんなに心配かけちまっただな」

「ええ。心配しましたよ。とっても。でも、一番心配したのは蘭丸君だと思います」

「え?」

 源太郎は、思いがけない名前を耳にして手を止めた。

「本当の名前、教えてくれました。蘭丸君が」

「じゃあ、おらたちのことも?」

「具体的には聞いてませんけど、二人は兄弟じゃなかったってことは分かりました」

「すまね、おら…」

「良いですよ。あなた達が悪い人じゃないって分かっていますから。それに、蘭丸君は、養生所でも、あまり患者さんと関わらないようにしていましたし、素性を隠さないといけない理由もあったんでしょう?」

「うん…」

「食べて下さい。冷めてしまいます」

「ああ…」

 源太郎は粥を流し込む。

「そのまま、食べながらで良いので聞いて下さい」

「ん?」

「蘭丸君とげんさんは、男同士だけれど、一生共にある、伴侶みたいなものなのでしょう?」

「へ?」

「違いますか?」

「いや、違わね」

 随分察しがいい。唐八は、この手の話には疎いものだと決めつけていた。それとも、蘭丸から直接聞いたのだろうか。

「僕はこの年にして、恥ずかしながらそんな相手はいないのですけどね…」

「そげん、恥ずかしいことねえだよ」

「有難うございます。でもね、僕は、もしそんな相手がいたら、全力で、何があっても守ってあげたいって思います」

 唐八の芯の強い口調に、源太郎はまた動作を止めてしまう。

「食べて下さい」

「ああ」

 源太郎は残りの粥を流し込んだ。

「これを」

 紙の包みを差し出す。源太郎は中に入った粉薬を、白湯で飲んだ。

「げんさんは、どう思います?」

「苦いだ」

「違いますよ。伴侶に対してどう思ってるかって話です」

「ああ…。おらも、唐八とおんなしだ」

 唐八は、神妙な顔をした。

「なら、やっぱりげんさんに伝えなきゃいけないと思うんです」

「何がだ?」

「げんさんが小さな箱に閉じこめられていた間に、蘭丸君がどんな目に遭ったか」

 源太郎の動作が何もかも止まった。

「部屋、見たんですよね」

 唐八は静止したままの源太郎と視線を合わせてから、俯いた。

「隠せるものじゃないですし、そのままにしておいたんですけどね。驚いたとは思いますけど…」

 唐八は袖を捲り、手首を見せた。源太郎よりは薄いが、確かな鬱血がある。

「これ…」

「げんさんには、辛い話になると思います」

 唐八は視線を手首に落とし、重い口を開いた。これから語られるのは、あの部屋で行われた出来事なのだろう。複数の足跡、赤黒い染み、不快な匂いをを思い返す。暑くはない、寧ろ涼しい程なのに、源太郎の首筋から汗が流れた。




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