伍拾捌
蘭丸は農場から養生所への帰路を小走りで進んでいた。
源太郎の回復に、孫六も他の百姓も喜んでくれた。礼をしに赴いたのに、見舞いの野菜まで貰ってしまった。片腕を負傷している為少量ではあるのだが、源太郎が新地で得た友人たちの気遣いが嬉しい。今晩は、この野菜を源太郎に食べさせてあげよう。献立を考えていると、足が軽くなる。
大通りの角を曲がると、人影が見えた。ぶつかりそうになり、足を止めると、抱えた籠から野菜がこぼれた。その野菜を大きな手が受け止め、反動でよろける蘭丸の肩を支えた。
「失礼致しました」
「お帰り」
顔を上げると、浴衣の上に羽織を掛けた源太郎が目の前にいた。まばらに生えていた髭も剃って、表情も清々しい。しかし、源太郎は今朝目覚めたばかりだ。養生所まではまだ七町程の距離がある。
「源太郎様、どうしてここに?」
「お蘭を迎えに来ただよ」
源太郎が無邪気に笑って、蘭丸の腕の中の野菜籠を取り、受け止めた野菜を入れて、蘭丸の手を取り、繋ぐ。
「源太郎様、勝手に抜け出したりして、唐八殿に叱られてしまいますよ」
「唐八にお蘭を迎えに行くように言われただよ?」
「え?」
源太郎は蘭丸の手を引きながら、蘭丸が来た道へ進む。養生所とは逆方向だ。
「何処へ?」
「川辺。きっと、綺麗だよ」
「駄目ですよ、帰って安静になさらないと」
「これぐらいなら、安静にしてる方だよ。唐八も、いいって言った」
蘭丸の手を少し強引に引っ張って、進んで行く。
「けれど、蘭は唐八殿のお手伝いをしなければ」
蘭丸は足を止めて源太郎を諫めた。源太郎は唇を真一文字に閉じて蘭丸を見下ろす。怒らせてしまっただろうか。
「わあっ?」
思いがけず、源太郎の肩に担がれる。病人とは思えない力強さだ。
「源太郎様、蘭は歩けます故、下ろして下さい」
源太郎は無言で走り出した。
「源太郎様、安静に、走っては駄目です!」
源太郎は蘭丸の制止も聞かずに走る。何を言っても答えてはくれず、蘭丸は振り落とされないように源太郎にしがみついた。逞しい肩や背に、胸が締め付けられる。
「はあっ」
源太郎は川辺に着くと、蘭丸を下ろして息を整えた。肩が激しく揺れている。
「無茶をしないで下さい」
蘭丸は懐から手ぬぐいを出して、源太郎の額の汗を拭き取る。視線が合うと、源太郎は優しく笑った。
「有難な。だが、お蘭がおらの言うこと聞かないからだよ」
蘭丸もつい釣られて笑い返した。源太郎は、蘭丸の腰を抱き寄せて、川へ近付いた。水嵩も水流も少し強いが、川面はきらきら光っていた。
「綺麗だな」
「はい」
源太郎は平らな所で布を広げ、腰を下ろした。
「ほら、座れ」
「では、少しだけなら」
布はそれ程大きくもなく、身を収めると源太郎と密着することになる。源太郎は、蘭丸の肩を抱いた。
「唐八はゆっくりでいいって言っただよ。今日と明日、午後は養生所休むって」
「え?」
そんな話、蘭丸は聞いていない。
「おらたちの寝床、壁と畳張り替えるって言ってただ。職人が出入りするし、立て込むから、急患以外は受けないって」
「そうだったのですか……」
きっと唐八も蘭丸には直接言い辛かったのだろう。あの部屋は、昨朝以来足を踏み入れていない。
不意に、源太郎は蘭丸の手首を掴んだ。源太郎よりも薄くなった痣を見下ろされて、蘭丸は咄嗟に手を引いてしまった。源太郎は、その手首を拾って、痣を柔らかく包む。
「唐八がな、昨日見たこと全部、おらに話してくれた」
「全部って…」
「うん」
「蘭のことも…?」
「……うん」
唐八が見たもの。汚され、辱められ、体に遺体の一部を埋め込まれ、ひどく取り乱した惨めな様。一番知られたくなかった人に知らされてしまった。
「やだ…」
これ以上源太郎に辛い思いをさせたくないのに。目の縁に溜まった涙が溢れた。蘭丸は立てた膝に顔を押し付けて泣いた。源太郎は肩を抱いたまま蘭丸の頭を撫でてくれていた。
「お蘭、お蘭に何があったか、おらに話してくれねえか?」
「……」
「おら、何があっても受け止めるから」
「……」
「お蘭」
蘭丸は顔を上げられずにいた。何か言わなければ。体が震え、涙が止まらない。源太郎が蘭丸の頤を掴み上げ、涙を拭ってくれた。ゆっくり深呼吸をして、口を開く。
「けれど、源太郎様はお優しいから、きっと、悲しまれると…」
「お蘭」
源太郎は蘭丸の頬を支えて自分に向けた。まだ視界が揺らいで、源太郎の優しい顔がぼやける。
「おら、お前がそげん、簡単に癒えない傷を一人で抱え込んでる方が悲しいだよ」
「……くっ」
また涙が伝い、頬がひりひりした。源太郎に抱き寄せられる。温かい胸板に顔をうずめながら、腕の中で鼻を啜る。
「…蘭は、菊之助や、知らない男達から辱めらけたけれど、源太郎様が殺されたって知った時が、一番辛かったです」
「うん」
「でも、源太郎様は傍にいて下さる。だから、もう平気です」
「平気じゃない」
「……」
「お蘭は平気な振りをし続けられる程、器用じゃない。きっと、平気な振りして、上手く出来なかったら傷付いて、また自分を責めて、もっと傷ついちまう」
源太郎の言う通りだ。蘭丸はもう一度鼻を啜り、覚悟を決めて拳を作った。
何処から話せばいいのだろうか。源太郎は、全て話して欲しいと言った。たった数日間のことなのに、重い。
始まりはいつだっただろう。
「長い雨が上がって、源太郎様が仕事へ出掛けられた日…」
「うん」
「菊之助から源太郎様は暫く帰って来ないと伝えられました」
「おらが、山へ行った日だな」
源太郎の胸に顔をくっつけたまま、蘭丸は頷く仕草をする。
「その夜、菊之助は蘭に自分の過去の話をしました。身売りをしていた母親の嫁ぎ先にいた次男が、失った大切な人なのだと言っていて、蘭は、それを信じてしまったんです」
「うん」
「その翌日、蘭は、体も回復したので、唐八殿に手伝いをさせて欲しいと頼みました。片手が不自由ですから簡単なことしか出来なかったのですけれど。でも菊之助は自分の仕事を取ったと怒りました。怒らせてしまったことで、蘭は何も出来なくて、午後はいつものように縁側で景色を眺めて時間を潰していたら、志津殿がいらっしゃいました。志津殿は焼き栗を下さいました。沢山下さったので、皆さんに配りました。その焼き栗で、蘭は菊之助と仲直りをしました」
ほんの三日前、菊之助はまだ友達だった。気が強くて、けれど優しくて、子供のように無邪気な菊之助。
「焼き栗を剥いて渡すと、菊之助は蘭に謝ったんです。蘭が元気になるのが嬉しい反面辛いって、別れが淋しくなるからって、志津殿が仰ったこととおんなじことを…」
「うん」
源太郎の服を強く握っていた。今の状態で源太郎の顔を見たらきっと喋れなくなってしまう。
「同日の真夜中に菊之助は湯浴みをしていました。風呂上りに、強い酒を飲まされて、蘭は気を失って、昼過ぎまで眠っていました。起きたら部屋が暗くて静かで、唐八殿も先生も、悲しい顔をされていて…。菊之助の用意した源太郎様の代わりの遺体を、源太郎様とお二人は信じていたからでした」
「うん」
「菊之助は、唐八殿のご友人が無惨にも殺されたと蘭に告げて、蘭はそれを信じました」
「うん」
「蘭はその日の夜、眠れなくてふと庭に出たら、ご遺体を埋めた所で、唐八殿が泣いているお姿を見つけました。唐八殿は血だらけの源太郎様の服を蘭に渡して仰いました。この土の中にいるのは源太郎様だと」
菊之助によって創り出された偽の源太郎の訃報。悲しみや恐怖や、全ての負の感情に蝕まれて、無理に蓋をしていた為、思考ばかりが一人歩きしていた。淡々と語るように努めても、あの瞬間は思い出すだけで鼓動が早まり、血の気が引いてしまう。
察したのか源太郎の腕の力が強くなる。
「…蘭は、土を掘り起こそうとしました。でも、唐八殿に止められて…、当たり前ですけれど。けれど、源太郎様がもう居ないなんて、蘭は、考えられなくて…どうしても、確認しなければって…」
「……」
「菊之助が来て、蘭に嘘をついたと謝りました。蘭は、何が嘘なのか分からなくて……いいえ、分からない振りをしました。涙が止まらなくて……気がついたら夜が明けて、寝床に居ました。夢かと思ったら、体が泥だらけで、血だらけの、源太郎様の着ていた服を握っていて…」
大丈夫。源太郎は、今ここにいる。蘭丸は心の中で言い聞かせた。
「唐八殿が着替えさせて下さったあと、蘭は縁側に行って、雨が降っていて…ご遺体が埋まっているなだらかな土の山を眺めていました。でも、ずっと見ていたら、何だか、幾分思考が回復してきて…。感情や現実から目を背ける為ではなく…」
「泣いたから、落ち着いて来たんかな」
「そうなのかも知れません。蘭は、唐八殿に訊ねました。ご遺体がどんな姿だったかを。唐八殿は、知らない方がいいと仰いました。でも、蘭は聞かずにはいられなかった。源太郎様のお姿を見るまでは、源太郎様が土の中にいることは真実にはなりません」
「唐八は、何て?」
「……口にするのがお辛いくらい、惨たらしく…。けれど、蘭の中で希望が確信に…」
蘭丸は源太郎の腰に腕を回した。
「蘭は、土の中を確かめることにしました。唐八殿は最初は止めました。けれど、蘭の気持ちを理解し、手伝って下さって。中は、本当に酷い有様で、でも、不自然さから、蘭はすぐに源太郎様でないことが分かりました」
「不自然?」
「その方の体型は源太郎様に似ていました。唐八殿や先生が気付かないのは当然です。けれど、細かい特長を消す為に、あまりにも手を加えすぎていた」
「加えるって…」
蘭丸は、服の上から源太郎の胸板の中心に指をのせた。
「源太郎様は、ここに小さな黒子があります」
「そうなんか?」
「はい。御自身でもきっと気付かない特長を消す為に、其処を裂いたり切り落としたり…。けれど、何の為にそんなことをしたのか考えればそれだけ不自然だと思いました。可笑しいとお思いかも知れませんが、何もかも中途半端でもありましたし」
「中途半端って?」
見せしめるならば、源太郎とごく親しい者にしか分からない状態にしておくのは不自然だったし、積年の恨みか快楽の為に殺したのであれば、手法が手緩いように感じた。
「…蘭は、もっと残酷に、人を陥れる方法を知っております」
緊張からか、源太郎の喉仏が動いた。こんなことに源太郎を巻き込んでしまったことが悔しい。けれど、今は源太郎の優しさと勇気を信じたい。
少し間が開いて、源太郎から口を開いた。
「菊之助は、夜中にその遺体を用意してから、風呂に入ってたんだな」
「はい。酷く汚してしまったらしく、翌日からはあの見慣れた藤色の着物は着ていませんでした」
「ひでえことするな…」
源太郎は、見知らぬ誰かが身代わりに仕立てられたことに胸を痛めていた。
「……」
あの瞬間はそこで記憶が途切れている。恐らく、菊之助に意識を奪われ、唐八は拘束されたのだ。
「唐八殿のお話は、何処から…?」
「ああ…。菊之助がお蘭の気を失わせて、力ずくで、唐八と先生を物置に閉じ込めたって」
「やはり…。蘭は、気がついたら、寝室に…裸でいて…体が、動かせなくて…」
「うん」
源太郎の声が緊張感を強くし、腕の拘束を強めた。掌の温度を感じて、蘭丸は一度唾を飲んだ。
「……菊之助に、蜂蜜を飲まされました。媚薬入りの、甘くて、体が熱くなって…。蘭が止めても、菊之助はやめずに…」
震える体を源太郎が抱き止めてくれた。蘭丸は深呼吸をする。
「…急に、男が大勢やって来ました。五人いたと思います。男は、鉈を持っていました。大人しくしろ、抵抗したら殺すと言われて、菊之助は怯えていて、体を震わせていました。菊之助がけしかけたことだと今は思います。でも蘭は、その時は気付けずに、抵抗して菊之助が殺されてしまうことが怖くて…」
源太郎に背をさすられた。
「従わないと、菊之助を殺すと脅しました。すぐそばで、菊之助の悲鳴がずっと聞こえて、蘭は……」
源太郎は蘭丸の細い首に柔らかく手を添えた。
「そ、そげん痣も、そいつらに…」
源太郎の声も震えていた。蘭丸は頷く。
「首を絞めると、気持ち良くなると言って、絞められました。苦しくて、本当に死んでしまえたらって思いました。でも、菊之助が殺されたら、何より、死んでしまったら源太郎様を探しに行けなくなってしまいます。死なずとも、意識を失っていればどんなに良かったか。けれど、中に出された後、すぐに手が離れて、それもかないませんでした」
源太郎が蘭丸の頬に手を当て、自分の胸に押し付けた。源太郎の体も震えていた。
「源太郎様…」
「平気だ、続けてくれ」
源太郎は、きっと今蘭丸以上に傷ついている。けれど、これで誤魔化したりしたら、源太郎の覚悟も無駄になってしまう。
「何度犯されたかは、分かりません。次は菊之助を相手にしていた二人が蘭のところへ来て…。用が済むと、蘭を庭に放り出して、帰って行きました。雨が降っていて、とても寒かった。菊之助が気掛かりで、蘭は部屋へ戻ろうとしたけれど、体が動かなくて…。すると、また別の、知らない男がやってきました。その男は、前の五人の男とは違いました。服装も、行動も…。けれど、結局その人も、菊之助を盾にして、蘭を……。終わった後、菊は無事だと告げて、帰って行きました。その男は、菊之助と顔見知りだったようです」
源太郎の鼻を啜る音が聞こえた。
「蘭は、体が上手く動かなくて、這うようにして部屋へ戻りました。菊之助の姿はなく、五人組の連中とも、帰ったばかりの男ともまた別の男がいました」
源太郎は蘭丸の髪を撫でるように手を滑らせた。聞いていることの意思表示なのだと、蘭丸は思った。
「今朝お話した眠っていた蘭を襲ったあの男でした。男の口の中は甘くて、菊之助に、蜂蜜を飲まされていました。菊之助の無事を確認することが出来ずに、蘭はその男にもされるがままになりました。もう、数え切れないくらいされたのに、また体が熱くなって、現実が分からなくなってきました」
犯されていた時、一番辛かった瞬間。
「……その男が、段々、信長様に見えて来て、ただ辱められるより、怖かった」
「…それは、媚薬の効能だな…」
「そうだと思います。それに、その男は、顔立ちや目つきや、声が信長様に似ていました。でも、違いました」
「違うって?」
「似ていたのは、鬼河原の城で、蘭が討った忍びの男でした」
「へ?」
「菊之助が、以前から忍びと似たその男を部屋へ連れ込んでいたのは知っていました。失った大切な人が、その男と似ているとも言っていました」
「なして…、そげん…」
「蘭も分かりません。偶然なのか、それとも私達の足取りを調べて此処へ来たのか。どちらにしろ菊之助は蘭を恨んでいたのは事実です。わざわざ他の犠牲者を出してまで、蘭を辱めました。菊之助は蘭が辱められている最中に、男を殺しました。蘭があの忍びにしたみたいに、簪を首に刺して。けれど、その瞬間、蘭はまだ気付けなかった。菊之助が生きていたことに、ほっとしてしまって…」
「お蘭…」
「今度は、菊之助が、無理矢理…」
「……」
「蘭は、嫌がったのに、菊之助は言いました。源太郎様は、死んでしまったからと。蘭が、源太郎様が生きていることを告げると、菊之助は否定しました」
「何て言っただ?」
「源太郎様は、自分が殺したと。身代わりを用意したのは、源太郎様の体が、あまりにも壊れすぎていたからって。蘭は、混乱しました。菊之助は源太郎様の死を悲しんでいたから、だから、蘭は否定したくて…、認めずにいたら、菊之助は逆上して……。蘭の体を蹴ったり、髪を引っ張ったりされました。菊之助は蘭の本当の名前も、信長様に仕えていた過去も知っていました」
「そげんことまで…」
「菊之助は、自分の身の上を語りました。その時、やっと菊之助の真意が分かって、源太郎様を殺したと言ったのも、事実なんだと…」
込み上げてくる。蘭丸はこらえられなくなった。
「ゆっくりでいいだよ」
源太郎は蘭丸の背中をさする。蘭丸は深呼吸をして、小さく咳き込む。
あの後どうしただろうか。確か、感情が溢れて、全力で菊之助にぶつけた。
「私…」
「ん?」
「菊之助の肩を、簪で刺しました。何度も、何度も…。そうしたら、菊之助は抵抗もせず、笑いながら言うんです。殺して欲しいって。蘭には菊之助を殺す権利があるって。笑っているのに、以前から、時折見せる、悲しそうな、寂しそうな顔をして、蘭は、動けなくなってしまって…」
「うん」
源太郎は子供を宥めるように、ずっと蘭丸の髪や背をさすってくれていた。
「菊之助は、蘭をいくじなしだと冷たく言いました。その後は、菊之助に、また、されるがままに…。もう、蘭には抵抗する力も残っていなくて……」
「そうか」
「酷いことを、されたと思います。けれど、あまり覚えてなくて…。気がついたら、唐八殿がいて、あとは源太郎様が聞いた通りです。口や、体に…」
源太郎が痛いくらいに体を抱きしめた。
「ごめんなさい……」
「なして謝るだ…!」
「蘭は、菊之助を討つことが出来なかった…。源太郎様は殺されてしまったと思ったのに、どうしても…。蘭は本当にいくじなしです」
「違うだよ」
「んっ…」
源太郎に顔を持ち上げられる。顔が空気に触れた。源太郎の顔が近くにある。
「お蘭は、菊之助を友達だと思ってた。そんな風になったって、簡単に切り替えられる訳ないだ」
「……」
源太郎の赤らんだ目尻が、先程まで流していた涙を語っていた。
「お蘭は優しい。菊之助は、その優しさに付け込んで利用した。自分を責めないでくれ。おらは、そんなお蘭だから…。おらこそごめんな。嫌なこと思い出させて。おら、ちゃんと受け止めるから。もっかい、気が済むまで泣け」
「源太郎様…!」
強く抱きしめられ、蘭丸も抱き返して泣き叫んだ。互いの肩に涙が染み込んで行く。泣き続けて、嗚咽が枯れ、涙が止まった頃、顔を上げる。源太郎の涙は止まっていて、優しく微笑みながら、指先で雫を拭き取ってくれた。
「平気か?」
蘭丸は上手く声が出ずに、頷いた。
「唐八が心配するから、戻るか」
源太郎は、蘭丸の裾の草を払って、野菜の籠を拾い、立ち上がった。左手を握られる。
「お蘭、まだ、聞いていいか?」
「はい」
蘭丸は掠れた声で答えた。
「そげんことがあって、なして、おらを迎えに来てくれただ?」
「……」
源太郎が、蘭丸の行動力を不思議に思うのは当たり前だ。蘭丸は、一つ小さく咳をして、答えた。
「信長様が、現れて」
「夢に、か?」
「夢なのでしょうけど、夢よりずっと確かな、けれど、現実よりも不確かで、儚く」
「信長、何て言っただ?」
「何も仰いませんでした。ただ、蘭が縋ると冷たい目をされて、そして、蘭が嘆いたら、今度は笑われて。時折見せる、子供のような無邪気な笑みでした」
「……」
「目が覚めたら、不思議とお腹が空いて、朝食をいただいたら、力が沸いて…」
「信長が、お蘭に力をくれただな」
「きっと」
「なあ」
「はい」
源太郎は足を止めた。道の真ん中の土を草履の裏で均して、細長い枝を拾って、何かを書き始めた。
「信長って、こんな感じか?立派な髷と、短く揃えた口髭と顎髭。広い富士額」
土の上に、いびつな似顔絵らしきものが描かれていく。それは信長の整った顔立ちとはかけ離れていたが、共通する箇所はいくつもある。
「目つきは悪かっただな、眉間に皺が寄ってた。だが、いい男だっただ」
「どうして…」
「ん?」
「どうして信長様のお顔立ちを…?」
「やっぱり、信長だっただな。おら、小さい箱に閉じ込められて、この男にな、もうすぐお蘭が来るから、耐えろって言われただ」
「……」
救出した時発した源太郎の言葉を思い出した。蘭丸の到着を予感していたような口振りだった。
「お蘭が言ってたみたいに、夢より確かで、現実より……、いや、現実以上に確かだった。まだ、その男の威厳のある顔、覚えてるだよ。低くて、よく通る声で…」
「信長様…」
信長が助けてくれた。蘭丸も、源太郎も。蘭丸は、やっと信長の笑顔の真意が分かった気がした。信長は、こうなることを知っていたのかも知れない。蘭丸が、このぬくもりを取り戻せたこと。
「有難う御座います…!」
下を向く蘭丸の涙が、地面の絵にぽたりと落ちた。
「有難う、ございますだ」
源太郎も礼を告げて、蘭丸の頭を抱き寄せた。涙と嗚咽がまた止まらずに、その体制のまま引きずられるように、ゆっくりと帰路を歩いて行った。
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