陸拾参
「源太郎様」
目の前に蘭丸の顔がある。
「ごめんなさい、起こしてしまって」
「へ?」
一瞬、あの笑顔で溢れていたひとときは夢だったのかと思った。しかし、体を起こしてみると、やはり宿の広間にいた。膳や座布団は片付けられ、数人が雑魚寝をし、その上に布団が掛けられていた。
「蘭は養生所に戻ろうと思います。源太郎様はいかがなさいますか?」
「ん…、お蘭が帰るなら、おらも帰るよ。唐八は?」
「随分飲まれたので、部屋をお借りしてもうお休みになられました。養生所の鍵は預かっておりますので」
「分かった」
短時間でも深く眠ったせいか、頭がすっきりしている。蘭丸は帰り支度を終えていて、源太郎に上着を着せ、少ない荷物を持って立ち上がる。
門前で男性従業員に見送られながら宿屋を出た。百姓の朝は早い。普段ならとうに寝ている時刻だが、まだまだ街は明るく、人通りも残っていた。なるべく源太郎は蘭丸の近くを歩いた。
「お蘭」
源太郎は声をかけ、蘭丸の荷物を取った。
「重くないですよ」
「いいから」
「有難うございます」
蘭丸からも源太郎に歩み寄り、肩が擦れ合うと頬を染め微笑んだ。
「月が綺麗ですね」
「ああ」
蘭丸が空を見上げると、大きな瞳に光りを灯していた。源太郎がその横顔を眺めていると、蘭丸と視線が合う。蘭丸は源太郎の顔を見つめたまま切り出した。
「源太郎様、唐八殿から窺ったと思いますが、今日の宴は、菊之助の置いていった…」
蘭丸の言葉が途切れ、察して源太郎が口を開く。
「ああ、そのことか。ありがとうな。みんな、すっげえ楽しそうだっただよ。おらだったらこんな有意義な使い方、思い浮かばなかった」
蘭丸はほっとしたように笑った。
「相談もなく決めてしまってごめんなさい」
「いいだよ」
「けれど、まだ余ってしまって…。唐八殿は好きに使うように言って下さいましたが…」
「今度、何に使うかゆっくり考えような」
「はい」
蘭丸は頷いた。
段々と人気がなくなり、源太郎は蘭丸の手を握った。蘭丸はまたにこりと笑顔を向ける。
「源太郎様、酔っていましたけど、さほど飲んでいなかったのですね」
蘭丸はくすくすと笑っていた。
「おら、酔ってたか?」
「酔っていましたよ。覚えておいでですか?」
「宴会のことか?覚えてるだよ」
「…蘭は、人前でだから嫌がったのです」
「何が?」
「源太郎様がくっついたりなさることです」
「ああ。弥太郎には嫌じゃないって言ってただよ?」
「人前では嫌です!」
「分かってる。今だって人いなくなってから手、握ってるだろ?」
「分かってるのに、悲しそうに嫌かって聞くのは狡いです」
「ごめんな。やっぱ酔ってたんだな、抑えられんかった」
「それから、今日仰って下さったことは、酔っていない時に聞きたかったです」
「何か言ったか?」
「お、覚えてないのなら、結構です」
珍しく勢い良く喋っていた蘭丸は、ばつが悪そうに俯いてしまった。しかし、名前を呼ぶとすぐに顔を上げる。
「お蘭」
「何でしょう」
「今日はずうっと働いて、疲れてないか?」
「疲れてないですよ。働いていたのは宴が始まるまでですし、皆様と話したり、小さな子と遊んだりしました。蘭もとても楽しかったです」
「お蘭は子供が好きなんだな」
「世話を焼くのには慣れていますが、子供だからと言うより、源太郎様のお仲間ですから…。皆様の空気があったかくて、好きなんです」
「そっか?孫六の子供、随分可愛がってるように見えたけど」
蘭丸は照れくさそうに笑った。
「それは、あの子が可愛いからです。孫六殿を初めて見た時も思いましたが、弥太郎君が源太郎様と似ていて」
「おら、あの二人と似てっかな?」
「はい。雰囲気や、表情の作り方が。あと、性格も似ています。正義感が強くて、素直で優しくて。可愛くって蘭もつい構い過ぎてしまいました」
蘭丸を守ろうとした弥太郎の小さな拳と、蘭丸を想うひたむきな目を思い出した。あの時、弥太郎にとって源太郎は助平な酔っ払いにしか見えなかっただろう。
「きっと、弥太郎君は源太郎様のような青年になります」
「孫六に似ただけだよ」
「そうですね」
「お蘭」
源太郎は足を止め、蘭丸を抱き寄せた。
「おらの大事な女は、おのこのお蘭だけだ」
蘭丸は源太郎を見上げ、目を見開いた。そして微笑む。
「何だか、改めて聞くと妙な言葉ですね」
「だな。素面だったら出て来なかったかも。だけど本心だ」
「はい。とても嬉しいです。本当は、皆様の前で宣言された時も嬉しかったのです。けれど、恥ずかしさが先立ってしまって、あのような態度を取ってしまいました」
満面の笑顔を向けてから、源太郎に抱き付き、頬を胸にうずめた。
「可笑しいですよね。女性に間違えられるのも、女性扱いされるのも嫌いなのに、こんなに嬉しいだなんて」
「おらの服、汚いだよ。汚れちまう」
「先は源太郎様からくっついてきたではありませんか」
「それもそうだな」
二人で笑い合う。視線が合った時、また蘭丸は恥ずかしそうに視線をさまよわせた。
「白状しますと、本当は志津殿に妬いていました」
「うん。知ってた」
「けれど、源太郎様の考えは的外れです。お二人は本当に親友なのだと分かります」
「じゃあ、なして妬いた?」
源太郎は蘭丸の頬を指先でつついた。
「志津殿は蘭の知らない幼い源太郎様を知っているのが、羨ましくて」
「へ?」
「源太郎様が志津殿を友だと思うのは、本心だと知っています。先もお二人で話していた時、小さな頃からあんな風に過ごしていたんだって思って…。幾ら願っても、小さな源太郎様に会いに行くなんて出来ませんから。なので、弥太郎君にああ言われて、少し嬉しかったです。何だか、小さな源太郎様に言われたみたいで」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど弥太郎が可哀相だよ。すっげえ真剣だったのに、お蘭は弥太郎を通しておらを見てる」
「確かに一生懸命でしたけど、やっぱり子供です。きっと、蘭のことはすぐ忘れてしまうと思います」
「いや、忘れないだよ。きっと、お蘭のこと求めながら大きくなると思う」
「大袈裟ですね」
あんなに真っ直ぐな言葉で告げたのに、全く相手にされていない弥太郎が不憫だったが、蘭丸の眉尻が物憂げに下がっていることに気付いた。蘭丸は深入りしないようにしているのかも知れない。弥太郎がどんな大人になろうと、その成長を見守ることは出来ないのだから。仲良くなってはそれだけ別れが辛くなる。
「お蘭」
「はい」
「帰ったら、背中、流してくれるか?」
蘭丸は眉の形を戻して、すぐに答える。
「勿論良いですよ。でも、水を汲んで湯を沸かさなければならないので、時間がかかってしまいますよ」
「良いだよ」
「では、早く帰りましょう」
源太郎の一言で蘭丸の気分が切り替わったみたいだ。
また手を繋いで、帰路を歩いていく。蘭丸は、源太郎が今朝思い切って告げた言葉を覚えているだろうか。
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