妄想、愉悦。


陸拾


  


「ふぁ…」

 源太郎は目を開けた。がばっと勢いよく布団をめくり、起き上がる。退屈な三日間を乗り切って、今日から畑仕事に戻ることとなった。とうに元気だったのだが、やっと先生と唐八の許しが出た。
 しかし、部屋はまだ暗く、夜も明けていない。疲れもしてないから短時間で目覚めてしまった。源太郎は伸びをする。

「ん?」

 隣に蘭丸の姿がなく、布団が畳まれている。足元ではまだ唐八が静かな寝息をたてていた。
 源太郎は足音を立てないように部屋を出た。雨戸は開いていない。戸を開け、外を覗くと、蘭丸が濡れ縁に座っていた。蘭丸は源太郎と目が合うと取り繕ったみたいに笑った。
 東の空がうっすらと白くなり始めたばかりで、星もまだある。蘭丸の頬の雫の跡が光っていた。源太郎は蘭丸に笑顔を返して隣に座る。

「どうしただ?」

「目が覚めてしまって」

「おらもだ。でもまだちっと早いな。もっかい、寝ないか?」

「いいえ。実は、酷く汗をかいてしてしまって、敷布を洗ったのです」

 庭の冷たい空気の中、干された敷布と寝間着の浴衣が揺れていた。わざわざ洗わなければならない程の寝汗なのか。蘭丸の額に手を当てると、ひんやりしていた。

「…うなされたんか?」

 蘭丸は俯いた。

「怖い夢を見ました。源太郎様は…」

「ん?」

「見ませんか?怖い夢」

「んー、小さい頃はな」

「そうではなくて、経験した恐怖を、夢の中で繰り返したり」

「ないだよ」

 蘭丸は黙ってしまった。沈黙してから言いづらそうに切り出す。

「裸にされて縛られて、あんな小さな箱に閉じ込められて、水さえも与えられず…。蘭は想像しただけで涙が出ます。源太郎様がそうだったと思うと、なおのこと…」

「確かにつらかったけど、お蘭が迎えに来てくれたから、全部、ふっとんじまった」

 源太郎は蘭丸の目の縁を指で拭った。

「目が覚めたら、あったかい布団の中にいて、体が動かせて、お蘭がそばにいてくれたから、平気だよ」

「源太郎様はお強いのですね。蘭は、源太郎様を見付けられた時、とても嬉しかったんです。本当に。つらいことが全部ふっとんでしまうくらい。なのに…」

 源太郎が肩を抱こうと手を出すと、蘭丸はびくりと体を揺らした。反射的に顔を上げる。恐怖に怯える瞳が濡れて、源太郎と目が合うと悲壮感に顔を歪ませた。
 察した源太郎が手を引こうとすると、蘭丸は源太郎に抱きついた。蘭丸の右腕はまだ回復しておらず、巻き付いた添え木の板が源太郎の肋骨を圧迫した。

「違うんです!」

「うん。分かってるだよ。ほら、腕、力入れたら駄目だ」

 源太郎は蘭丸の腕をそっと剥がして、ゆっくり抱き寄せて震える背をさすった。

「ごめんなさい、源太郎様…。蘭に、触れて下さい」

「触ってるだよ?」

 いくら源太郎を好きだと言っても、思いがけず大きな手が近付いて無条件に恐怖を抱いてしまうのは、また別のことだ。自分自身が拒まれた何て思ったりはしない。

「お蘭…、昨日言ってたな?おらが見つかったから大丈夫だって。けどな、お蘭は自分自身に大丈夫だって言い聞かせてるように見える」

「そんなことありません。蘭は、源太郎様がいるから…」

「でも、夢に見たんだろう?」

「……」

「どんな夢だった?」

「……蘭は、男に囲まれていました。なすがまま、抵抗出来なくて、その様を端から眺めながら、菊之助は笑っていて、でも、泣いていて…。夢だって気付きました。必死に起きなきゃって思っていたら、目が覚めて、汗をかいていました」

「お蘭、怖かったらおらを起こしていいだよ?」

「駄目です。源太郎様は今日から働きに出られるのに、蘭の勝手で起こしては」

「勝手じゃない。おら、お前が一人で抱え込んじまう方が嫌だよ。お蘭に、夢だったんだっておらが教えてやる」

 源太郎は汗ばんだ後頭部を抱き寄せ、自分の胸に蘭丸の顔を押し付ける。

「鼓動、聞こえるか?」

「…はい」

「あったかいか?」

「はい」

「今はこれが現実だ。怖いのは夢だ」

 蘭丸の震えが止まり、源太郎は腕の力を緩める。しかし、蘭丸は顔を上げなかった。

「蘭は嫌なのです、こんなに弱い自分が」

 くすんと鼻を啜っている。涙が源太郎の胸を濡らした。

「弱くないだよ。お蘭はおらを助けてくれたばっかだ」

「ずっと、こんな風に泣いて、源太郎様に甘えて困らせてばかりで」

「ちっとも困ってないだ。なあ、お蘭が言うように強くなったら甘えてくれなくなるだか?したら、おらは困っちまうだよ」

「え?」

 蘭丸は目を丸めて源太郎を見上げた。

「そ、そんなことは…」

「だって、他にお蘭が甘えてくれるの、したがってる時ぐらいしかないしな。でも、だいたいおらからしたがるし」

 蘭丸は頬を赤らめる。涙は止まった。

「…ふふっ」

 そして、すぐに吹き出した。気を抜いて穏やかに笑う姿を久し振りに見た気がする。

「可愛い」

 源太郎は蘭丸の頬に手を添えて熱い目尻に唇を寄せた。

「蘭は、ずっと源太郎様に甘えると思います」

「なら良かった」

「けれど、そう言ったことではなくて、源太郎様のご負担には…」

 はー、と源太郎は大袈裟にため息をつく。

「どうやったら、おらがお前をどんだけ好きか、お前に伝えられるんだろうな」

「え?」

「お蘭がどんだけおらを想ってくれてるか、おらは分かってるつもりだ。でもお蘭の方は、分かろうともしない」

「そんな…。源太郎様は、実直で、表情も豊かで、お優しくて、蘭は…大切にされてるって…」

「なら、分かるだろう?こんなことで負担にはならないだよ」

「源太郎様…」

 再び蘭丸の目が濡れ始める。源太郎は指で雫を拭った。

「こ、これは、嬉しいからで…」

 蘭丸は顔を上げた。潤んだ目と、赤らんだ頬。どきりと鼓動が跳ね上がった。
 蘭丸は源太郎の服を掴んでいた手をくいと引き、合図のように唇を寄せ合った。
 数日前、蘭丸は深い侵入を拒んでいた。源太郎からゆっくり舌を挿し入れると、蘭丸は歯を開き、源太郎を受け止めた。すり合わせて縺れ込む舌は、変わらず小さく滑らかだった。源太郎の心臓がまた跳ね上がって、思わず体を強く抱き締めてしまう。体を密着させながら唇を吸い合っていると、蘭丸も源太郎の腰に腕を回してくる。高まる体温と、速まる心音が直接伝わった。蘭丸の鼓動も、同じくらい速い。

「は…」

 唇を離すと、蘭丸は俯いた。

「どうした?」

 額同士をくっつける。蘭丸の額は汗ばんでいたが、幾らか熱くなっていた。

「少し…恥ずかしいですけれど、とても幸せです」

「おらも」

「不思議です。今、満たされています」

「でも、これは夢じゃないだよ?」

「あんなに怖かったのに、嘘みたい」

 蘭丸は睫を伏せた。瞬きが重くなり、目がとろんとしている。

「眠いだな?部屋戻って、もっかい寝よう」

「敷布を洗ってしまいました」

「せっかく寝間着に着替えたんなら、寝なきゃ勿体無いだよ。おらの布団で一緒に寝よう。唐八よりも早く起きればいいだ」

 源太郎は蘭丸の返事を聞かず、蘭丸を抱きかかえ立ち上がった。

「今、眠ったら、沢山、寝てしまいそうで…」

「眠ってていいだよ。朝飯はおらが作る」

「いいえ。働きに出られる源太郎様はともかく、蘭はただの居候です。皆様より遅くまで眠ったりしたら…」

「分かった。おらが起こしてやる。必ずだ」

 蘭丸の真面目さにもどかしくなることがあるが、微笑ましくもある。
 蘭丸は納得して、共に唐八の寝室に戻り、同じ布団に潜り込んだ。蘭丸の体を包み込んで、密着していると、蘭丸はすぐに眠ってしまった。

 正直な話、源太郎にだって受け入れ難い恐怖はある。以前、源太郎の目の前で蘭丸は陵辱されたことがある。けれど、蘭丸は健気に耐えて平気な振りをした。そして、数日前にはもっと酷い仕打ちを受けたことを告げられた。思い返すだけで涙が出ることが、沢山ある。

「助けられなくて、ごめんな」

 源太郎は小さく声にした。
 いつもそうだ。廃寺で出会って、蘭丸は源太郎を恩人と言ってくれたが、逃れられたのは仲間だった男達の慰み者にされて随分経った後だったし、志津の時も、菊之助のことでも、総て為された後に知った。仕方のないことなのかも知れない。しかし、自分を不甲斐なく思ってしまう気持ちは変わらない。
 雫が蘭丸の頬に落ちた。水滴を受けて、蘭丸の肌がぴくりと動いた。源太郎は慌てて自分の目を擦って、濡れた頬をそっと拭った。安心しきった、幸せそうな寝顔。

(救われてばっかなのはおらの方だな)

 もうすぐ夜が明けるが、このままもう暫く眠らせておきたい気分だった。





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