陸拾伍
まだ体も頭も怠い。蘭丸は朝食の俵型の握り飯を口に押し込み、白湯で流し込みながら呑み込んだ。源太郎は既に四つ目を手に取っていた。
「お蘭、これ美味しいだよ。赤いやつ」
「いえ、蘭はもういっぱいです。源太郎様、召し上がって下さい」
「駄目だよ、しっかり食わなきゃ。また痩せちまう」
源太郎の言う通りなのだが、いつもより睡眠時間も短めで、何より精を出し尽くしてしまったので、食べる元気もなかった。こんな時、源太郎が作る粥であれば喉も通るのだが。
「お蘭、食欲ないなら粥、作ろうか?」
「え?」
「粥だったら入るだろ?おら、作ってくるだよ」
「いえ、そんなことをしたら、時間が遅くなってしまいます。蘭は大丈夫です。少し経ったら、またお腹も減ると思いますし、その時に頂きますから」
蘭丸は源太郎が勧めた赤い握り飯を自分の皿に取る。
「まだ召し上がりますか?」
「うん。その端の二つ」
蘭丸は源太郎の皿に握り飯をのせ、残りを包んで、源太郎の手荷物の中にしまった。
「ありがとな」
源太郎は二つとも美味しそうに食べていた。その姿だけで蘭丸を安心させてくれる。
朝食兼弁当の握り飯は、昨夜帰り際に宿屋の女中が持たせてくれた。朝の炊事の分だけはゆっくり出来たが、蘭丸にとっては十分な睡眠を取れたとは言えなかった。
しかし、体はだるくとも気持ちの面では別で、どことなく心がふわふわしてしまう。
そして、昨夜はあんなに求めていた癖に、今は源太郎と目が合うだけで気恥ずかしい。
いつものように裏門から源太郎の見送りをする。
「唐八か先生が来るまで待ってるか?」
源太郎はまだ蘭丸を一人きりにさせておくのが心許ないようだった。
「お二人とも飲んでいましたし、いつ来られるか分かりませんよ?お仕事に遅れてはお仲間に迷惑をかけてしまいます」
「分かった。でも、中にいる時は鍵かけとくだよ?」
「はい。裏門だけ開けておきます」
「裏門も閉めておけ」
「蘭が裏庭にいる時だけそうします」
「ん」
源太郎は納得したように頷き、一歩進んで門前で振り返る。僅かに源太郎も頬を染めている。同じことに喜び、胸をときめかせることが堪らなく嬉しい。蘭丸は源太郎の胸に飛び込んで、顔を上げた。顔が近付いてきて、目を閉じた。短い触れ合いで終わり、目を開けた。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
源太郎は走って行って、後ろ姿もすぐに見えなくなった。蘭丸は門をくぐり、閂を掛けた。ぐーっと伸びをすると、何も付けていない右腕が痛んだ。
ぬるま湯で汚れた敷布や服を洗い、裏庭に干し、庭の雑草を毟った。草を袋に纏め、手を洗う。普段ならば養生所を開ける時刻だろうが、唐八も先生も帰って来ない。蘭丸だけで患者を迎え入れる訳にもいかず、掃除をしようと閂を外して屋内に戻った。
私物を唐八の部屋へ置いたままだったことを思い出し、赴くと変わらない場所にひとまとめにされていた。新たな寝室へ運び、中身を確認する。
「あ」
旅立ちの日に買った源太郎の服。蘭丸は手に取り、胸に抱いた。ほんの少し前のことなのに、懐かしく感じる。結局、この服はあの日着たきりだった。
服を畳へ置いて、荷物に手を伸ばす。残りは帯と、同じ日に買った護身用の短刀と小銭が数枚入った巾着だけだった。
「あれ?」
唐八の部屋に忘れてきたのだろうか。しかし、唐八の部屋はきちんと整頓されているし、他に蘭丸らの私物らしきものは見受けられなかった。唐八の私物を漁る訳にもいかず、蘭丸は掃除に戻ろうとまた表へ出た。
毎日掃除もしているから、台所も畳も廊下も庭も綺麗だ。するべきことが見つからず、蘭丸はまた閂を掛けてから日の当たる縁側に座り込んだ。
退屈。しかし、なくし物は気にはなるけれど、心は穏やかだ。この場所で見知らぬ男から辱めを受けたのに、一人でも平静でいられる。
(源太郎様…)
心の中で名を呼び、目を閉じる。ひなたの匂いは無条件に源太郎の笑顔を甦らせる。まるで、目の前にいるみたいにはっきりと。瞼にその姿を焼き付けたまま、蘭丸の意識は遠退いていった。
………。
蘭丸は夢を見た。しかし、夢とはまだ気付いていない。目の前の光景が、生々しい恐怖を与えた。
複数の男が、何かを囲っていた。蘭丸は確かめる為に恐る恐る歩み寄る。男たちの間から、生白い脚が伸びている。
「……!」
あれは、男たちから辱めを受ける己の姿か。蘭丸は目を逸らすこともできず、固唾を飲んだ。すると、脚と同様に白い手が、男の後頭部を掴み、引き寄せていた。
「菊…」
明るい色のまとめ髪は乱れ、赤くふっくらした唇を相手に押し当てながら、その人は薄青の瞳をこちらに向けた。
蘭丸はその場で固まった。菊之助は別の男の口を吸いながら、まばたきの度に視線を変え、蘭丸を一瞥した。
男たちは蘭丸の存在に気付いておらず、澱んだ視線を菊之助に注いでいた。一人が豪奢な着物の襟を無理矢理広げ、柔らかそうな胸板を露わにさせ、舌を這わせる。もう一人は飾りのついた簪を抜き取り、はらりと落ちた髪で隠れた首筋に吸い付き、またもう一人はむき出しの脚を担ぎ上げ、脚と脚の間に入り、腰を打ち付ける。
「ああんっ」
聞き覚えのある嬌声が響いた。それを塞ぐように、肌を舐っていた男が立ち上がり、自らの剛直を口に押し込んだ。
「んむうっ!」
くぐもった悲鳴に変わる。上下それぞれの男が腰を動かす度に、蘭丸の耳をつんざいて、心を抉っていく。
やめて。見たくない、聞きたくない。けれど、蘭丸は逃げることも、目や耳を塞ぐことも出来ずにいる。
菊之助の顔や体に、汚れが蒔かれる。更に帯をむしり取られ、白い裸体が力無く投げ出された。肉体の美しさとあいまって、まるで精巧な人形のように見えた。
「菊殿…?」
蘭丸が殆ど呟くように名を呼ぶと、虚ろだった眉目が反応した。雫が耳に落ち、白糸を垂らした唇が文言を刻む。
たすけて
声にならない声が届いた。
「菊殿!」
伸ばした右手はお日様に向かっていた。
「痛い……」
手を下ろして、深呼吸をする。また嫌な夢を見た。そう、夢。あれは、現実なんかじゃない。
意識を落とす直前までは、源太郎の笑顔が傍にあったのに。
菊殿。慣れ親しんだ呼び名を咄嗟に口にしていた。
「……」
情景が蘇り、男に囲まれた菊之助の姿が、辱められた自分と重なった。思い出された匂い、味、感触、全てが不快で、こみ上げる。蘭丸は口を抑えて、吐き気をこらえた。
「違う、あの姿は、蘭じゃない…」
あれは菊之助だった。
「夢だ、ただの…」
口に出して自分自身に言い聞かせ、顔を上げて深呼吸をした。まだ心音は早い。掌を胸に当てた。
「大丈夫、大丈夫…」
もう一度深呼吸をする。その時、こつん、と遠くない場所で何かが鳴った。
「蘭丸君、いるー?」
門の向こう側から、唐八が声をかけてきた。
「はい、おります!」
唐八が帰ってきた。蘭丸は慌てて駆け寄り、閂を外した。
「ただいま」
「お帰りなさい、唐八殿」
唐八の和やかな顔に、少しほっとした。蘭丸が唐八の荷物を取ろうとすると、唐八は腕を引いた。
「包帯、取っちゃったの?」
「あ、湯浴みの時に外して、そのままでした…」
「巻き直さなきゃ。中で待ってて」
唐八は水を汲みに井戸へ歩いていく。まだ気持ちが不安定で、数分でも、出来れば一人でいたくはない。しかし、言えることが出来ずに唐八の後ろ姿を見つめた。
「あ、ねえ」
唐八がくるりと振り返る。
「やっぱりさ、水、運ぶの手伝ってよ」
優しい笑顔を向けた。唐八は恐らく蘭丸の不安感を察していた。しかし、何気ない気遣いが嬉しかった。
「はい」
笑って駆け寄り、一緒に井戸へ向かう。唐八は桶に半分だけ水を汲んでいた。
唐八に包帯を巻いて貰い、腕を吊った。多少動くようになったが、まだ安静にしなければならないと念を押された。
「昼はもう食べた?」
「昼…?もう、かような時刻でしたか」
「その分じゃまだみたいだね。良かった、志津さんが持たせてくれたんだ」
唐八が荷物から包みを出し、開く。三角の握り飯がのっていた。
「今、あまり食欲がないもので、あとでいただきます」
唐八が蘭丸の額に手を当ててきた。
「顔色が優れないね…。熱はないみたいだけど」
「朝、食べ過ぎてしまっただけですから」
「ならいいけど」
唐八は空腹だったらしく、握り飯を食べ始めた。
「あの、唐八殿」
「ん?」
「鍵、知りませんか?こちらにお世話になる時、持ってきた鍵の束を探しているのですが」
「鍵?」
「はい。荷物を整理しても、見つかりませんでした」
「僕は見かけてないけど」
「そうですか…」
唐八が知らないとすると、源太郎が隠し持っているのだろうか。若しくは、菊之助が見付けて持ち出したか。
「その鍵、ないと困るの?」
「いえ、私にはもう必要のないものです。どこにあるのかってふと思い出して、探していただけです」
「何の鍵だったの?」
「…以前、少しだけ過ごした場所です」
「なら、僕も後で探すの手伝うよ」
「いえ、本当に、もう必要ないですし、その場所に戻ることはありませんので」
「そう?」
「はい」
蘭丸は頷いて、これ以上余計な心配をかけないように笑顔を向けた。
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